10_切手のコレクションとは?_ J.D.サリンジャー「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」考察
Q. Xが切手のコレクションを眺めるというのはなぜか?
「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」の後半で、Xは一緒にラジオを聴こうというZの誘いを「切手のコレクションを眺めるから」(171)と冗談をいって断ります。これはなぜでしょうか。
本稿の解釈はこう。
A. 引き裂かれた心を癒す手紙を待っているから。
以下に理由を述べます。
J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解をマガジンで連載しています。こちらの記事から読んでいただいてもお楽しみいただけますが、01から順番にお読みいただく場合は下記よりご覧ください。(今回と次回だけ「エズメ」→野崎訳の「エズミ」にしてみていますが、どちらも同じEsméのことです)
1 筆まめな連中ばかり
「エズミ」の冒頭、語り手は航空便で、エズミからの結婚式への招待状を受け取ります。また、イギリスで一緒に特殊訓練を受けている六十人の兵士について「そろいもそろって、人一倍筆まめな連中ばかりで、勤務外のことで話しかけるとすれば、たいてい、使っていないインクの有無を尋ねるものと相場がきまっている」(139)と、手紙ばかり書いている様子が語られますね。
前半で語り手は妻・義母からの手紙を読み、エズミは「父は名文家でしてね」「わたし、父の手紙をたくさん後世のためにとっといてあります」(155)といい、後半ではXが兄からの手紙に気分を害し、Zとはロレッタからの手紙について話す。
これらがすべて、最終的にエズミとチャールズからの手紙でXが癒されるというエンディングへと向かっていく。故郷を離れて戦地で戦う兵士たちにとって、大切な通信手段である〈手紙〉が、「エズミ」では、重要なキーワードになっています。
2 古文書蒐集
サリンジャー作品の背景には、神話的な世界観があることは、過去記事で見てきたとおり。神話では、目に見える現実・現世・此岸の向こう側に、目には見えない世界・彼岸・冥界があるという世界観があります。こちら側で命を落とし、肉体が滅んでも、魂はあちら側で生き続けるという感覚ですね。実際にあるかどうかは分かりませんが、神話では伝統的にそう語られてきた。
サリンジャー作品では、彼岸世界がユングのいう集合的無意識や芸術の世界ともつながっています。例えば、「逆さまの森」で最高の詩人として登場するフォードは、この世界にアクセスできる人ですね。幼いころに受けた精神的な傷のせいで、心が逆さまに育ってしまい、精神世界の奥深くまで潜り込むことができるようになった。ゆえに、現世に生きながら集合的無意識の世界に入り込んで、素晴らしい詩を書くことができる。そのかわり、現実世界を正しく見るのは苦手で、妻コリーンの素晴らしさに気づかず、間違った女性の手に絡めとられてしまう。
「シーモア-序章-」では、鏡文字を書いていたレオナルド・ダヴィンチ、耳を病んで現世の音が聞こえなくなっても、歴史に残る名曲を残したベートーヴェン、精神的な問題を抱えながら神話の元型を思わせる色彩で描き続けたゴッホら、集合的無意識にアクセスしていたような感覚のある、つまり古今東西の神話に共通するモチーフを扱った作品を残した芸術家たちは「病める人」であり、同時に「詩人の語彙を身に着けていた」(145)と語られます。
サリンジャー作品において、〈詩人の語彙〉とはユングのいう神話の元型のこと。集合的無意識にある普遍的な型のようなものを使って、詩・絵画・音楽・彫刻など何らかの表現をできる人が、サリンジャーのいう芸術家なのだと思う。
そして、そんな神話的な語彙を使って行われる表現は、病んだ精神を回復しようとする働き、逆さまの森と化した心が現実世界へ浮上しようとする働きと結びついていると考えていたのだと思う。ユングが神話研究に向かった理由もそれだし、単純に、毎晩一日の疲れを癒すために眠って脳が夢を見る動きと同じですよね。
