08_チャールズの口が、がくんと開くのはなぜか?_ J.D.サリンジャー「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」解釈
Q. チャールズの口が、がくんと開くのはなぜか?
「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」の後半、語り手になぞなぞの答えを言われてしまったショックで、「チャールズの口ががくんと開いた Charles’ mouth fell open」(柴_166)という場面があります。『キャッチャー』読解でも触れた、サリンジャー作品おなじみの表現ですね。
本稿の解釈はこう。
A. 道化になった語り手が、地獄の口へ落下しつつあることを示しているのでは。
以下に理由を述べます。
J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解をマガジンで連載しています。こちらの記事からでもお楽しみいただけますが、01から順番に辿りたい方は下記よりご覧ください。
1 縞のネクタイ
「エズメに捧ぐ」前半で、語り手が必死に隠している黒い歯の詰め物、黒く汚れた感情をエズメは敏感に察知し、自分のために汚辱の物語を書いて欲しいと頼むことは、以下で考察しました。
エズメが直観している、悪を切り捨てるのではなく包摂すべきという考え方を、幼いチャールズは無邪気に体現してみせます。「バナナフィッシュ」読解でも触れましたが、「テディ」の主人公や「ハプワース」のシーモアのように、サリンジャー作品において、幼い子どもはしばしば幼児神のように語られます。大人社会の現世的なルールに縛られていないため、幼い子どもの方が現世を超越した世界を見透かすような能力を持っている。
「バナナフィッシュ」のシビルと同じ、両性具有的な身体を持つ子どもは、シビルの水着の青と黄色のような目に見える価値観に縛られていないため、「エズメ」のチャールズの目と同じ、青と黄を混ぜた緑色で表現される。神話において、幼児神といえばヘルメス=メルクリウス=道化とも重ねられ、錬金術の賢者の石にも結びつくキャラクターです。現世的な二項対立の価値観を超越した一元世界の価値観でものを見ることができる。男女、生死、善悪といった対立物がいっしょくたになった世界のなかにいるんですね。チャールズが天使と悪魔の顔を併せ持つことは、下記でも示したとおりです。
チャールズが締めている縞のネクタイは道化のまだらの衣装。善的に振舞いながらも悪の性質を隠し持つ、前半の語り手〈私〉の内面を投影する影の役割を担うとともに、それをたたき割って切り離すのではなく、どちらも自分のものとして包摂した姿を現しているように思います。
2 がくんと開く口
チャールズは「天性のいたずらっ児らしいとぼけた表情をして、目はたえず家庭教師の顔に注ぎながら、自分の椅子を押し込んだり引き出したり、押し込んだり引き出したり、それを何度も繰り返して平然と彼女をからかいだした。」(144)「チャールズは、椅子に坐った身体をずるずると沈めていき、テーブルクロスを目のあたりまでひきあげて、顔を半分ほど隠してしまった。そして、目だけを出したその格好のままで私を見ていた」(155)と描写される幼い男の子のあどけない仕草は、光と影、此岸とその向こう側にある彼岸世界、意識と無意識の領域を行ったり来たりするような姿にも見えます。
『キャッチャー』でホールデンが水道の蛇口を出したり止めたりする神経症的なしぐさとも似ていますね。道化は此岸と彼岸の境界にいて二つの世界を行き来し、涙と笑いに満ちたバランス芸で、二極を結び付ける働きを持つといいます(『道化の民俗学』山口昌男、ちくま学芸文庫、1993年)。
チャールズが語り手の「私の片方の足の上にのっかって」(157)なぞなぞをだしたり、「片方の脚がもう片方より十センチくらい短い人間のように痛ましく足を引きずって」(柴田訳_159)歩いたりするのには、彼が此岸と彼岸に片足ずつ踏み入れている者であることを表現しているともいえるでしょう(詳細は前回の記事をご覧ください)。
