11_ J.D.サリンジャー「シーモア—序章—」擬人化された手紙~「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解のために
Q. 「シーモア—序章—」の擬人化された手紙とは?
前回みたとおり、「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」では〈手紙〉がキーワードのひとつになっています。同じくサリンジャーの「シーモア—序章—」では、手紙(作品の原稿を入れた封書)について、「切手だとかマニラ封筒を使わずに向こうまでとどけたい」「私はただそれに汽車賃を払ってやり、たぶんサンドイッチも包んで、魔法壜にちょっと何か温かいものを入れてやれるはずだ……」と奇妙に擬人化された表現で語られます。今回はこの表現について考察してみたいと思います。
本稿で示したい解釈はこう。
A. 手紙や書物、言葉の集積が人だという考え方がポイントなのでは。
以下に理由を述べます。
J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解をマガジンで連載しています。こちらの記事から読んでいただいてもお楽しみいただけますが、01から順番に辿りたい方は下記よりご覧ください。(この数回だけ「エズメ」→野崎訳の「エズミ」にしてみていますが、どちらも同じEsméのことです)
1 手紙とマーキュリー
今回も、サリンジャー作品の手紙・言葉・文字の意味を考えるために、まずはシェイクスピア作品の例から見ていきたいと思います。前回、手紙は人の心を引き裂くこともあれば、引き裂かれた心を癒し、統合と再生へ導くこともある、錬金術の〈賢者の石〉のような役割を持つと述べました。そのときにも触れた『リチャード三世』には、「伝令の神マーキュリー」(87)という表現がありました(詳細下記参照)。
伝令の神マーキュリーもまた、手紙それ自体と同じ。離れ離れになった人にメッセージを届けて、心を引き裂いたり、結びあわせたりする。つまり、相反する二極を結ぶ三つ目の要素。三位一体において父(神)と子を結ぶ精霊、ノアの方舟神話で吉報を報せに来る鳩とも重なる存在です。手紙やそれを運ぶ使者もまた、シェイクスピア作品において重要な役割を果たします。
2 キューピッド
シェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』は、タイトルにある二人の恋が一度は結ばれ、後に引き裂かれるドラマがひとつの軸。そして、二人を結ぶ〈キューピッド〉という言葉がキーワードになります。以下はトロイラスに恋をするクレシダと、それを取り持とうとする叔父パンダロスとの会話。
クレシダ 手みやげは?
パンダロス うん、トロイラスの愛の印だ
Ay, a token from Troilus.
クレシダ つまり叔父様が取り持ち役だって印ね
By the same token, you are a bawd.
ここでキューピッド役を果たすのはパンダロス。これも何気ない会話ですが、最後のひと言が少々奇妙。恋人同士の恋愛が成就するかどうかに重きをおくなら、二行目の「愛の印だ」で会話は終わっていいところ。だけれど、三行目の叔父が取り持ち役=キューピッドだという〈印 token〉が必要なんだとここでは言っている。〈取り持ち役=キューピッド〉が居るかどうかの確認に、ここでは重点がおかれている、という言い方もできるでしょう。
キューピッドは、『ロミオとジュリエット』をはじめ、複数のシェイクスピア作品に登場し、西洋絵画などでも何度も描かれてきた、神話のおなじみのキャラクター。キューピッドやキューピッドが放つ矢は、恋心を伝達するメディア。
その意味で、手紙や伝令の神マーキュリーと同じで、シェイクスピア作品において、相反する二極を結ぶ第三の要素としてやはり重要。キューピッドは、エリオットの『荒地』にも出てきますね。サリンジャーの「エズミ」に『荒地』のモチーフが重ねられていることは下記でみたとおり。
また、エズミが吉報を告げる鳩と重ねられ、チャールズが賢者の石と同じグリーンの目を持つことは、下記の記事で示したとおり。彼らから届く手紙が、XとZを結ぶ。エズミとチャールズ、鳥、グリーン、手紙、文字の役割が重なり合います。
3 『ハムレット』手紙の役目
以下は『ハムレット』で、ポローニアスが娘オフィーリアとハムレットの恋の橋渡しについて言及する場面にあるセリフ。
もしも私自ら手紙の役目を買ってでたり、
If I had played the desk ore table-book
そうでなくても黙ってこの胸ひとつに納め
見て見ぬふりをしていたとしたら——
いかがでございます?
