13_ 「f-a-c-u-l-t-i-e-s」分割された文字は何を示す?_ J.D.サリンジャー「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」考察
Q. 「f-a-c-u-l-t-i-e-s」と分割された文字は何を示すか?
「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」では、「さ・つ・が・いされた s-l-a-i-n」(柴_160)」「き・の・う・ば・ん・ぜ・ん f-a-c-u-l-t-i-e-s」(柴_184)と文字が分割された表記が二か所、対で出てきます。この表記に込められた意味は何でしょうか。
本稿の解釈はこう。
A. 神話の英雄が八つ裂きにされて大地に撒かれる豊饒祭祀が、言葉の解体と重ねて表現されているのでは。
以下に理由を述べます。
J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解をマガジンで連載しています。こちらの記事から読んでいただいてもお楽しみいただけますが、01から順番に辿りたい方は下記よりご覧ください。
1 き・の・う・ば・ん・ぜ・ん(f-a-c-u-l-t-i-e-s)
前回、サリンジャーの初期短編「週に一度なら参らない」で破かれる手紙が、『キャッチャー』で割れるレコード、オシリス神話で大地に撒かれる身体と重ねて読めるという考察をしました。
「エズメ」に書かれた「さ・つ・が・いされた s-l-a-i-n」(柴_160)」「き・の・う f-a-c-u-l-t-i-e-s」(184)という言葉も、これと同じように解釈できると思うんですね。この表記の通り、オシリスが殺されてバラバラに解体されてしまった状態であり、それが「殺害された」、心身の「機能」が、まるで時計の部品のようにバラバラに砕けてしまって、動かなくなってしまった状態を示している。それが、バベルの塔のように、言葉が崩壊した様子として示されているのではないでしょうか。
前半では、カフェで、降霊会のような雰囲気の中、エズメと語り手がエズメの亡くなった両親について語り合った後で、エズメが席を立つときに「Il faut que je parte aussi.(わたしもうおいとましなきゃ)」とフランス語で言うのに対し、語り手は「彼女が同席してくれて、どんなに楽しかったかしれない、と英語で」(158)返事をしますね。ここで、二人が別の言語を使うことで、同席していながら、パラレルワールドにいるような感覚が演出されています。言語によるすれ違いのテーマとともに、エズメは語り手を置いて冥界を後にし、語り手は冥界に一人取り残されているのだ、と読むこともできるでしょう。
Xが屑籠の中に「どこかの芝生に立った誰かの足」を見つける。これが、「シーモア—序章—」の原注に記されたオジマンディアスの一節〈砂漠に立っている「巨大な 胴のない 石の脚が二本」〉を思わせること、それが、神話でバラバラにされたオシリスと結びつくことは下記で述べました。
X、Zという名前も、前半の語り手が精神的にバラバラに崩壊し、単語からアルファベットへと崩れてしまった状態を示しているように思います。
2 『ロミオとジュリエット』の「R」
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』には以下のようなやり取りがあります。
乳母 ローズマリとロミオはどちらも同じ頭文字ですよね?
ロミオ そうだよ、ばあや、それがどうかした? どちらもRだ。
乳母 まあ、ご冗談を、Rだなんて、犬がうなってるみたいじゃありませんか
ここでは、恋に効くといわれる植物ローズマリRosemaryとRomeoという名前が頭文字の「R」の一文字にまで解体され、それが犬=獣の咆える声と重ね合わされている。シェイクスピア作品では、恋に落ちることも、狂気にとりつかれること、理性を忘れて本能に戻ること、獣になることを意味します。言葉の意味を解体し、一文字ごとのばらばらにしてしまうことは、理性を持って意味ある言葉を操る人間から、本能のままに咆えることしかできない獣に戻ることと同じなのだということが、表現されているのではないでしょうか。
そしてそれは、「エズメ」でエズメが、「獣みたい」(柴_156)だというアメリカ人=Zと同じですよね。
3 ものを読んだことがない人
シェイクスピアの『十二夜』では、道化が口から出まかせにいったもっともらしい賢者の名前として〈クイナパラス Quinapalus〉という言葉がでてきます。注釈によれば、これをあるフランス人の俳優が〈ものを読んだことのない人〉を意味する〈キナパリュ qui n’a pas lu〉と発音したことがあるのだそう。
