14_ブリングが書類を開けたがらないのはなぜ?_ J.D.サリンジャー「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解
Q. ブリングが書類を開けたがらないのはなぜか?
「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」の後半で、ZはXに、「ブリングBulling」が新しく来た書類の「封筒の封を開けたがらねえ」のだといいます(168)。これはなぜでしょうか。
本稿の解釈はこう。
A. 心の奥深くにしまい込んだ忌まわしい記憶の扉を開くことを恐れているから。
以下に理由を述べます。
J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解をマガジンで連載しています。こちらの記事から読んでいただいてもお楽しみいただけますが、01から順番に辿りたい方は下記よりご覧ください。
1 獣のように咆えろ
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』で、「R」が「犬がうなってるみたいじゃありませんか」(97)と言われることについては前回(以下)も触れました。理性ある人間として振舞うことと、狂気にとりつかれ(恋に狂い)、我を失って本能のまま獣のようにふるまうことの対比が、人間社会で通じる言葉を使うことと、獣のように唸ることという対比と重ねられている。それは、複数の文字を連ねて意味をなす〈単語〉と、解体された(斧でたたき割られた)〈アルファベットの文字〉の対比とも重なります。
『リア王』でも、コーディリアが死んだとき、リアは「咆えろ、咆えろ、咆えろ!」(242)と嘆く。狂気に陥ることは獣になること。絶望のあまり人間としての理性を失い、嘆くための言葉さえ忘れて、言葉を知らない動物のように本能のまま咆えるしかできなってしまう状態。
『テンペスト』では、獣に近い野蛮なイメージを付与されたキャリバンが「吼えろ」(35)といわれ、ミランダが「野蛮なお前」「獣のように/わめき散らすだけ。そんなとき私は言葉を教え、/思いが伝わるようにしてあげた」(40)というのに、キャリバンは、「俺に言葉を教えた罰だ!」(41)と言い返す。獣のように吠えることと、人間の言葉を覚えることが対比されています。
同作では、「リンゴがなってるところに案内させてくれ」(86)というセリフや、ゴンザーローの楽園論と合わせて、知恵の実を食べて言葉を獲得するイメージが繰り返されながら、知恵の実を食べて楽園を追放されたアダムとエヴァのように、人間の言葉を教えられることが、獣のようなキャリバンにとっては〈罰〉でもあったと表現されている。
言葉を覚えて使えるかどうかが、獣と人間をわける境界線。言葉で認識し、思考し、コミュニケートするのが理性と知性を持った人間であり、言葉を介さず本能的に行動する獣と対比されている。そして、言葉を覚えることが、人間だけの楽しみを得るのと同時に、獣にはない迷いや苦しみを背負い込むことでもあるのだと語られています。
サリンジャー作品においても、獣になることは、気が狂うことと同義。これが「エズメ」の「獣みたい」という言葉とも結びついています。人間らしい振舞いをする語り手=Xと、獣じみた振舞いをするZの対比。心理学専攻のロレッタによって、Zが猫を殺したとき「一時的に狂気に陥っていた」(柴_179)といわれる状況もこれにあたるのでしょう。そして、ロレッタによればXもまた、戦争の前から「もともとずっと不安定」で今はひどい「神経衰弱」に陥っている人間です。
2 『トロイラスとクレシダ』オー、オー。ハ、ハ、ハ!
エリオットの『荒地』では、「おー、おー、おー、シェイクスピヒーア的ジャズ O O O O that Shakespeherian Rag--」(『荒地』T.S.エリオット、西脇順三郎訳、土曜社、2021年)とShakespeareの綴りを崩して、バベルの塔の崩壊のモチーフとシェイクスピアに描きこまれた言葉の崩壊のテーマが結び付けられていることは、下記でも考察した通りです。
シェイクスピア作品では、〈O オー〉という嘆きの言葉が〈ゼロ 0〉生命や身体の消滅つまり死と結びつく。これが、道化が落下する地獄の口とも結びつく。サリンジャーの「エズメ」では、チャールズの口と、チャールズの手紙に記された〈こんにちは HELLO〉が〈地獄だ、おぉ HELL O〉という嘆きに読み替えられることも、下記でみたとおり。
シェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』では、下記のような恋の歌が歌われます。
恋人たちは「オー、オー」とうめいて死ぬ、
命取りかと思った傷は、
「オー、オー」を「ハ、ハ、ハ!」に変えて、
死に行く恋は息を吹き返す。
「オー、オー」のあとは「ハ、ハ、ハ!」
「オー、オー」は「ハ、ハ、ハ」を産む
These lovers cry “O ho!” they die,
Yet that which seems the wound to kill
Doth turn “O ho!” to “Ha ha he!”