注釈によればこの部分は、「机や書箋の役目、つまり、コミュニケーションの手段の役目を果たすという解釈を取った」とある。ChatGPTによれば、ポローニアスが「ただ書き留めるだけの機械的存在ではなく、自分の心で感じ、反応し、行動する」という自己主張の比喩、とのこと。確かに文脈上はそのとおり。
ここで、ポローニアスは〈机やそこで記された手紙(本)の役を演じる〉と言っています。これ自体は納得できるのですが、ここでシェイクスピアが、注釈が必要になるような奇妙な言い回しをしているのには他にも理由があると、私は思うんですね。
それもいくつかあって、〈table-book〉は、ハムレットが父の亡霊に会ったときに、父の言葉を息子がいかに内面化するかという問題にかかわります。また、〈play〉は演技のテーマと結びつく。さらに、〈desk〉というのは木材で組み立てられた家財道具のことで、それは『テンペスト』でファーディナンドが運ぶ丸太などを経由して、「エズミ」に出てくるチャールズの壁のなぞなぞとも結びつくと思うのですが、これらの考察は改めてまとめます。
今回は、ポローニアスが自分を手紙に例えている、人と手紙が同等のものとして語られているという点に注目したい。ポローニアスが手紙の役割を演じて、恋人同士のメッセージの伝達役になるというのも、伝令の神マーキュリーやキューピッドと同じイメージといえるでしょう。
4 『ロミオとジュリエット』お顔という書物
サリンジャーの「エズミ」の手紙と、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の手紙の役割が似ていることは前回みたとおり。『ロミオとジュリエット』では、キャピュレット夫人が、娘ジュリエットの婿候補パリスについて以下のように語ります。
パリス様のお顔という書物を読み
美の神のペンで書かれた喜びを見つけ出すの。(中略)
この美しい書物に分からないところがあれば
目という注釈から読み取るのよ。
この貴重な愛の書物はまだ製本ができていない
魚が海で生きるように、表の美しさは
内側に美しさを秘めてこそ誇れるものになる。
黄金の留め金で美しい物語を閉じ込めている書物こそ
多くの人々の称賛を受けるものなの。
Read o’er the volume of young Paris’ face,
And find delight writ there with beauty’s pen.[…]
what obscured in this fair volume lies
Find written in the margent of his eyes.
This precious book of love, this unbound lover,
To beautify him only lacks a cover.
The fish lives in the sea, and ’tis much pride
For fair without the fair within to hide.
That book in many’s eyes doth share the glory
That in gold clasps locks in the golden story.
ハンサムで人柄もいいと思われる男性が、美しい書物に例えられているんですね。魚と海については、「バナナフィッシュ」読解で見た通り。ここでは男性が魚に、女性が海に重ねられています。詳細は下記参照。
ロミオがジュリエットの従兄弟を殺してしまったときには、ジュリエットは以下のような言葉でロミオの行為を嘆きます。
これほど忌まわしい書物が
あんなに美しく装丁されたことがあったかしら?
ああ、あんなに豪華な宮殿にこんな偽りが住んでたなんて!
Was ever book containing such vile matter
So fairly bound? O, that deceit should dwell
In such a gorgeous palace!