この後も道化は「ピグログロミタス」「キューバス」「ヴェピアン」(56)など意味不明の言葉を口にしつづけます。訳者の松岡氏は、これが後半で道化がいう「ペンやインクとは無縁だったプラハの老いた隠遁者」(141)というセリフと通底すると述べている。
同じ場面で道化は、〈ボノスディエス Bonos dies〉とラテン語で挨拶をし、「「在るものは在る」とな」「「もの」は「もの」ならずして何ぞや、「在る」は「在る」ならずして何ぞや?」(141)という言い方で言葉が持つ意味を疑い、問い直し、「壁のごとく透明な出窓があり、かつまた南南北の方が国は、黒檀のごとく明るい高窓がついておる」(142)という矛盾した言い方で、言葉の価値を解体し、無へと溶かしてしまうんですね。
道化はこうして場をカーニバル化し、言葉に象徴される世界の秩序をかく乱し、混沌へと還してしまう。そうして日常の停滞したムードに、非日常の活気をもたらし、既存の価値観を壊して世界を刷新していく。
これに対抗するかのように、所与の言語体系に執着し、それを壊すことを何より恐れるマルヴォーリオは、「蝋燭とペンとインクと紙を持ってきてくれ」(145)と訴える。(文字を書くための蝋燭は、紙を燃やして浄化するアイテムとも読めて両義的ではあるものの)この戯曲の中で、彼だけが元の世界観に執着し、カーニバルに巻き込まれることを恐れる。
結果、そこにいる誰よりも未熟な者として皆にからかわれ、生贄=foolとして笑いものにされる。彼が黄色の靴下を十字の靴下留めという無様な格好で登場するのは、イエスの中に残るユダ的な弱さや汚れを浄化するためだということは、以下で示した通り。
『十二夜』はハッピーエンドの物語ですが、マルヴォーリオだけは、最後にひとりその場から去ることになります。世界が更新された後では、古い言語体系=過去の世界観に固執するマルヴォーリオは一緒には居られない。ハッピーエンドのために必要なのは、言葉=既存の世界観を壊すことを恐れずに、カーニバルに身をゆだね、破壊を楽しみながら価値観をアップデートしていく力の方なんですね。
4 道化が解体する言葉
『ハムレット』で、墓掘りの道化たちは「地獄落ち damnation」を「極楽落ち salvation」と表現し、「自己防衛 se defendendo」を「自己暴行 se offendendo」と言い間違える(225)。フロイト流にいえば、言い間違えには無意識の願望が現れるもの。ほとんど自殺のようにして亡くなったオフィーリアは、キリスト教の教えでは地獄へ落ちる運命だけれど、死が悲しみから救済になるという意味では極楽へ行ったのかもしれないし、行ってほしい。それは自己防衛的な意味合いの自殺だったのかもしれないけれど、自分を救済しようとした行動が自分を激しく傷つけ、命まで奪うというのは倒錯が極限まで行き着いた果ての出来事なのかもしれない、という感覚が、ひねくれた道化の言葉からは読み取れますね。
『ロミオとジュリエット』では、道化的役回りの乳母が「conference相談」というべきところを、「confidence秘密・内緒ごと」と言ってしまう(92)。これも、乳母のなかにある、ロミオとジュリエットの秘密の恋を話したくて仕方がない気持ちを表しているといえるでしょうか。「sentences金言、警句」のつもりで「sententious金言的表現の好きな、気障な」という言い間違いをする(97)のも、金言や警句を言おうとする気持ちを茶化して、既存の言葉や価値観を疑い解体するような気持が現れているように思います。
このように、シェイクスピア作品には、マラプロピズムといわれる、道化によるおかしな言い間違い、言語の意味の解体がいたるところに出てきます。これが、理性を忘れて本能・獣的な領域に還ること、退行すること、狂気におちいることとも結びついている。バベルの塔が崩壊するように、所与の言葉や一人ひとりの内なる言語体系を壊して混沌へ還し、そこから新しい世界観を立ち上げていくことが、神話で英雄が死んで再生することと重ねられて語られているように思います。
5 エズメが解体する言葉
サリンジャーの「エズメ」にもこれと同じようなことが書かれていると思うんですね。語彙の豊富だった父を真似て背伸びをするエズメが、父について、「本質的 intrinsically」と言うべきところを「intransically」と言い間違える。「trans」は、語り手の精神的な変容を感じさせる言葉でしょうか。
また、エズメがXに宛てた手紙の最後にチャールズが書き加えた部分で、彼は自分の名前の綴りCharlesを、Chalesと書き間違えていることは、下記でもみた通り。