素人なので、個人的な感覚でしか説明できないんですけども、フィクションを読むのにもたぶん、同じ効果がある。タイパとかコスパとか、即物的に考えれば、虚構の物語を読んだり見たり聞いたりして、現実世界に一体何の役に立つのか、時間もお金も無駄じゃないのかと思う。けれど、心が疲弊したときなんかに共感できる小説を読んだり、日常からかけ離れたドラマに没頭したり、あるいは自分で創ったりすると、癒される感じがすることがある。サリンジャー自身もそういう作品を書きたいと望み、それが自分の精神を癒すことだとも感じていたように思います。
神話学者のジョーゼフ・キャンベルによれば、現世が善と悪、光と闇、白と黒などの二元世界として語られるのに対し、彼岸世界はすべてが混沌に還る一元世界として表されるのだそう(G)。「エズミ」で精神的に追い詰められて、XとZに分裂してしまう語り手が冥界巡りをしていることは、下記でみたとおり。彼もまた「病める人」のひとりであり、神話的な一元世界に一時的に迷い込むことで、分裂したもう一人の自分を包摂し、癒されようとしているのではないでしょうか。
そして、この物語で、エズミの父親が「古文書の蒐集家」で、「語彙の豊富な人だった」(154)と書かれているのは、エズミの父が、集合的無意識にアクセスできる芸術家的な性質を持った人だったことを意味するのだと思う。精神的に傷ついた語り手とエズミは、降霊会を通じて一緒に冥界へ降りていき、そこで集合的無意識の一元世界へ呑み込まれる。それは精神的な分裂、地獄めぐりのはじまりであるとともに、今は亡き人々が記した古文書、太古から語り継がれてきた神話世界とつながることで、癒しへ向かう道でもあるわけです。
エズミの父が蒐集していた古文書と手紙は、いずれも集合的無意識にアクセスするアイテム。以前も書きましたが、サリンジャー作品では、直接会話に対し、手紙・電話を通した間接会話が無意識の世界を経由したコミュニケーション、現実を超えた深い世界でわかり合うこと、精神的に結びつくことを意味します。
この作品ではアメリカとイギリスやドイツとの手紙のやり取りを介して、集合的無意識が世界的・普遍的なネットワークへと広げられています。さらに、Zの恋人ロレッタからの手紙が「楽園から from a paradise」送られてくるとあることで、それが現実を超えた彼岸世界・集合的無意識の彼方を介して届くメッセージであるかのような感覚も演出されているように思います。
3 悪い手紙、良い手紙
前半で語り手が読む妻・義母から来た手紙に書いてあったのは、レストランのサービスが悪くなったという愚痴や、カシミヤを送ってほしいという要望ばかり。これから戦地へ赴き、命をかけて戦おうとする義理の息子・夫に対する思いやりの言葉は見られず、このことが語り手の心を憂鬱にします。
また、後半のはじめにXが読む兄からの手紙にも、「子供たちに、銃剣や鉤十字章を二つ三つ送ってくれないだろうか……」と記されている。これは、ドイツで強制収容所の惨状を目の当たりにしたXにとっては、直ちに破り捨てたくなる手紙で、XとZへの分裂はこの手紙が直接の引き金になっているようにも思えます。これらは端的に、〈悪い手紙〉といえるでしょう。
対して、作品の最後にエズミとチャールズからXへ贈られてくる手紙は、思いやりや純粋な愛に満ちた〈良い手紙〉。Zの汚れた発言のせいでXの精神が限界を迎えそうなとき、エズミからの手紙が彼を救う。伯母が「喉の連鎖状球菌にやられた」(174)せいで、汚れた大人の声は排除され、エズミとチャールズの美しい声だけが聞こえてくる。地獄を彷徨っていたXは、前半でエズミの歌声を聴いたときと同じ、天国のような心地へ誘われる。
兄からの悪い手紙=戦争の悲惨で汚れた記憶(squalor)も、エズミからの良い手紙=病んだ心を救う愛(love)も、地球の裏側ほども離れた遥か彼方から、集合的無意識のネットワークを通過して届く。ラカンがエドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」についていった「手紙は必ず届く」という表現を借りるなら、「エズミ」は汚辱に満ちた記憶、愛や希望も、どちらも必ず届くことが示されている物語と言えるのかもしれません。