人が宮殿や神殿などに例えられることは下記で見た通り。ここでは、宮殿、神殿と並んで、ロミオが書物に例えられている。人=言葉が集積した書物=言葉の建築物=バベルの塔が結びつきます。
また、『マクベス』では、表情に罪悪感が出やすい夫をなじって、マクベス夫人が「あなたの顔はまるで一冊の本」(36)という場面もあります。シェイクスピア作品には、人の内面が顔や姿に出る、それが書物に例えられる場面がいくつかある。『岸辺露伴は動かない』みたいで楽しいんですけども笑。シェイクスピア作品には、人は一冊の本だという発想があるといえそうです。
『ヴェニスの商人』には、友人からの手紙について「この紙は親友の肉体そのもの」(118)というセリフもあります(この場面については改めて考察します)。
整理すると、手紙は離れ離れの二者を結び付けるメディアとして重要。それが、マーキュリーやキューピッド、使者など、メッセンジャー=人として現れることがしばしばある。同時に、人の顔が書物に例えられたり、手紙が人の肉体に例えられたりすることがある。
「バナナフィッシュ」読解でも書きましたが、人は言葉を覚えるほど、本能優位で獣に近い子供から、理性的な大人の人間へと成長していく。言葉で思考したり、コミュニケーションをとったりできるようになる。シェイクスピア作品、サリンジャー作品では、言葉・文字・手紙・lettersや、その集積である書物・book・volumeが、一人ひとりの内面を形作る世界観や価値観、その人の人間性そのものを象徴している場合がある。一人ひとりが持っている語彙、物心ついてから心の中に蓄積してきた言葉の記憶が、その人を形づくっているというような考え方があって、これが読解のポイントになると思うのです。
3 「シーモア—序章—」擬人化される手紙
3-1 シーモアとバディ
サリンジャーの「シーモア—序章—」は、弟のバディが、自殺した兄シーモアについて、どんな人物だったのか思い出語りする作品。グラス家の次男バディは作家で、過去のサリンジャー作品がバディによって書かれたものとされていること、バディが街と森の境界のような場所で隠遁生活をしていることなどから、バディがサリンジャー自身と重ねられていることは、良く知られていますね。
私は「バナナフィッシュにうってつけの日」のシーモアがサリンジャーの鏡像で、作者は自分の実像と鏡像への精神分裂について語っているのだと解釈しています。そして、作中で自分の鏡像=シーモアを殺すことで、戦時中の忌まわしい記憶(「エズミ」のZ)を消し去ろうとしたのではないかと思う。
だけれど、「バナナフィッシュ」の中で消そうとしたもう一人の自分=シーモアの存在は、気づくと以前よりも大きなものになっていた。サリンジャーは自分の中にいるもう一人の自分を消すことはできないのだと悟り、ならばもう一人の自分=シーモアについて語ることこそが、自分が作家としてなすべきことだと覚悟を決め、それを語るためのアバターである自分の分身=シーモアの弟バディを設定し、グラス家サーガを書いた、というのが私の推測です。詳しくは下記をご覧ください。
3-2 正規の郵便で
「シーモア—序章—」には、若い頃、バディは新しい小説を書くたびに、シーモアに読んで聞かせるのが習慣だったと記されています。そして、バディが作品を読み終えると、シーモアはいつも、数時間から数日後に、作品の短評を「紙片やシャツの箱のボール紙にメモを書きしるすと、それをわたし〈バディ〉のベッドの上や食卓のわたしの席に置いたり、(ごくたまには)正規の郵便によって、わたしのところへ送ってよこしたものである」(195_ヤマカッコ内引用者追記)と書かれています。
サリンジャー作品では、手紙がユングのいう集合的無意識のネットワーク、古今東西の人々に普遍的な神話や夢の世界を通過して届けられるものだという解釈については、前回述べた通り。この時期、シーモアはバディと一緒の家に住んでいたにもかかわらず、短評は必ず紙に記され、ときには正規の郵便で届けられたというのは、ひとつにはシーモアからの短評が集合的無意識を通過して送られるべきものであったことの表現ではないでしょうか。