幼い子どもが言葉を間違えるのは、「バナナフィッシュ」で、シビルが「airplane」を「nairiplane」といい間違える場面とも同じ。『ナイン・ストーリーズ』収録の「小舟のほとりで」で、ライオネルが〈カイク kike〉を〈カイト kite〉と聞き間違え、ユダヤ系として差別的な言葉に縛られる宿命を空へ解き放つようなイメージを作り出しながら(でもそれは凧糸=操り人形の糸に結びついているという皮肉もあるわけですが)、同時にそれを反転して〈Snell スネル〉を〈smell スメル臭い〉といい間違えて、ライオネル自身もまた人を差別して傷つける側に周る可能性が仄めかされている、という表現とも結びつく。
以前も書きましたが、神話やサリンジャー作品では、現世的な物事を知らない子どもの方が、彼岸世界・混沌の一元世界に近い場所にいる。これが言葉をよく知らなくて言い間違えるということとも重なっている。『リア王』のリアしかり、『ハムレット』のポローニアスしかり、シェイクスピア作品でも、死ぬ運命にある老人たちは総じて赤ん坊返りをし、同時に言葉が崩れていきますね(この解釈は改めてまとめます)。いい間違いと言葉の解体というテーマも、シェイクスピアから影響を受け、サリンジャーが意識的に描きこんだ表現のひとつと言っていいと思います。
6 「I.N.R.I.」とLetters
『お気に召すまま』では、「ああ、あなたが吃りだったらいいのに、そうすれば細口瓶に入ったワインみたいに、あなたの口からその謎の男の名前がどっと出てくるか、ちっとも出てこないか、どっちかだもの。お願い、コルクの栓を口から抜いてその知らせを飲ませてよ」(103)と語られます。シーリアが吃りだったら、愛しいオーランドーの名前を聴けるのに、という意味ですね。ここでは吃音によって反復される言葉に、詩的な意味合いや、祈りのような感覚が見出されている。
同時に、名前とワインが重ねられています。ワインはイエスの受難の際に流す血とも結びつきますね。だから、神話で象徴的に死ぬことと言語の解体がつながっているのだと思う。
以前も引用しましたが、『ヴェニスの商人』にある「この紙は親友の肉体そのもの、/書かれた文字の一つ一つが傷口で、/そこから鮮血が噴き出している」(118)という表現とも一致します。手紙・文字・lettersが人の身体と重ねられて、それをバラバラにすることは、血が流れることと結びつく。
「エズメ」の言葉の解体は、『キャッチャー』や「週に一度なら参らない」で割れたレコードのかけらと同様、オシリス神話で解体されたオシリスの身体と重ねて読めるのではないか、という解釈については、前述の通り。
オシリス神話は、聖書のイエス・キリストの受難のエピソードの起源ともいわれていますね。イエスは磔刑にかけられたとき、十字架に、皮肉として、「I.N.R.I.」ナザレのイエス、ユダヤ人の王 Iesus Nazarenus, Rex Iudaeorumの頭文字を記された(S)といわれています。
「ズーイ」には、「僕は大学でキリスト磔刑についてペーパーを四回書いたけど——いや、正確には五回か」(128)という場面があり、サリンジャーはおそらく、ここで自身の作品について、イエスの磔刑をモチーフにしたものが、四つから五つあることを告白しているのだという解釈については、『キャッチャー』読解でも示したとおり。
だから、「エズメ」の「さ・つ・が・いされたs-l-a-i-n」(柴_160)」「あらゆるキ・ノ・ウ all his f-a-c-u-l-t-i-e-s」(176)には、イエスが「さ・つ・が・いされたs-l-a-i-n」ときに刻まれた「I.N.R.I.」という文字のイメージが重ねられているのかもしれません。
オシリスが殺されたときに身体をバラバラにされたように、イエスもまた、磔刑にかけられたとき、身も心もバラバラになった。それを「I.N.R.I.」という文字と重ねて、「エズメ」で似た表現を試みたのかもしれない、と想像してみることもできるのではないでしょうか。
「エズメ」で、XやZの身体的・精神的「キ・ノ・ウ f-a-c-u-l-t-i-e-s」が、壊れた時計の部品のように、割れたガラスのようにバラバラになっていることは、神話の英雄が象徴的に「さ・つ・が・いされた s-l-a-i-n」状態と同じ。
心身の「キ・ノ・ウ f-a-c-u-l-t-i-e-s」が斧(上記リンク[01_後半で人称が変わるのはなぜか?]参照)で断ち切られ、「さ・つ・が・いされ s-l-a-i-n」てバラバラになることは、〈Letter 手紙・文字〉が破かれてバラバラになることと同じだと思うのです。
今回はここまで。お読みいただき、ありがとうございます。
「エズメ」にはもうひとつ、〈Letter 手紙・文字〉に通じるアイテムが出てきます。次回はこの続きを考察します。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