サリンジャー作品では、帽子が狂気にとりつかれて頭が肥大した人=愚者のしるしであることは、『キャッチャー』「バナナフィッシュ」読解でもみた通り。チャールズが「ナプキンを取り上げて、頭の上にのせた」のも、道化がかぶる帽子を思わせます。
だから、語り手がなぞなぞに応えてしまったショックで、「チャールズの口ががくんと開いた」(柴_166)のは、伝統的な道化芝居で、道化が落下する地獄の口を表すのではないでしょうか。これが後半にXが入り込む地獄、アルヴィンという精霊の犬が門番を務める彼岸世界へと通じる。地獄はその人の内面にあるものだから、そこからXの嘔吐やZのげっぷが出てくる。サリンジャー作品における地獄の口については下記でも考察しました。
エズメがチャールズについて、「とてもお利口なこともあるし、そうでないときもあるんです」(151)と語ること、チャールズはテーブルクロスの下から「目だけを出したその格好のままで私を見ていたが、その目には、笑いの色がまだ消えがてに漂う中に、秀逸な謎の一つ二つを心得ているという誇りがこもっていた」(155)ことは、チャールズが愚か者のふりをしながら、すべてを見透かし、風刺のきいた皮肉で現実世界を茶化すワイズ・フール・賢い道化であることの表現。
「ひとつの壁が隣の壁になんて言ったか?」というなぞなぞ、「角のところで会いましょう」という答えは、二極一致、相反する価値観、XとZが統合されることの象徴。だから、なぞなぞの秘密を知り、答えを明かすのは、善悪両方の性質を内包し、緑の目を持つ賢い道化のチャールズでなければならない。
ゆえに、二度目にこのなぞなぞをだして、語り手がその意味を深く考えることなく答えをいってしまったとき、チャールズは語り手の片方の足の上にのっかって、がくんと地獄の口を開け、彼のネクタイの結び目は緩みかけている(柴_165)。これらが、語り手がXとZに分裂しつつあること、地獄の口へ落下しつつあることの兆候、あるいは予言となっているわけです。
前半、語り手がチャールズと「鼻を擦り合わせ」そうになり、「映画じゃどうしてみんな、はすかいにキスするの?」という問いに「俳優の鼻が高いので、まっすぐにはキスできないからだろう」と答える(150)のは、ひとつには、道化の特徴である鼻を使って、前半ではチャールズが語り手にとっての道化役を務めていることを示すためではないでしょうか。
後半でXが、「散髪しなければならぬくらい毛がのびている」(162)というのも、道化の散髪芸を連想させます。道化の鼻も、散髪芸も、サリンジャー作品で何度も登場するおなじみのモチーフですね。
3 地獄だ、おぉ
前半の語り手が、後半でXとZに分裂することが、ゾシマ長老の「地獄とは何であるか?」という言葉につながり、チャールズの双面性が、ゾシマ長老の「罪をとおしての浄化」の教えと結びつくことは下記で述べたとおり。
後半、エズメがXに宛てた手紙の最後にチャールズが書き加えた部分で、彼は自分の名前の綴りCharlesを、Chalesと書き間違えている。ゆえに、チャールズが書いた「HELLO HELLO HELLO …… こんにちは こんにちは こんにちは ……」が、「HELL O HELL O HELL O…… 地獄だ、おぉ、地獄……」といううめき声に変わる可能性を秘めていることは、先行研究で指摘されています(F)。
これも道化チャールズによるアクロバットですね。分裂した精神の統合を促す賢者の石として、チャールズから語り手=Xへ贈る「HELLO こんにちは」は、彼が「陶然と引き込まれてゆくような快い眠気」(176)「本当の眠気」から目覚める瞬間への祝福の言葉。そのとき、語り手の心の傷は癒え、新しい姿で再生する、そんな未来への祝福の言葉。
だけれど、斧でたたき割られ、精神的・象徴的に「さ・つ・が・いされた s-l-a-i-n」状態にあるXの心身は、「キ・ノ・ウ f-a-c-u-l-t-i-e-s」が無償のまま戻らない可能性もまた残されています。Chalesに〈r〉が足りないように、時計の部品に例えられたその体には、斧でたたき割ってしまった〈Z〉の一文字が足りないかもしれない。本当の眠気から目覚めたとき、彼がいる世界がいまだ「おお、神よ、人生は地獄である」(163)という、ナチスの下級官吏の嘆きに反転してしまう可能性も十分にある。目覚めた後も、天国と地獄は依然として語り手=X=Zの中にありつづけ、揺れ続けているのではないでしょうか。
