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09_結婚式に参列できないのはなぜか?_ J.D.サリンジャー「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解

Q. エズメの結婚式に参列できないのはなぜか?
「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」の冒頭で、語り手はエズメから結婚式の招待状を受け取り、下記のように語ります。

なんとしてでも出席したい結婚式だったので、招待状を見たときは場所がイギリスだって、飛行機を使えば費用はともかく、行けないこともないと思った。ところがその後、家内といろいろ話し合った結果、この家内というのがあきれるほど万事にそつのない女なのだけれど、とにかく行かないことに話は決着した

(138)

それは二週間彼の家に滞在することになっている義母と過ごすためであり、義母は五十八歳で、若くなることはないからだと説明します。けれど、イギリスへ飛行機で往復して結婚式に参列するのには、三、四日あれば十分。五十八という年齢も、いま会っておかなければと思うほどの歳とは言えず、語り手の説明にはどこか違和感がありますよね。これはなぜでしょうか。

本稿の解釈はこう。
A. 母からの束縛をいまだに克服できない息子だから。
以下に理由を述べます。




J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解をマガジンで連載しています。こちらの記事から読んでいただいてもお楽しみいただけますが、01から順番に辿る場合は下記よりご覧ください。

1 マザー・コンプレックス

「エズメ」の主人公が、象徴的父・兄・教師らとの関係において、精神的な葛藤や傷、ファザー・コンプレックスを抱えていることは、下記の記事で考察しました。

サリンジャーは作品に精神分析や心理学的な要素を織り込むのが好きな作家。「エズメ」では、Zの恋人ロレッタが、心理学を専攻している(169)という記述がありますね。エズメが、チャールズは「母にそっくり」で、自分は「父に生き写し」(152)で、母は「外向型」、父は「内向型」だったと述べるように、本作では父と母が対比され、象徴的母との関係における精神的な葛藤についても描かれています。
 
義母の五十八歳(138)という年齢は、作品発表時のサリンジャーの実母とほぼ同い年。後半では、ZがXに、「おふくろから」の手紙に「ずっとおめえといっしょになんかくらしてよかったなって」(172)記されていた、「おふくろさんに、おれからもよろしく言ってくれ」という部分が、本作にマザー・コンプレックスについて書いているというサインになっています。Zの母とXの母は私の解釈だとおそらく同一人物で、そう思って読むとじわじわ面白いですよね。
 
他にも、サリンジャーの「逆さまの森」はマザー・コンプレックスを、『キャッチャー』はファザー・コンプレックス(象徴的父としての実父・兄・教師との葛藤)を扱った作品として読めますね。これらのテーマにサリンジャーが意識的だったことは間違いないと思います。

2 良い母と悪い母

外向型・内向型はユングが行ったタイプ論の分類ですね。内にこもるXと、外へ向かうZに当てはめられそうです。
 
また、ユング派の神話学者ジョーゼフ・キャンベルは、究極の女神・アニマ(男性の無意識に潜む女性像)には〈良い母〉と〈悪い母〉の二面性があると言っています(G)。

まだ自分の足で自由に歩けない赤ん坊の頃、そばにいてほしいときに一緒にいてくれるのが〈良い母〉、自分を置いてどこか遠くへ行ってしまうのが〈悪い母〉。この記憶を原点として、大好きだった母親の中に善と悪の二面性を見出すような感覚が、幼児期の成長の過程で形成されるのだそう。悪い母はやがて、子どもを束縛し、成長を妨げる存在にもなっていく。良い母は、子どもを愛し、食べ物や衣服を与えて育ててくれる存在であり、子どもにとって理想の女性・女神・アニマ像となっていく。

子どもは母のそんな二面性のなかで揺れ動きながら、母の手を離れ、成長し自立していく。「エズメ」にはそんな女神像の二面性が描きこまれているように思います。
 
キャンベルは、母の中に良い面と悪い面を見出すことが、オイディプス・コンプレックスの土台となると説明しています。語り手がXとZに分裂するのは戦争による精神的な傷が直接の原因として語られていますが、そこには妻との結婚生活や義母との関係が複雑に絡み合っている。そして、その根源には、彼が幼いころに負ったオイディプス・コンプレックス、象徴的両親との関係性があるわけですね。

