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12 _ J.D.サリンジャー「週に一度なら参らない」の手紙~「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解のために

Q. 「週に一度なら参らない」で破かれる手紙とは?
何年も前に出た選集にしか載っていないので、少々マニアックなのですが、サリンジャーの初期短編「週に一度なら参らない」(以下「週に一度」)は、「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」と共通のモチーフが多く、この作品を読解すると、「エズミ」がより面白くなるように感じています。今回は「週に一度」で描かれている手紙の意味を考察してみます。「週に一度」を未読の方にもお楽しみいただけるようあらすじを添えます(ネタバレになりますが)し、『キャッチャー』にも通じる話なので、「週に一度」を未読の方もぜひご覧ください。
 
本稿の解釈はこう。
A. 豊饒祭祀で大地に撒かれるオシリスの身体、『キャッチャー』で割れたレコードのかけら。
以下に理由を述べます。




J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「エズミに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解をマガジンで連載しています。こちらの記事から読んでいただいてもお楽しみいただけますが、01から順番に辿りたい方は下記よりご覧ください。(この数回だけ「エズメ」→野崎訳の「エズミ」にしてみていますが、どちらも同じEsméのことです)


1 「週に一度なら参らない」あらすじ

「週に一度」は、主人公の男性が第二次世界大戦へ出兵する朝の様子を描いた短編です。前半は主人公と妻との対話が描かれています。出発のために荷作りをしている主人公の男性の傍らで、早朝から起こされた妻は終始眠たげにあくびを繰り返す。そして、命を賭けた戦いへ向かおうという夫に、歩兵なんてみじめだとか、せめてロンドンのような都市部へ赴任してくれたらとか、思いやりのない言葉をくどくどと言い放つ。
 
主人公の妻は、表面的には浅はかで無神経な女性のように描かれいる(これもエズメの主人公の妻と似ていますね)のですが、素晴らしい両腕を持っているという描写からは、彼女が〈キャッチャー〉の資質を持つ、つまり人を救済する能力を持つ女性であることが仄めかされている。「バナナフィッシュ」のミュリエルと同じく、双面性を持つ女神として描かれているのがひとつのポイントです。
 
後半は、主人公と叔母との対話が描かれています。主人公は早くに両親を亡くしていて、一緒に暮らす叔母のことを母親代わりのように思っている。この叔母は第一次世界大戦で恋人を亡くしてから、精神的に病んで、時が止まってしまった女性。恋人がまだ生きているかのような言動を繰り返し、第二次世界大戦を第一次世界大戦と混同してしまっています。主人公は、そんな叔母を悲しませたくなくて、自分が出兵することを言えずにいたのですが、とうとう出発の朝が来て、そのことを伝えに行くんですね。
 
そして、妻には、気が狂っている叔母を、気晴らしのために週に一度、映画に連れて行ってやってほしいと頼む。他にもビリーやコックという人物がいて、一緒に叔母の世話を手伝ってくれているようなのですが、どうもあてにならないから、妻にしつこく「週に一度なら平気だよ Once a Week Won't Kill You」と繰り返す。これがタイトルになっている、という作品です。

2 「週に一度なら参らない」と「エズミに捧ぐ」

まずは「週に一度」と「エズミ」に共通のモチーフを簡単に並べてみます。

週に一度:生きる時間が砂時計に象徴される
エズミ:主人公の狂気が壊れた腕時計に象徴される
 
週に一度:早世した主人公の母について「歩いたことがなくて、いつも走っていて、急に部屋の中で止まりました」と語られる(走るのは生き急ぐこと、というのはたぶんシェイクスピアの真似、『アントニーとクレオパトラ』)
エズミ:ウォーカーという人物が登場し、腕時計に歩く速度を測る機能がついている
 
週に一度: ラジオの体操が叔母の狂気と結びつけられる
エズミ: 悪魔的な心を持つZが一緒にラジオを聴こうと誘う
 
週に一度: 主人公はハンカチを調べ、妻がツイードの布地を気にする
エズミ: 義母がカシミヤを送ってほしいといい、主人公がエズメのタータン・チェックを気に留める
 
週に一度: エメラルドの指輪が賢者の石と重ねられる
エズミ: 緑色のチャールズの目が賢者の石に重ねられる
 
週に一度: 主人公の両親が亡くなっており、彼岸にいる両親について語る場面がある
エズミ: エズミの両親が亡くなっており、彼岸にいる両親について語る場面がある
 
週に一度: 戦争で傷ついた心、悲しみが体操靴の汚れで表現される
エズミ: 戦争で傷ついた心、精神的な汚れが泥や髪の汚れで表現される
 
週に一度: つぶれた鼻への言及
エズミ: 俳優の高い鼻への言及

どれもサリンジャー作品におなじみのモチーフではあるのですが、それにしても似たような表現が多い。戦前に「週に一度」として発表した作品に使ったモチーフを組み替えて、戦後に「エズメ」という作品を書き直したようなところがあるのかもしれません。