4 賢者の石としての手紙
これを精神的な錬金術に置き換えるなら、良い手紙は分裂した心を統合する賢者の石、悪い手紙は精神を動揺させ、分裂させるいわば逆・賢者の石のような役割を果たします。シェイクスピア作品で出てくるグリーンや、白魔術と黒魔術と同じですね(下記参考)。
仲間の兵士たちが「使っていないインクの有無を尋ねる」という言葉からは、シェイクスピアの『リチャード三世』の最後に、リチャード三世とリッチモンドが鏡合わせで「インクと紙を持ってこい」という場面や、『アントニーとクレオパトラ』でクレオパトラが「インクと紙を持ってきて!/あの人(愛人アントニー)には毎日手紙を出すわ」(52)という場面を想起させます。
シェイクスピア作品において、インクと紙は重要なモチーフ。それらは〈手紙 letter〉を書くアイテムであり、手紙とは、個々人の言葉・思考体系・世界観、それらの象徴である〈letters 文字〉が記されたもの。letters が届けられたり、読んだり、新たに書いたり、破いたりする行為を通して、登場人物たちの心境の変化が表現されています。
良い手紙と悪い手紙も、シェイクスピア作品に見られるもの。例えば、『ロミオとジュリエット』。ロレンス神父からロミオにあてて書かれた、ジュリエットは仮死状態であるという手紙は、使者が思わぬ足止めをされてしまったために届かない。ゆえに重要なメッセージが伝わらず、ロミオはジュリエットが本当に死んでしまったと誤解して、自殺をしてしまう。夫婦を死別させた、引き裂いた、悲劇の原因という意味で黒魔術的な悪い手紙。
反対に、ロミオとジュリエットの死後、ロミオから父親にあてた手紙は正しく届きますよね(223)。そして、その手紙がきっかけでモンタギュー家とキャピュレット家には和解がもたらされ、分裂していたもの統合されて、物語は終結を迎えます。若い夫婦の死という悲劇が消えるわけではないものの、これはいちおう良い手紙、白魔術的な力を持つ手紙だったといえるのではないでしょうか。
あるいは『リチャード三世』の最後。自分を馬鹿にする紙片(260)を見つけたリチャード三世はその後の対決で負けて命を落とし、重要な書状(238)を書いて使者に届けさせるリッチモンドは勝利する。作中には「伝令の神マーキュリー」(87)という言葉も出てくる。マーキュリーの采配によって、悪魔的なリチャード三世には、悪い手紙が届けられて破滅し、リッチモンドは新しい紙にインクで、新しい世界観を描きだして、次のリーダーとして君臨していく。
サリンジャーの「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」や「シーモア-序章-」には、インクと対の紙についての記述もあり、サリンジャーがシェイクスピア作品の手紙・紙・インクの役割を意識していた可能性は高いと思います。
「エズミ」に複数出てくる手紙も、これらから影響を受けて書かれた部分が大きいのかもしれない。Xが「切手のコレクションを眺めるから」(171)と奇妙な冗談をいって、一緒にラジオを聴こうというZの誘いを断るのは、悪い手紙で傷つき、分裂した心を癒してくれるような、良い手紙が届けられることを待っているからではないでしょうか。
そして、Zが去った後、便箋に何かしたためたい衝動にかられたものの、タイプライターのローラーに紙を挟むこともままならず、便箋を握りつぶし、激しい動悸にしばし目を閉じて数分をやり過ごすひとときは、Xが、自分にはまだ新しいlettersを書く力がないことを思い知る最悪のひととき。
再び目を開けたとき、封をしたままの手紙が二十四、五通、小包が五、六個はのっている机から、彼がすがるように取り上げたのが、緑色の紙に包まれた小包であるのは、そこに自分の病んだ精神を癒す可能性を求めたからだと思うのです。
今回はここまで。お読みいただき、ありがとうございます。次回は「シーモア—序章—」に描かれた手紙の意味を考察したいと思います。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
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