So dying love lives still:
“O ho!” awhile, but “Ha ha ha!”
“O ho!” groans out for “ha ha ha!”—Hey ho!
「オー」といううめき声は恋の狂気=精神分裂=死にゆく悲劇だから二度繰り返される。「ハ、ハ、ハ!」という笑い声は、「息を吹き返す」声、つまり、象徴的な死から再生する歓びだから三度繰り返される。「オー、オー」は「ハ、ハ、ハ」を産む、といわれるように、神話において、死と再生はセット。「2×3=6」が神話の死と再生を意味することは、下記で示したとおり。
半分泣いて半分笑っている道化の顔と同様に、死と再生は、悲劇と喜劇の宙返り。同作で「悲しみのクレシダは陽気なギリシャ人のもとへ」(174)といわれるように、悲しみ「オー、オー」のあとには、陽気な笑い声「ハ、ハ、ハ!」という再生の歓びがやってくる。
神話のなかで英雄が死に近い体験をすることは、現世的な二元世界から解放されて、すべてがひとつになった一元世界へ還ること。人間社会の言葉やルールを覚える前の、獣へ戻ること。そこは、現世的な価値観を超越した、言葉のない混沌の世界、単語がバラバラのアルファベットへ解体された彼岸。
『トロイラスとクレシダ』では、恋による精神的な死と再生の、言葉を超えた悲しみと喜びが、獣の鳴き声のような感嘆詞、アルファベットの「オー O」「ハ Ha」という文字で示されています。
3 「盗まれた手紙」
では、「ブリングBulling」が新しく来た書類を開けたがらないのはなぜでしょうか。これは、精神分析家のジャック・ラカンがエドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」についていった「手紙は必ず届く」という言葉と重ねて考えてみると分かりやすいかもしれません。
ポーの小説「盗まれた手紙」のあらすじはこう。ある王妃が所有していた秘密の手紙が王妃の部屋から大臣によって盗まれる。大臣は自分のアパルトマンの目立つ場所にその手紙を隠す。警察は手紙が隠されているはずの場所を徹底的に捜索するが見つけられない。名探偵デュパンは、きれいな状態で人目につかない場所に隠されていると思われていた手紙が、実はぼろぼろの状態で人目につく場所に置かれていたことに気づき、大臣のもとから盗み出す。というもの。
ラカンは、手紙が二度盗まれる繰り返しを、フロイトの反復強迫の概念と結びつけ、手紙(シニフィアン)は、遠回りをし、姿を変えて、必ず宛先へ届くと述べました。
つまり、無意識に抑圧された内容は、遠回りをし、姿を変えて、錯誤や夢や症状などなんらかの形をとって必ず表面化する。連鎖するシニフィアン(純粋な記号)の論理に基づいて、多くは思いも寄らないときに、思いも寄らない形で、必ず意識の側に浮上してくるということですね。
「エズメ」が発表されたのは1950年。ラカンがポーの「盗まれた手紙」について最初に言及したのは1956年なので、ここに影響関係ありません。けれど「エズメ」で、ブリングBullingが新しく来た書類を開けたがらない(168)という場面は、これと同じことを言っている気がします。
開封をためらっている封筒のなかにあるのは、Xが無意識に抑圧したトラウマ、戦時中に猫を殺したというような汚れの記憶、秘密や罪悪感、あるいは成長する段階で心の奥に押し込まれた獣のような心、本能のまま我がまま放題に振舞っていた子どもの頃の自分、もう一人の自分・影(シャドウ)のことではないでしょうか。
4 ブリング
〈bull・bulling〉は大人になる前の若い雄牛、つまり、言葉や社会のルールを知る前の、本能のままに生きている〈獣〉が暴れているイメージを喚起する言葉。
だからここで、書類が入った封筒を開けたがらない人物の名に、「ブリングBulling」という言葉がつけられているのは、その書類が、Xの中にある獣性、誰もが大人へと成長するときに、少なからず心の奥深くに抑圧した、我がまま放題に振舞っていた頃の、獣としての自分を示しているのではないか、というのが私の解釈です。
そして、後半のXの中にある獣とは、前半でエズメが「獣みたい」と表現した一部のアメリカ兵のことであり、後半におけるXの分身〈Z〉のことではないでしょうか。Xが無意識に抑圧した汚れの記憶や語彙が、封筒の中で、早く開封しろと、進行形で角を突き上げて暴れているような状態が表現されているように読めると思うのです。