また、シェイクスピア作品では、話し言葉がその場の感情に任せた子どもっぽい発話として扱われるのに対し、証文や手紙など書き記された文書は、法的・政治的な場での正式な契約、大人同士の理性的な会話として扱われます。そして、この話し言葉と書き言葉の対比が物語の鍵になっていることが多い(この詳細は改めてまとめます)。シェイクスピアからの影響が強いサリンジャーも、これを意識していた可能性が高いでしょう。
すると、バディの作品に対するシーモアの短評が、兄弟の日常会話に紛れて交わされるのではなく、必ず紙に書かれて届けられたことについては、それがその場の思い付きではなく、ある程度時間をかけて、理性的に考察され、記された、正式な文書であったことの表現なのだと思う。
同時に、ここにはシーモアとバディが分身関係であるということもかかわっているかもしれません。が、これを語りだすと少々ややこしいので、このテーマについては改めて。
3-3 シャツの厚紙
「シャツの箱のボール紙 a shirt cardboard」という部分は、似た表現が「ズーイ」にも出てきますね。ズーイは、かつてシーモアが使っていた机に座り、引き出しから「シャツの厚紙 shirt cardboards のように見えるもの」(261)の束を取り出し、何枚かめくったのち、一枚で手を止める。そこにはシーモアの誕生日の日の出来事がメモしてあります。このメモの内容も面白いのですが、その読解はまた別の機会に。
重要なのは「シャツの箱のボール紙 a shirt cardboard」という表現もまた、サリンジャーが意図的に選んだアイテムだということ。これは、シャツの形を保つために、たたんだシャツの中に入れられている厚紙のことですね。サリンジャー作品において、シャツを脱ぎ着する行為は蛇の脱皮と重ねられ、脱皮は仏教の解脱や精神的な変容と結びつくことは、以下でも触れました。
また、シャツや衣服は、神話におけるクジラの腹や包帯、試練を通して傷ついた英雄を癒し再生へ導くアイテムともつながります(詳細上記リンク[09_結婚式に参列できないのはなぜか?]参照)。
シェイクスピア作品でも、ガウンやマント、鎧が似た意味でしばしば登場しますね。『アントニーとクレオパトラ』では、オシリス神話で、包帯で夫を癒すイシスや、ナイルの蛇と重ねられたクレオパトラが服を着替えたり、アントニーの着替えを手伝ったりする場面が繰り返し出てきます。
シャツが蛇の皮なのだとしたら、その中に入れられた厚紙は人体と重なりますよね。つまり、「シャツの箱のボール紙」というアイテムを使って、サリンジャーはそこに書き記された言葉を、やはり一人の人、それを書いた人の分身のようなものとして表現しようとしているのではないか、と思うのです。
『ロミオとジュリエット』の書物が人を示すように、『ハムレット』でポローニアスが自らを手紙に例えるように、サリンジャー作品では、シャツの厚紙に書かれた文字もまた、シーモアの分身、あるいは一部を示すものではないでしょうか。
3-4 郵送されない手紙
「シーモア—序章—」では、以下のような幼いころの思い出も語られています。
よく子供たちのパーティで、[中略]ある母親が、びんころがしや郵便局ごっこをすすめたものである。そして私は何の気兼ねもなく証言できるが、少年時代を通じて、グラース家の上の兄弟は郵送されない手紙(非論理的だが、納得のいく言い方だと思う)の袋を次から次へと受け取ることにかけてはベテランだった。
Glass boys were veteran recipients of bag after bag of unmailed letters(illogically but satisfactorily put, I think)
前回見たように、「エズミ」では、手紙やそれを書くためのインク、郵送するための切手などによって、手紙のやり取りが表現されていました。ここでは、手紙のテーマが、郵便局ごっこという子供の遊びの形で記されます。