3 作曲家の母

まず、「エズメ」に描かれた悪い女神の例から見ていきましょう。
 
前半で、児童合唱隊の歌声の美しさを讃えるのに、語り手は、「いちばん年下の子供二人のテンポが心持ち落ちたけれど、ああいう瑕(きず)なら、あの曲を作曲した当人の母親ででもなければ気づかなかったに違いない」(141)という奇妙な言い方をします。
 
これは、作曲家の作品について当人以上に知り尽くし、必要以上に息子を束縛する悪い母親のモチーフを描きこもうとしたものではないでしょうか。また、合唱隊を指導する「女史が、長々と注意を始めた。」「先生のきたない声」(142)といった表現は、この指導者を悪い母の象徴として描いているようにも読めます。

4 シュラフツとカシミヤ

前半で語り手が読む妻からの手紙には、シュラフツ(レストラン)のサービスが低下したことが書かれていますね(143)。まもなく生きるか死ぬかという戦場へ送られる夫に対して、わざわざ手紙で些細な愚痴を伝えてくるのは思いやりに欠ける行為のように感じます。また、義母も、戦地にいる義理の息子に対して、カシミヤの生地を贈ってほしいという、自己中心的な手紙を送ってきます。
 
食事は母なる大地・グレートマザーの恵みであり、神話では主人公が試練に勝って再生へ向かうエネルギーとなるもの。「バナナフィッシュ」ではバナナを食べることについて描かれ、『フラニーとズーイ』では正しく食べることが中心テーマのひとつとして取り上げられていることは下記でもみたとおり。

また、神話において、服やハンカチなどの布が、傷ついた英雄を癒す包帯や、再生へ導くクジラの腹の役割を果たすことは、『キャッチャー』「バナナフィッシュ」読解で見た通り。

食事と布・衣服は神話やそれに倣うサリンジャー作品において重要なテーマであり、しばしば母・妻・女神・アニマのような人から与えられます。(キャンベルは、神話における究極の女神=アニマは、母であり、姉妹であり、恋人であり、花嫁でもある(G)と述べており、サリンジャー作品でもそのように現れます)
 
けれど、「エズメ」で主人公の妻は食事に関するサービスの劣化を嘆き、義母は布を与えるどころか反対に送ってほしいと要求している。Dデーを間近に控え、ただでさえナーバスになっている主人公は、妻や義母からの思いやりのない手紙によって、ますます精神的に追い詰められていきます。

5 賢者としての義母

少々話がそれますが、キャンベルは、神話で英雄に護符(しばしば布のようなものとして現れる)を与える賢者の多くは皺だらけの老人として現れると述べています。『キャッチャー』でナバホの毛布をかぶっているスペンサー先生について、老人であることが強調して描かれていることは[08_毛布・コート・包帯](上記リンク)でみたとおり。

カシミヤ・布のモチーフに注目するなら、義母が五十八歳(138)であると記され、これは作品発表当時でも決して老人とは言えない年齢であるにもかかわらず「義母が年々若くなるというわけでもない」とわざわざ補足して、これから老齢の域に入っていく人であることが強調されているのは、彼女が元型としての〈老賢者〉であることを表現しようとしたものかもしれないですね。

6 結婚式への参列を諦める理由

閑話休題。作品の冒頭、義母と妻のためにエズメの結婚式へ行くことを諦めた語り手は、エズメとの出会いから六年経った今もなお、象徴的母(義母・妻・女神)からの束縛を克服できない息子といえるのではないでしょうか。
 
本作を読むことで花婿が「しばしの胸騒ぎを覚えたとしたら、なおさら結構」(138)という言い方をするのには、大人になってもなお、義母からの束縛という結婚生活で現れる新たな困難を乗り越えられない自分への自嘲の気持ちと、これから夫婦になろうとしているエズメ夫妻への警告が込められているように思います。
 