前半で黒い歯の詰め物が象徴する自分のなかの黒々とした感情を、エズメに悟られまいと隠していたXは、戦争を通じて目にした地獄のような光景とともに、自らの黒い感情を自分の心の奥深くに押し込めて、自分でも思い出せないように封印した。けれど、兄からの吐き気をもよおすような手紙・言葉・文字・Lettersによって、記憶が心の奥深くで呼び起こされ、暴れ出し、Xから分裂して、目の前にドッペルゲンガー〈Z=クレイ・泥人形〉として現れた。
そんな風に読むと、Z伍長は「何かしゃべりたい噂やぶちまけたい癪の種があると、いつもXに会いに上がって来る」(165)という一文も、心の奥深くに押し込めた記憶が反復脅迫のように無意識の領域=下方から何度も意識の側、Xの目の前に浮上してくるような現象を思わせるものとして解釈できるような気がします。
そして、Xが無意識の奥深くに沈めたい忌まわしい記憶、猫を殺したことを、Z伍長は目の前で自慢げに話して見せる。その背後には、戦地で目にした猫殺しよりもっと恐ろしい記憶もあるに違いない。それが、無意識の深淵で不気味にうごめき、意識の側へ浮上しようと暴れ出している。「ブリングBulling」という仲間の兵士に投影されたXは、その封を開けたくない。すでに心身が衰弱しきっていて、これ以上はとても耐えられないから、記憶の扉を必死で押さえ込もうとしている。Z伍長は、その一部が漏れ出てしまったものの幻影として、Xの前に現れている。そんな状態が表現されているように思うのです。
ここで、ブリングが開けるのをためらう書類は「アイゼンハワージャケット」に関わっている。アイゼンハワーはノルマンディ上陸作戦を指揮して勝利に導いた軍人(「エズメ」が書かれたのは大統領になる前)。だからその封筒の中に隠されているのは、ノルマンディ上陸作戦にまつわる忌まわしい記憶かもしれない。
サリンジャーは、戦前からフロイトの著作や精神分析については興味を持っていたようだし、自身も戦後PTSDや精神衰弱で入院していました。フラッシュバックで忌まわしい記憶がよみがえる実体験などを重ね合わせて、ラカンと似たようなことを感じ、作品に書き込もうとしているような気がします。
さすがに、「盗まれた手紙」についてラカンのような読み方をしていたわけではないでしょうが、サリンジャーがエドガー・アラン・ポーを読んでいた可能性は高い。サリンジャーの「笑い男」にはエドガーという少年が出てきますが、酒の密売に関わったおじさんに育てられたという設定がポーの生い立ちと近いことや、笑い男の赤い仮面がポーの「赤死病の仮面」を連想させることから、このエドガーはポーを意識したキャラクターではないかというのが私の推測です。
そして、ポーは「黒猫」「天邪鬼」「告げ口心臓」で、自らが犯した罪を、もう一人の自分が語りだす様子を描いていますし、「ウィリアム・ウィルソン」ももう一人の自分の良心が、悪い自分を罰する物語として読めますね。罪悪感などに耐えられなくなって、心の奥深くに閉じ込めたもう一人の自分が勝手に動きだすという現象については、意識的だった可能性が高い。
シェイクスピアもまた、『ハムレット』で、「殺人そのものには口はないが/不思議な力の働きでひとりでに語りだすものだ」(114)と記しています。表面上は取り繕っていても、ふとしたきっかけで、心の奥深くに押し込めた感情があらわになってしまうというのは、シェイクスピア作品の重要なテーマのひとつで、サリンジャーが影響を受けていたのは間違いない。
ラカンが述べたようなシニフィアン、記号の差異のネットワークが鍵だとまでは考えていなかったでしょうが、〈letters・手紙・文や単語〉が解体され、意味を失ってアルファベットになっては再構築されるということが日々小さく繰り返されているようなイメージは神話やシェイクスピア作品から受け継がれていますね。それは、もとは別の形で記憶していたはずの手紙が、姿を変えて、ときには意味なき記号として目の前に現れるということともつながっているように思うのです。
5 言葉があったところに 新しい発見が
サリンジャーの「バナナフィッシュ」では、おそらくリルケの「オルフォイスへのソネット」が参照されていることは、同作読解で示したとおり。以下は「オルフォイスへのソネット」の一節。
ゆたかな林檎よ 梨とバナナよ
スグリよ……これらはみんな口のなかへ
死と生を語りかける
(略)
彼が果物を味うときに。それは遠い所から来るのだ
君たちの口のなかがおもむろに名状しがたくなりはしないだろうか?