以前も書いたことがありますが、サリンジャー作品において、子供は現実の大人社会のルールを知らない分、神話的な混沌の世界に近い感性を持っている。それは集合的無意識の領域に簡単にアクセスできるということ。ものすごく雑な言い方をすれば、子供の頃はみんな芸術家っぽい絵を描ける、みたいな感覚を想起すると分かりやすいかもしれません。だから、子供がする郵便局ごっこというのは、集合的無意識を通じたコミュニケーションを意味する、と解釈できます。
〈郵送されない手紙〉を受け取ることにかけてはベテランだったというのは、子供同士の手紙は〈郵送されなくても届く〉、シーモアとバディの兄弟=分身同士はそういう領域で通じ合っていたのだ、ということではないでしょうか。さらに、次の記述を見てみましょう。
3-5 擬人化される手紙
バディは、シーモアの〈身体的〉特徴について綴った後、この文章を雑誌に発表したいといのだと述べたうえで、以下のように続けます。
切手だとかマニラ封筒を使わずに向こうまでとどけたいのである。(I want it to get down there without my using either stamps or a Manila envelope.)もしそれが本当のことを書いているなら、私はただそれに汽車賃を払ってやり、たぶんサンドイッチも包んで、魔法壜にちょっと何か温かいものを入れてやれるはずだ。それしか考えていない。車中の他の乗客は、あたかもそれがちょっとご機嫌になっているもののように、それから少し離れているにちがいない。ああ、なんというすばらしい考えだろう。彼をちょっとご機嫌にしてここから抜け出させよう。(Let him come out of this a trifle high.)だが、どういう種類のご機嫌な状態か。わたしの考えでは、愛する者がテニスで、苦しい三セットの末に勝利を得て、ニッコリ、ニッコリ笑いながらポーチにやってきて、最後のショットを見たかとたずねるときのような、ご機嫌な状態のことだ。そのとおり。(Yes. Oui.)
これぞサリンジャー節と言いますか、ものすごく変な言い方ですよね。一見わけのわからない文章に思えますが、ここにはさまざまな意味が凝縮されているように思うので、ひとつずつ紐解いてみたいと思います。
まずは、ここでも手紙が人に例えられているという点に注目したい。封書なのだということを示しつつ、それを切手や封筒を使って郵送するのではなく、あたかもそれが〈一人の人間であるかのようなもの〉として届けたいといっている。シャツの厚紙の解釈では眉に唾をつけていた方も、これはご納得いただけるのではないかと思います。手紙や言葉が書かれた紙は、ときに一人の人のように語られることがある。
とくに、ここで「とどけたい」といわれている原稿は「シーモア—序章—」のこと。最初から最後まで、シーモアがどんな人物だったのか、バディにとって、シーモアがどんな人物だったのかを語りつくした作品であり、それがそのまま本にもなる文章(半冊分くらいだし、書かれた時点ではあくまで予定だったとしても)。つまり、この原稿はシーモアの〈身体〉、シーモアそのものなのだと思うのです。
3-6 天邪鬼な手紙
それから、ここでも、郵送すべき原稿を、別の方法で届けたいといっていますね。これらは先ほど見た、同じ家に住んでいるにも関わらず、シーモアがときどきバディに正規の郵便で短評を送ったというのを反転させた表現。一方では、一緒に住んでいるのにわざわざ正規のルートで手紙を送るといい、他方では、郵送されない手紙を受け取るベテランだといい、また別の個所では出版社に郵送すべき封書を郵送せずに届けたいという。
サリンジャー作品にしばしば見られる天邪鬼的な表現、矛盾した言い回しで、手紙について話しつつも、何か普通の手紙ではないものを表現しようとしている。読者に向けて、それは何か想像してほしいとあえて変な言い方をしてみせている。
バディ=サリンジャーはここで、通常の郵便ネットワークとは別の次元、神話的な領域、ユングのいう集合的無意識を通じたコミュニケーションを想像してほしいのだといっているのではないでしょうか。表面的には出版社に、という風に読めますが、深層ではおそらく「シーモア—序章—」の原稿を読者に、できれば読者の心の奥深く、無意識の領域に直接届けたいという思いを語っているのだという気がするのです。