3 切手のコレクション

そして、「週に一度」も「エズミ」と同様、切手や手紙が読解の鍵になるんですね。この作品では、主人公の妻に「頭が変」だといわれる叔母が、消印の押された二セント切手を集めています。それはまるで恋人のいた過去、あるいは恋人のいる死者の世界にアクセスしようとする行為のように見える。サリンジャー作品でそれは、集合的無意識にアクセスすることと同義であることは、前回(下記)見たとおりです。
 
また、手紙がときに一人の人を象徴することも前回考察したとおり。「週に一度」で、叔母が切手を集めたアルバムを見ながら主人公に、「ビリーとコックはかれらのもの全部をためてくれているし、あんたはあんたのもの全部をためてくれますね」と頼み、主人公が「消印ずみの二セント切手だけならばね」と返事をする(120)やり取りには、切手のコレクションが一人ひとりの人間性を象徴するという意味が込められているように感じます。

4 『荒地』混ざり合う時間

「エズミ」では、イギリスを舞台にした前半で、「オハイオには荒れた土地がある」という表現が、エリオットの『荒地』と重なり、主人公とエズミの内面の荒廃を示唆しているという考察は以前示しました(詳細下記)。

エリオットの『荒地』は第一次世界大戦後のロンドンの都市生活者の精神的な荒廃を描いたものといわれていますね。「週に一度」では、妻がロンドンという地名を持ち出し「文明人のいるところ」と表現します。そして、第一次世界大戦で恋人を亡くして以来、精神的な時計が止まってしまっている叔母と、第二次世界大戦へ出兵しようとする主人公(甥)の時間が混ざり合う。「週に一度」もまた、T.S.エリオットの『荒地』を意識して書かれた作品です。

5 トランプ占い

『荒地』には聖杯伝説の英雄の水死を占うトランプ占いの場面がありますね。「週に一度」の叔母の部屋にはトランプ用のテーブルがあり、これが『荒地』のトランプ占いと重なり合う。「週に一度」で、叔母は白い封筒を取りだし、その封筒をトランプ用のテーブルの上で、戦地へ赴く甥に渡します(123)。
 
甥が開けてみると、その手紙には、第一次世界大戦で亡くなった叔母の恋人の名前が書かれている。恋人を亡くした悲しみで、現実を直視できなくなっている叔母は、恋人が死んだ第一次世界大戦と甥がこれから向かう第二次世界大戦を混同し、恋人が生きていると思い込んでいる。そして、恋人に甥の面倒を見てくれるよう頼む手紙を書き、甥に「あの人は親身になってあんたのことを考えてくれますよ」という。
 
常識的に考えれば、気が狂っている叔母の言うことなのだからと受け流せばいい場面。気に留める必要はない。けれど、「バナナフィッシュ」読解でもみたように、サリンジャー作品において、狂気におちいっている人は、現実を見る目を閉じている代わりに、彼岸世界を見る目を開いている。『荒地』に登場する盲目の予言者ティーレシアスや、黄色い水着が青に見える「バナナフィッシュ」のシーモアと同じ状態。シェイクスピア作品にときどき出てくる占い師とも同じですね。
 
主人公が「頭が変」な叔母を「叔母の利口そうな顔」「世界中でいちばん気の確かな女だ」(122)と語るのには、叔母だけが真実を見透かす能力を持っている、という意味が込められているように思います。
 
そんな叔母が、トランプ占いのテーブルで、甥に、既に死んでいる恋人に会うように告げる。これは、甥が戦地で命を落とし、死者のいる彼岸へ行って叔母の恋人に会うことになるという占い結果を告げていることを意味するのではないか、という予感が漂います。

6 騎兵隊

「週に一度」で、妻は夫に「騎兵隊に入れるといいわね」「あなたは馬にのるのなんか好きでしょう」といい、夫は「そうなるチャンスはあんまりないな。このごろはだれもかれも歩兵に行くからな」と答えます。そんな主人公を、叔母は「リチャード」と呼んでいますね。
 
これは、シェイクスピアの『リチャード三世』を意識した記述ではないでしょうか。『リチャード三世』のクライマックスで、戦地で窮地に追い込まれたリチャードは、「馬だ! 馬をよこせ! 代わりに俺の王国をくれてやる、馬! A horse, a horse, my kingdom for a horse!」(264・265)と叫ぶ。これがこの作品の最大の見せ場といってもよい。馬はなく、リチャードは倒され、劇は幕を閉じます。
 
『リチャード二世』など他のシェイクスピア作品で、馬が人生そのものを意味することは下記で考察しました。サリンジャーはこれに影響を受けて『キャッチャー』の回転木馬や、「テディ」での「人生とは到来ものの馬だ」(271)というセリフを書いている。サリンジャー作品で何度か言及される『アベラールとエロイーズ』のアベラールは、馬から落ちて一命をとりとめ、回心したといわれる実在の人物。

馬は人生の乗り物であり、馬がいないことや落馬することは物語において、英雄の象徴的な死を意味する、という考え方があるのだと思う。そして、「週に一度」でも、騎兵隊に入れない、馬がないということが、トランプ占いとともに、主人公の死を予感させるモチーフとして使われているのではないでしょうか。