いつもは言葉があったところに 新しい発見が流れる
(略)
それは二重の意味を持っている それは太陽のものであり 地上のもの 此の世のものでもあるのだ
「バナナフィッシュ」や「テディ」で語られる甘い果実、知恵の実を、リルケは現世の生命のほとばしりとして示すのと同時に、楽園にいたころ、言葉を覚える前の幸福な記憶を喚起するものとしても描いています。それは、獣であった頃の記憶、「エズメ」でいうなら、Zの恋人ロレッタが住んでいる「この世とも思えぬ楽園(paradise)」の感覚といえるのではないでしょうか。
言い換えれば、リルケは瑞々しい果物を味わう瞬間の得も言われぬ喜びを、地上=此の世と、あの世=遠い所を結びつける特別なものとして描いている。得も言われぬ、名状しがたい、筆舌に尽くしがたい、言葉にできない感動を得たときにこそ、人はそれをどうにか言葉にして表現したい、人に伝えたいし納得したい思うものだし、天上に昇るような快感を得るときにこそ、生きてるなあと感じられもするわけで。
そこに吼えるだけの獣が言葉を話す人間に変わっていく契機があるし、此岸と彼岸の狭間を行き来し突破する瞬間というか、この境界線に芸術的な感動や驚きのひとつの秘密がある、ような気がする。
「エズメ」において、封筒のなかでブリングしているのは、Z的な戦時中の忌まわしい記憶、地獄のような過去、汚れに満ちたかつての自分、罪悪感や後悔といった負の要素。ですが、「エズメ」は汚辱に満ちた記憶、愛や希望も、どちらも必ず届くことが示されている物語だ、ということは、下記でも述べました。
「エズメ」で語られているのは、〈良い手紙も悪い手紙も、同じ場所から必ず届く〉ということなのだと思う。「バナナフィッシュ」読解で、シーモアとミュリエルは聖と俗を体現しているが、錬金術的な発想ではこの正反対の二人が夫婦になって一緒にいることが重要なのだと述べました。「エズメ」では、それが地獄を体現するZ伍長と、楽園(天国)にいるロレッタのカップルとして現れている。
手紙が送られてくる場所、彼岸、無意識の深淵は、ときに天国として、ときに地獄として現れる。見え方は道化の宙返りよろしく一瞬で反転するけれど、基本的には同じものの表と裏なんですね。汚辱の記憶がやってくる、まさに同じ場所から、愛の手紙も届けられる。絶望も希望(「エズメ」にはHopeという人物が登場します)も、同じ場所からやってくる。
「シーモア—序章—」で、サリンジャーが考える優れた芸術家がときとして「病める人」であるというのも同じですね。精神的に病んでいるとき、彼等はおそらく地獄を見ている。そんな人だけが地獄=天国からつかみ取って表現できる美しいものがある。これが、下記で考察したような、苦しいからといって、安易に地獄や汚辱を切り離すことはできない、という考え方につながるのではないでしょうか。
6 言葉と吼声のあいだに
前回も触れましたが、『お気に召すまま』には「ああ、あなたが吃りだったらいいのに I would thou couldst stammer」そうすれば、恋する相手の名前を何度も聴くことができるのに、という場面があります(103)。ここには、意味のある〈単語〉と意味なき〈アルファベット一文字〉の狭間に、詩や祈りを見出す発想があるように思うということも、前回述べた通り。
恋人の名前を吃音にのせて聴きたいという願いには、恋人の名前によって鼓膜を震わせる現世的・身体的な快感と、言葉をはるかに超えてあふれだす恋心に溺れる快感の揺らぎに酔っている、という感覚がある。これが意味と無意味、人間の言葉と獣の吼声、意識と無意識の間にある、解体されつつある言葉、あるいは解体されて、再生成されつつある言葉として、本来の意味を残しつつ独特の仕方で破壊された詩や祈り、シェイクスピア流の道化の言葉遊び、吃音や子どものいい間違いなどと重ねられて表現されている。この考え方自体は、ときどき言われてきたことですよね。