作品後半は、Xの戦争に傷つけられた精神的な問題に焦点が当てられますが、前半でそれが結婚生活や(象徴的)両親・義父母との関係など、広いテーマに結びつけられているんですね。
 
そして、以下で示したような表面的には似合っているけれど、深い部分で結びついているとは言えないエズメの両親、語り手夫婦を通し、XとZの統合が簡単にはいかないという物語のテーマと重ねられていることともつながっていきます。

語り手が、義母が来る予定になっているのを「すっかり忘れていた」(138)と語るのも、フロイト流に解釈すれば、語り手がそれを無意識のうちに忘れたいと感じていたから忘れたのだといえ、『キャッチャー』の最初にあるフェンシング道具を電車の中に忘れたエピソードなど、サリンジャー作品でおなじみの表現。
 
グレートマザーが永遠の少年・息子を束縛するというテーマは、「小舟のほとりで」や「ズーイ」などでも、繰り返し語られいく、サリンジャー作品の重要なテーマのひとつです。

7 息をのむほど分別ある妻

語り手が「妻は息を呑むほど分別のある女性であるbreathtakingly levelheaded girl」(柴_147)と言うのは、妻が現世的なルール、大人社会の価値観を重要視し、これに従って行動する人物であることの表現と読めます。〈分別〉は女神像というより、むしろ、父・兄・教師たちから与えられる世界観を思わせる言葉ですね。
 
そして、「バナナフィッシュ」のミュリエル同様、「エズメ」でも語り手の妻に対して、若い女の子を表す〈girl〉という表現が使われています。彼女もまた、語り手と同様、両親からの束縛や、象徴的両親から与えられた価値観を逃れられない娘としての一面があることが仄めかされているのではないでしょうか。そして、そんな妻の性質が間接的に夫である語り手にも影響を与えているのかもしれません。

8 オハイオの荒れた土地

エズメもまた、両親を亡くし、傷ついている人物です。いまは伯母の家に住んでおり、伯母はとっても親切な人だという一方で、「伯母はわたしのことを、すごく冷たい人間だって言うんですのよ」(149)ともいい、表面的には穏やかで恵まれた生活を送っていながら、心の奥深くでは、満たされないものを抱えていることが示される。そんな彼女の心の傷が、「爪が肉のところまで深く噛まれている」(145)という描写で表されています。
 
エズメが将来「オハイオ州の農場に住む」といって「ぐしょぬれになった頭の天辺を掌でそっとさわってみた」(146)のに対し、語り手は「オハイオのあたりには、ひどく荒れた土地がある」(146)と答える。ここには『キャッチャー』や「バナナフィッシュ」「逆さまの森」でも使われた、T.S.エリオットの『荒地』の連想があるのではないでしょうか。前半の舞台がイギリスであること、雨や「稲妻の閃光」(149)といった表現も、『荒地』と重ねて読めます。
 
荒れた土地は心が荒廃していることの表現ですね。ここで、語り手は自分の精神的な荒廃に触れるとともに、エズメの中にある傷やさみしさを察知し、心を寄せているようにも思います。そして、自らの結婚生活と重ねながら、未来が必ずしも明るいわけではないという雰囲気を漂わせている。
 
エズメの「わたしの食べ方って、小鳥みたいなんです。」(146)というセリフに込められた鳥のイメージには、ノアの方舟神話で荒地を洪水で浄化した後、吉報を知らせに来る鳩のイメージが重ねられているのかもしれません。雨に濡れた頭の天辺を触る洗礼のようなしぐさは、『荒地』でうたわれたのと同様に、エズメと語り手の心の傷がやがて癒され、精神的に豊かな未来が来ることを願ってのことのようにも思えます。

9 籠の鳥

エリオットの『荒地』では、ロンドンの都市生活で金銭的には恵まれていながらも、精神を荒廃させた上流階級の女性が、籠にとらわれて、夜に鳴くナイチンゲールに例えられています。エズメの「わたしの食べ方って、小鳥みたいなんです。」(146)というセリフは、衣食住には恵まれていながら、愛情面では満たされていない自分をナイチンゲールに見立てたものとも解釈できますね。エズメは両親がいないさみしさの鳥籠にとらわれ、声楽家を目指すほどの美しい歌声にのせて訴える夜鳴鳥なのでしょうか。
 