4 ガス・マスクは捨てた
チャールズが「おかしくておかしくて我慢できないらしい」ほど笑って「まるで咳の発作でも鎮めようとするように、背中を叩いてやらなければおさまらないくらいだった」(154)なぞなぞをだすたびに「かならず発作を起こすの。たいていは笑いながらよだれも垂らすわ」(柴_163)と、異様なくらいに笑い転げる様子には、どこか病的な雰囲気が漂います。
ここでは道化の笑いが、呼吸困難と重ねられているのではないでしょうか。サリンジャー作品において、心の中に地獄を抱えている人物は呼吸が浅くなること、それは聖書で、磔刑にかけられたイエス・キリストが呼吸困難で亡くなることからの連想があるのではないかという解釈は、『キャッチャー』読解[02_見えない傷](下記リンク)で示したとおり。
神話で英雄が洪水や水難によって亡くなり、地獄の業火に焼かれ、浄化されたのちに再生することも、[06_髪のよごれが強調されるのはなぜか?](上記リンク)で示したとおり。水死にも炎に包まれることにも、呼吸困難のイメージが伴いますよね。
「エズメ」の前半で、語り手が「ガス・マスクそのものは、数週間前、モリタニア号の舷窓からこっそり捨ててしまった」(139)ということ、Zが部屋から去ったあと、Xが「激しい動悸」(173)を感じていることも、語り手が地獄にいることの表現ではないでしょうか。
5 歯茎の出血と希望
抜歯は太古の通過儀礼に結びつきますし、フロイトらの夢判断においては、抜歯や歯の不具合は、足・脚の傷と同様、象徴的な父から精神や自我を傷つけられる事態を象徴するともいわれます。エリオットの『荒地』や『キャッチャー』でも、オイディプス・コンプレックスを持っている者のしるしが、足・脚の傷と、抜歯や歯の不具合の対で表されていることは、下記でみたとおりです。
「エズメ」の後半で「歯茎を舌で押しただけで血が出てくる」というXの健康状態もこれと同様。前半で黒い詰め物を入れていた歯がいよいよ悪化していることが、内面に抱える黒い感情が大きくなっていることを示しているようにも思えます。また、血を流すことも、イニシエーションや浄化の表現。XとZにたたき割られた男は、血を流す痛みに耐え、再生へ導かれるのかもしれません。詳細は下記をご参照ください。
ZはXに、「おい、階下へ行って、ボブ・ホープのラジオでも聴かねえかよ」(171)と誘います。Wikipediaによれば、ラジオパーソナリティのボブ・ホープは、歯磨き提供のラジオ番組をやっていたとのこと。正確な年代はわかりませんが、これが戦後の「エズメ」の年代と重なるなら、サリンジャーがこれを意識していた可能性も高いのではないでしょうか。
『キャッチャー』や「ズーイ」などでも、オイディプス・コンプレックスを克服しようとする主人公が歯磨きの箱を蹴飛ばす場面や、歯磨きをする描写が出てきますよね。「エズメ」では、戦争で傷ついた心が回復することへの〈Hope 希望〉が、最後の一行「無傷のままの人間に戻る可能性」(176)へ結び付けられていると解釈したい。Xは、Z=悪を包摂してこそ再生できる。だから、希望の言葉は、Zによってもたらされることが重要なのかもしれません。
6 小鳥ちゃん
前半で、語り手はエズメが参加している児童合唱隊の歌声を「美しく流れて、しかも情緒に溺れず、私のように不信心な男でなかったら、労せずして天上に遊ぶ思いを味わったのではないだろうか。」(141)と称賛します。「小鳥ちゃんだって、あのきれいな歌を歌うときには、小ちゃなお口を、大きく大きく大きく(wide, wide, wide?)あけて歌うでしょう?」(141)といわれる「口」は、エズメの美しい声が出てくる場所。
対して、「子供たちの歌のおかげでせっかく陶然となった気持を、先生のきたない声で掻き乱されないうちにと思い、席を立って教会を出た。」(142)と語り、大人のきたない声がでてくる口をチャールズが開けた地獄の口と結びつけています。この対比が、タイトルの〈愛と汚辱〉や〈天国と地獄〉と重なる。心の内、体内が美しい人は美しい声を、精神、体内が汚れている人、病んでいる人は汚い声やげっぷ、嘔吐がでてくるわけです。