「エズメ」で封筒の中に閉じ込められて「ブリングBulling」する言葉は、言葉があふれだして口元で同じ音が繰り返されるイメージとも結びつくような気がします。
普通の言葉遣いと、言葉の意味が解体され、純粋な文字や音の粒となることの間に詩がある。言葉が日常の道具であることをやめ、かといって純粋な記号にまで還ってしまうのでもなく、本来の意味とは別の広がりを持つのが韻文。ラカンがジェイムズ・ジョイスの言葉に見出したララングにも通じるでしょうか。
『お気に召すまま』では、詩について「字あまりmore feet」「(詩の)脚が不自由 the feet were lame」(101)といった言葉で語られています。これが「エズメ」でチャールズが出す壁のなぞなぞの読解のヒントになるのですが、この続きはまた改めて。
7 運命が扉を叩く
『マクベス』では、主人公が王殺しを実行した直後、執拗に扉をノックする音が入れられ、マクベス夫人が「扉を叩く音が」「しっ!まだ叩いている」(57・58)とつぶやく。さらに、マクベス邸の門番が「やけにどんどんたたくじゃねえか! Here’s a knocking indeed! 」と「地獄の門番」のイメージがつけられ「どん、どん、どん Knock, knock, knock!」(59)と繰り返されます。これは心の奥深くに隠した罪悪感が、意識の扉を叩く音ですね。
そして、クライマックスで、マクベス夫人は夢遊病にかかり、眠ったまま「手箱の鍵を開け、紙を取り出して折り、何やら(おそらく殺人の秘密)書き付け、それを読んでから封印」する(151)。その後、夫人は蠟燭を持って登場し、夢遊病のまま手を洗う仕草をする場面でも、「門を叩く音が」(155)とつぶやきます。
同作には、マクベスの「俺の心はサソリでいっぱいだ!」(89)という有名なセリフもありますね。無意識の領域に抑圧しようとしても、不気味にうごめき、隙あらば浮上してこようとする毒を持った汚れの存在を感じさせる言葉です。
罪悪感や秘密を無意識の底に抑圧することが、紙に文字を書き付けて手箱に封印することと結びついている。無意識の領域に閉じ込めようとしても、不気味にうごめき、隙あらば表面に現れようとする感情が、サソリという生き物と重ねられ、それがさらに、門をノックする音と重ねられています。封印した記憶=紙に書き付けた文字=獣化したシニフィアンは、「お前の罪を思い出せ」と意識の扉を執拗にたたく。
また、『オセロー』の終盤にも、夫からあらぬ浮気を疑われ、身の破滅を予感したデズデモーナが、「しっ、誰かノックした?」と友人に尋ね、「風ですよ」(203)といわれる場面があります。ここでは、夫に見捨てられ、間もなく殺されるかもしれないという暗い運命の予感が、扉をノックする音として表現されているんですね。
サリンジャーの「エズメ」に出てくるアルヴィンが、地獄の門を守るケルベロスと重ねられることは下記で述べた通りです。此岸と彼岸、意識と無意識の間には、扉があり、その門が簡単に開かないように守る門番の犬がいる。それでも、忘れたい記憶はしつこく扉をノックし続ける。それは、封筒の中で獣がブリングしていることと同じだと思う。それがもっとひどくなると、「ノックもなしに、いきなりドアがバタンと開い」て、Zが部屋に押し入って来る(165)ことになる。受け取りたくない手紙が、勝手に届けられてしまう。
ベートーヴェンの『テンペスト』はシェイクスピアの同名作を読んで書いたといわれていますし、検索してみると、交響曲第五番『運命』を『マクベス』と重ねて解釈することもあるのだそう。運命を作曲した際にベートーヴェンが『マクベス』を意識していたかは分からないにしても、発想としては近いところにありそうですよね。