3-7 マニラ封筒
マニラというのはバショウ科の植物で、バナナの仲間ですね。「シーモア—序章—」には松尾芭蕉(158)も出てきますし、サリンジャー作品は、こういう小ネタもちょこちょこあって楽しい。
3-8 汽車
『キャッチャー』でホールデンが汽車に乗ってニューヨークへ移動する移動するシーンや、「フラニー」の冒頭で、フラニーが汽車に乗ってくるシーンが印象的ですよね。汽車は主人公が現実から異世界・彼岸へ移動する乗り物として使われています。
異世界は集合的無意識の領域、神話世界にもつながります。作者は「シーモア—序章—」を、神話的な象徴表現を使って、読者一人ひとりの中にある集合的無意識に訴える作品に仕上げた。それを汽車に乗せて届けたいという気持ちを示しているのだと思います。
3-9 食べ物と飲み物
神話、シェイクスピア作品、サリンジャー作品で、飲み食いすることは、栄養を体内に取り込み、消化の過程で混沌の未分化のエネルギーにしながら、自分の血肉へと変えていくこと。『ちびくろサンボ』で、一時はサンボを窮地に追い込んだ虎たちを、バターにかえて、おいしく食べてしまうこと。試練を明日の糧にすること。詳細は下記をご覧ください。
それは、夢を見ることや、物語を読むことともイコール。神話的な元型を、混沌(サリンジャー作品には本当にこの言葉が似あいますね、訳が分からないのにやけに心に引っかかる)のストーリー、未分化のエネルギーとし意味不明のままに通過し、自分の中に取り込むこと。
「シーモア—序章—」の原稿もそのひとつ。細部は意味不明だけれど、ともかく濃厚なバターのようなもの。それをいかに咀嚼し、エネルギーにするかは、読者の自由だけれど、サリンジャーはともかくもそれを一人でも多くの読者に届けたいと、切実に願っていたのだと思います。
3-10 テニス
これも以前触れたことがあるのですが、サリンジャー作品においてテニスは分身同士が闘うこと、心の中で相反する価値観が葛藤していることの比喩。「シーモア—序章—」には、「わたしたち(シーモアとバディのこと)はしばしばテニスをやったものだ」(253)と書かれているし、「対エスキモー戦争の前夜」や『キャッチャー』にも出てきます。これもシェイクスピアの真似ですね。『ハムレット』のテニス(若者の乱高下しやすい気分の比喩)や『ヘンリー五世』のテニス(戦争の比喩)から取っているのだと思う。
「エズメ」の前半に出てくる卓球もこれのバリエーションで、この時点で語り手の内面ではすでにXとZの葛藤がはじまっていることが分かります。さらにいえば、彼だけに限らず、そこで訓練を受けていた兵士たちの多くが、似たような葛藤(戦地で勇敢に戦いたいという気持ちと、この戦争が正しいものなのか疑問に思う気持ち)を抱えていたことをも感じさせますね。
「シーモア—序章—」には、フラニーが「赤ん坊だったとき、シーモアがピンポンをしているのを見たというのはまったくありそうなことである。そして忘れられ、色あせてしまったらしい彼の相手がわたし(バディ)だということはすぐにわかった。わたしはシーモアとピンポンをするといつも幻惑されてまったく精彩がなくなってしまうのだ」(252_カッコ内引用者追記)とあります。
「シーモア—序章—」のテニスや卓球は、バディ=サリンジャーと、その鏡像としてのシーモアとのテニスの打ち合いを意味するのだと思う。そのうえで、汽車のくだりでは「愛する者」という言い方がされているので、読者一人ひとりの鏡像まで敷衍されていると読んでもいいかもしれません。ときには神さまのような存在として、ときには悪魔のような者として現れる分身、自分にとって最も愛すべき、あるいは憎むべき者とのテニスの打ち合い、心の中での闘いという意味ですね。
3-11 ご機嫌にしてここから抜け出させよう
シーモア=Z=鏡像=第二人格に勝たせ、ご機嫌にさせて、自分の中から抜け出させる、つまり、意識の表層から消してしまう。