爵位を持つことへの誇りや、幼い弟への責任感から、難しい語彙を使って背伸びをし、「わたし、昨日生まれた赤ちゃんじゃありませんのよ」(147)と訴えるエズメを閉じ込めている鳥籠もまた、社会から与えられる価値観や役割のなかで、エズメが自らに課した倫理観・道徳観のようなものに思えます。これが、戦地で自国のために戦わなければならないという語り手を閉じ込める檻、あるいは、想像力の欠如により語り手を絡めとろうとする義母・妻の蜘蛛の糸と重なり合うわけですね。

10 互いの救世主

エズメが自分は父親似だと話し、父を真似て古くて難しい語彙を使い、父親の腕時計をしている様子は、父親への複雑な思い、ファザー・コンプレックスを示すもの。先行研究では語り手に話しかけ、Xに時計を贈る行為は、エズメが彼の中に父親像を見ているからだと指摘されています(F)。エズメは語り手の心の中に、自分の中にあるのと似た傷があるのを感じ取り、午後のひとときを一緒に過ごし、戦後も手紙を書くことで、互いに救済し合うきっかけを見出そうとするのでしょう。
 
対する語り手は、女神・象徴的母の悪い面を体現するかのような義母と妻からの手紙に精神的に追い詰められ、その反動として、心を癒してくれる女神の良い面を、純粋無垢なエズメに求める。前半の妻や義母から語り手への手紙が、自己中心的で思いやりに欠けるのに対し、後半で読まれるエズメからの手紙はXへの思いやりに満ちたものですね。
 
エズメは、語り手よりもずっと年下の少女。『キャッチャー』のフィービーや、「最後の休暇」のマティのような、妹的な存在としてのアニマです。
 
竹内康浩氏は『キャッチャー』のフィービーにはオシリス神話のイシスが重ねられていることを指摘していますね(C)。オシリスの妹であり妻でもあるイシスは、殺されバラバラにされたオシリスの身体を集め、包帯でつなぎ合わせてミイラにし、復活させた。これになぞらえて、『キャッチャー』の妹フィービーは、ホールデンが落として割ったレコードのかけらを集め、引き出しにしまう。
 
エズメもまた、イシス=フィービーと同じ。語り手の心身がXやZ、あるいは「キ・ノ・ウ(f-a-c-u-l-t-i-e-s)」というアルファベットのようにバラバラになってしまった姿は、ガラスが割れた腕時計のイメージと重なり合う。ならば、カシミヤの生地を送れといってくる義母とは対照的に、エズメがXへ送った時計の小箱を包んだ緑色の包装紙は、戦地で傷ついたX=Zの心を包み込んで癒し、分裂した精神を統合する包帯を意味するのではないでしょうか。「エズメ」では、妹的なエズメが、手紙や結婚の報せをとおして、語り手の傷を癒す役割を担う。「エズメは長いこと、どこか医者が患者を見るような目で私を見た。」(162)という表現は、それを示すもののように思えます。緑の意味については[04_緑をオレンジというのはなぜか?](上記リンク)をご覧ください。
 
こうしてXはエズメ(とチャールズ)によって救済され、前半の語り手〈私〉は、エズメの望むとおり、自らの内にある汚辱=Zが担う汚れや悪をさらけ出した物語を結婚祝いとして贈ることで、エズメの傷を癒そうとする。エズメと前半の語り手〈私〉は、互いが互いの救世主となる。これもサリンジャー作品で何度も語られていることですね。
 
言うまでもなく、時計の割れたガラスは、シーモア・グラス、鏡、XとZの鏡像関係とつながっていますし、XやZ、あるいは「キ・ノ・ウ(f-a-c-u-l-t-i-e-s)」へ分割したアルファベットの文字は、荒地となった大地を雨で浄化した後に撒かれ、新たな豊饒をもたらす種のイメージへと結びつくのだと思います。
 
今回はここまで。お読みいただきありがとうございます。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。


J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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