作曲家の武満徹は、『運命』の扉をたたく音〈ダ・ダ・ダ・ダーン〉は吃音の音楽であり、「意味が言葉の容量を超える時におこる運動」が吃音で、ここに詩があり、音楽があるのだと述べています。そして、吃音は、言葉と意味の食い違いを確かめようとするしぐさであり、そうして日常的な会話が非現実の容貌をするとき、言葉はもっとも真実に近くなる、真実とは沈黙に射込まれる矢なのだという(『武満徹 エッセイ選』ちくま学芸文庫_236)。
言葉がもっとも真実に近くなる、沈黙に射込まれる矢になるというのは、日常的な意味を超えて、唯一無二の芸術的な意味を帯びるということですよね。そういう音楽だけが、沈黙の世界を射込むことができるのだという。武満徹は、『ハムレット』で主人公が最後にいう「あとは沈黙」という言葉が意味する領域、音なき世界を常に意識しながら、それに匹敵する音楽を作ろうとしていた。そしてその生成の瞬間を、意味と無意味の狭間に見ていたのだと感じます。
沈黙の世界から、音のある世界へ出ていこうとするときのためらいと葛藤、むやみに開けてはならない彼岸と此岸の間にある扉を、こじ開けて突破しようとするちから。その瞬間、吃音や運命が扉をノックする音にこそ真実があるのだという感覚。「エズメ」の封筒の中で暴れているブリングも、これなのではないでしょうか。獣のブリングは、いつまでたってもしつこく扉をノックし続ける。だったらもう、扉をあけて、Zを迎え入れて、話をきいてやって、ご機嫌にして出ていかせるしかないのだ、ということになるのだと思う。これについては以下でもふれたとおり。
サリンジャーは「シーモア—序章—」でベートーヴェンに触れ、自分が散文作家であることを嘆き、詩人への憧れをたびたび書き記していますが、その真意もこのあたりにあるような気がするのです。
8 ドアをノックするのは誰だ?
「エズメ」には、エリオットの『荒地』が重ねられていること、「ヒーロニモーはまた気が狂った」という一節には、言語のすれ違いが心を荒廃させるというバベルの塔のようなテーマが見られることは、下記で見た通りです。
二章には、舌を切られ、ナイチンゲール(夜鶯)に変身させられたフィロメーラ姫について語られた後、以下のような一節があります。
『あれは何の音だ』
戸の下の風だ。
『そらあの音は何んだ。風がどうしてるの。』
どうもしていないのだ。
『何も
知らないの。何も見えないの
思い出せないの
何も?』
思い出す
彼の眼は真珠だった
『生きているのか、死んでいるのか? あなたの頭に何もないのか?』
しかしまあ
おー、おー、おー、あのシェイクスピヒーア的ジャズ
舌を切られ、夜の暗闇の中で人知れず声なき声で泣くことしかできないフィロメーラ姫は、ブリングしたくてもできない獣の美しく弱々しい姿での現れ。それは、下記でみた〈声なき冷血動物である魚〉とも重なります。
忌まわしい記憶を運ぶ風が戸を叩く音におびえて、何も知らない、見えない、思い出せない、頭が空っぽになってしまう。記憶や思考力=言葉が崩壊して、おー O(ゼロ 0)と嘆いて原初の混沌に回帰する。扉が叩かれることと、シェイクスピアShakespeareの綴りのShakespeherianへの崩壊が、ここでは結びついている。これが『荒地』三章で語られる〈タイピスト〉の生活=言葉を撃つ者の精神性の頽廃のイメージへとつながっていく。
さて、ドアをノックしているのは誰なのでしょうか。なんてことを考えていたら、今度は大好きな小沢健二さんについて書きたくなってきましたが、それはまた改めて。今回はここまで。お読みいただきまして、ありがとうございました。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