7 手紙を切り裂く

この死の予言を主人公は受け取り、動揺する。だからこそ、叔母の部屋から出たあと「ほとんどころげ落ちそうになりながら階段をおりた」(123)と描写され、下記のような行動をとります。

下の踊り場で、かれは封筒を取りだすと、それを半分に、四つに、ついで八つに切り裂いた。その紙屑をどうしてよいかわからないので、ズボンのポケットに押し込んでしまった。

(123)

作中、主人公が叔母の部屋を訪ねる際には「二番目のドア」を「二度とんとんとたたいた」と記され、叔母が集めているのは「二セント切手」であり、叔母は甥へ手紙を渡すとき「二年前にこうなることがわかっていた」とつぶやく。「二」が「四」回出てくる。二かける四が、上記の八つに引き裂かれた手紙と呼応するように意識して描かれているのかもしれません。

8 オシリス

エリオットの『荒地』には、太古から伝わる豊饒祭祀をもとにした、オシリス神話が織り込まれています。そこでは、オシリスがいけにえとして殺され、身体をバラバラにされて大地にばらまかれることで、翌年の豊作が願われます。
 
サリンジャーの『キャッチャー』では、ホールデンが落として割ってしまうレコードの破片がこれと重ねられていることが、先行研究で指摘されていますね(C)。これが大地に撒かれる麦・種・豆のイメージと重なることは、下記で示したとおり。

「週に一度」では、亡くなった母が吹いていた口笛について語られています。それは『わたし日曜日にお行儀よくできない、一週七日悪いんだから』という曲で、大学の下宿仲間がそのレコードを持っていたんだけれど、ある日別の人が「酔っぱらって、踏みつけて割ってしまった」(121)のだという。これ、『キャッチャー』でレコードが割れるのと同じですよね。「週に一度」ではレコードが割れることと、手紙を破くことが対になっている。
 
先行研究で、竹内康浩氏はホールデンが割ったレコードのかけらをフィービーが引き出しにしまうしぐさを、オシリス神話でオシリスの妻イシスが、オシリスの身体の破片を集めて包帯でつなぎあわせ、復活させる物語と重ねて読んでいます。
 
「週に一度」で主人公が破いた手紙をポケットに押し込むのも、これと同じだと思う。このバラバラになった破片をつなぐために、先に述べたハンカチや布がイシスの包帯と重なり合うわけです(下記参考)。

手紙や切手のコレクションが人を表すことは、前述したとおり。だから、「週に一度」で手紙を破くことは主人公の命が戦地で果てて、身体がバラバラになってしまうことを予感させる。
 
「週に一度」にでてくる「フィールズ」(122)という俳優の名前は、『キャッチャー』のホールデンの名字「コールフィールド」と同じ、母なる大地を意味するものと読め、主人公は死んで大地に還る運命にあるのかもしれない。
 
前半で妻は主人公がフランス語とドイツ語を話せるといっています。ここには、前回見たようなバベルの塔が崩壊する、言葉がバラバラになるイメージも重なる。エリオットは『荒地』の最後、「ヒーロニモーはまた気が狂った」という一節で、言語のすれ違いが狂気をもたらすというテーマを扱い、シェイクスピアを「おー、おー、おー、シェイクスピヒーア的ジャズ O O O O that Shakespeherian Rag--」(『荒地』T.S.エリオット、西脇順三郎訳、土曜社、2021年)とShakespeareの綴りを崩して、バベルの塔の崩壊のモチーフとシェイクスピアに描きこまれた言葉の崩壊のテーマを結び付けています。

〈オー O〉は以下でみた地獄の口。バベルの塔の崩壊、言葉がバラバラになることは、英雄が死んで地獄へ落下することと結びつきます。

9 祈ってくれれば、死なないよ

すると、「週に一度なら参らない Once a Week Won't Kill You」のタイトルにある〈kill〉という言葉の意味にも広がりが出てきますね。表面的には、主人公が妻に、自分が戦争へ行った後、叔母を週に一回映画に連れて行ってほしい、週に一回くらいなら大丈夫だよ、それほど負担にならないだろう、という言葉として記されている。
 
その深層では、戦地で自分は死んでしまうかもしれない。だから、毎週日曜日に教会へ行くように、週に一度くらいは、自分のために祈ってほしい。もし命を落としたとしても、オシリス神話のイシスのように、夫の再生を願ってほしい。そうすればきっと自分は大丈夫だよ。そんな切実な思いが込められているように思うのです。
 
オシリス神話でオシリスが再生したように、豊饒祭祀で翌年の豊饒が願われるように、『キャッチャー』のレコードと同様に、引き裂かれた手紙のかけら、バラバラに解体された言葉もまた、次の世界を創るための材料、豊穣のための種になっていくのではないでしょうか。これが、「エズメ」の手紙、壊れた時計、そして「さ・つ・が・いされたs-l-a-i-n」(柴_160)」「き・の・う・ば・ん・ぜ・ん(f-a-c-u-l-t-i-e-s)」(184)という表記と結びついていく。次回はこの続きを考察します。

今回はここまで。お読みいただき、ありがとうございました。

つづきはこちらから。ぜひご覧ください。


J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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