このイメージは「エズミ」の後半にそのまま当てはまりますよね。XとZが、あたかもテニスボールを打ち合うように会話を交わし、最終的にZはご機嫌になってXの部屋から去っていく。XとしてはZ=忌まわしい記憶に消えてもらうことで、心の平穏を取り戻せる。その先には、深い眠りと癒し、そしておそらくは再生が待っている。そんな風に解釈してみてもいいかもしれません。
「シーモア—序章—」のシーモアとバディは兄弟(分身関係)であり、同時に象徴的父と息子でもある。だからテニスの打ち合いは、大げさに言えば神話における父と息子の対決とも重なってきます。神話では、息子が父に歯向かうとき、最初は苦戦しても最終的には息子側が勝つ。それによって世代交代が果たされるというのが典型。ですが、力が拮抗している分身同士が闘って、相手をねじ伏せようとすると、ハムレットの父息子対決しかり、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」しかり、相打ちになって一緒に破滅しかねない。
サリンジャーも、「バナナフィッシュ」で鏡像シーモアを殺してみたけれど、心の中からもう一人の自分はぜんぜん消えてくれない。どころか、戦争の嫌な記憶は心の奥深くに閉じ込めようとすればするほど、日に日に存在感を増していく。それならいっそ、分身=Zの気がすむまで思う存分語らせて、苦い記憶も押し込めることなくすべて吐き出させたうえで消えてもらう、ご機嫌にさせて抜け出させるというのが、PTSDに苦しんだサリンジャーの現実的な対処法だったのかもしれない……、などとも思いますが、どうなんでしょう、この一文は正直よく分かりません。何か思いついたら、また書くかもしれませんが、とりあえず。
3-12 Oui
「シーモア—序章—」では、バディが「わたしは九カ国語がペラペラ」(130)だといい、ドイツ語、イタリア語、フランス語など複数の言語が所々に散りばめられています。これも「バナナフィッシュ」読解で触れたとおり、バベルの塔の崩壊と再構築のテーマとして読めますね。
読者は、夢の世界の汽車で届いた「シーモア—序章—」の原稿を読んで、テニスの打ち合いをするように格闘して、バベルの塔のようにバラバラに解体して、食べ物や飲みもののように咀嚼して、好きにエネルギーに変えていい。バベルの塔は神さまに壊されてしまうこともあれば、自分で壊さなければならないこともあるんだと思う。
以下の「シーモア—序章―」の一節は、そのことについて語っているのだと思う。
ある誇り高き尊大な大臣が自分の邸の中庭を歩きながら、その朝皇帝の前で行ったとりわけ破壊的な演説を心の中で繰り返しているとき、誰かが落としたか捨てていったペン書きのスケッチを後悔しながら踏みつける。(中略)大輪のボタンは一茶にしか現れないのだ。(中略)中国や日本の詩の奇蹟は、純粋な詩人の声は絶対に他の純粋な詩人の声とひとつのものでありながら、しかも、絶対的にそれぞれ特色があり相違があるということである。
Oui? ですよね? ちょっと長くなってしまったので、上記の解釈はまた別の機会に。
今回もいろいろ脱線してしまいましたが(サリンジャー作品は脱線を楽しんでなんぼ、ではあるものの、まじめに読解しようと思うと本当に難儀というか、解釈されることをとことん拒否してますよね、あまのじゃく笑)、今回は、シェイクスピア作品やそれに倣うサリンジャー作品において、手紙や書物がときに一人の人のように描かれ、一人の人の世界観が現れたものとして語られていること、これらを記す紙やインクも重要なアイテムであることを確認できたと思います。
これが「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」の、「さ・つ・が・いされたs-l-a-i-n」(柴_160)」「き・の・う・ば・ん・ぜ・ん(f-a-c-u-l-t-i-e-s)」(柴_184)を読み解くヒントになると思うんですが。次回も、もう少しだけ回り道をして、サリンジャーの初期作品に出てくる〈手紙〉について考察したいと思います。
つづきはこちらから。『キャッチャー』読解にも関連しますので、ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