7 連鎖状球菌の伯母
両親を亡くして伯母の家で生活をしているエズメは、表面上は「伯母はとっても親切な人」だと言いながら、「伯母はわたしのことを、すごく冷たい人間だって言う」(149)ともこぼしています。伯母に感謝をしつつも、完全に心が通じ合っているわけではない、複雑な心境が表されていますね。
物語の最後、エズメからの手紙に、伯母が「喉の連鎖状球菌にやられた」(174)と書かれているのは、この場面で一時的に大人の汚れた声が消え、手紙によって語り手に、エズメとチャールズの美しい声が届く状況を演出したものかもしれません。
8 耳を半分隠すこと
サリンジャー作品では、直接会話が意識の領域でのコミュニケーションを、電話や手紙などを通した間接会話が(集合的)無意識の領域を通してのコミュニケーションを意味することは、「バナナフィッシュ」読解でもみたとおり。一般的には直接顔を合わせて会話をする方が優位に考えられますが、サリンジャー作品ではこれが逆転します。間接会話の方が、より心の深い部分で、本当の意味で分かり合えるという感覚があるんですね。
前半で語り手が軍帽を「両の耳にわずかにかぶさる」独特のかぶり方をする(140)のも、彼が此岸と彼岸、あるいは天国と地獄の音に、半分ずつ耳を傾ける者であることの表現ではないでしょうか。戦時中の、汚れを含む現実の音に心を引き裂かれつつある語り手は、エズメの美しい歌声に象徴される、天国にだけ響く音に耳を傾けたいと願っているのかもしれない。
エズメが「金髪をいくすじか摘み上げ、むき出しになった耳の線を隠そうと」(148)するしぐさは、語り手と心の深いところで対話をしたいと望んでいることの表現かもしれません。
物語の最後にエズメから届く手紙には、語り手が聴きたいと望んだ、エズメとチャールズの美しく澄んだ歌声だけが響いている。それがXの心を癒していくのだと思います。
9 祝福のキス
「エズメ」の前半で、チャールズが別れの際に、語り手の右の耳のすぐ下のところにキスをする(159)のは、語り手の耳がいずれ彼の求める美しい音を感知できるようになるようにと願いを込めたものではないでしょうか。
前半には、語り手がチャールズと「鼻を擦り合わせ」そうになり、チャールズが「映画じゃどうしてみんな、はすかいにキスするの?」と問うのに、語り手が「俳優の鼻が高いので、まっすぐにはキスできないからだろう」と答える(150)場面がありましたね。
「この世界すべてが一つの舞台、/人はみな男も女も役者にすぎない」(84)と記したシェイクスピアからの影響が強いサリンジャー作品において、人はみな役者であり道化。鼻が高いのはそのしるしで、道化は愚者=狂気に陥っている者=精神が分裂している者であることを示します。
「エズメ」の語り手も道化であり、道化は鏡を見る者で、基本的にはペアで現れるから、この場面で、チャールズが語り手の影を務めていることは、前述のとおり。俳優同士がキスをするイメージは、ここで語り手にキスをするチャールズにそのまま重なります。
そして、シェイクスピア作品、サリンジャー作品において、口づけは相反する二項が統合されること、分裂していた精神がひとつになることの象徴です。
語り手が「首筋に」チャールズの「なま温かい吐息がかかるのを感じた。」(150)という一節は、聖なる者が息を吹きかけることで、精霊や命を与えると言われることが重ねられたもの。この表現も、『キャッチャー』と共通ですね(詳細上記リンク[31_地獄の口]参照)。
これが、物語の終わり、手紙の最後に記されたチャールズの「LOVE AND KISSES CHALES」と対になっています。副題の「Love and Squalor」の〈汚辱〉が、最後に緑の目を持つチャールズのキスに置き換えられ、XとZに分裂した精神の統合への祈りと祝福がもたらされる、そんな思いが表現されているのではないでしょうか。
今回はここまで。お読みいただき、ありがとうございます。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

