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15_チャールズがだす壁のなぞなぞの意味とは?_ J.D.サリンジャー「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」考察

Q. チャールズがだす壁のなぞなぞの意味とは?
「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」で、チャールズは「ひとつの壁が隣の壁になんて言ったか?」というなぞなぞを出し、「角のところで会いましょう」が答えなのだといいます。このなぞなぞが示すものは何でしょうか。

本稿の解釈はこう。
A. XとZが統合され、大工として新しい壁=世界観の再構築へ向かうこと。
以下に理由を述べます。




J.D.サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』に収録の「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解をマガジンで連載しています。こちらの記事から読んでいただいてもお楽しみいただけますが、01から順番に辿りたい場合は下記よりご覧ください。

1 『テンペスト』大工道具

「バナナフィッシュにうってつけの日」に登場するシビルの姓カーペンターや、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」のタイトルなど、サリンジャー作品に描かれる大工には、大工の息子もまた、上の世代から与えられた世界観を一度壊し、次の世代の大工となって自分の世界を構築せよという神話の教えが示されているのではないか。これにはシェイクスピアの『テンペスト』で、ファーディナンドが丸太を積み上げている場面からの影響があるのではないか、という解釈については、下記で示しました。

『テンペスト』の別の場面では、プロスペローが「私が作り上げた人間どもを(弟が)作り直し new created/The creatures that were mine.」(20)という。訳者の松岡氏はこのセリフの注釈に「天地創造にも通じるニュアンスがありはしないか」と記しています。
 
前回の記事でもふれましたが、『テンペスト』の終盤、プロスペローが「測量の錘も届かぬ深みに/私の書物も沈めてしまおう」(141)といって、必要なくなった魔術にまつわる書物を沈める場面で言及される「測量の錘」は、プロスペローが無人島に自分の世界を創造するために使っていた大工道具ではないでしょうか。

2 斧とクリスマス・ツリー

サリンジャーの「エズメ」にでてくる〈斧〉もまた、大工道具のひとつなのだと思う。過去記事で見てきたとおり、「エズメ」の〈斧〉は、語り手の心をX=善とZ=悪にたたき割り、彼の体と心の「キ・ノ・ウ f-a-c-u-l-t-i-e-s」を象徴的に「さ・つ・が・い s-l-a-i-n」して、新しい世界を創る材料へと解体するアイテム。
 
「エズメ」の後半でXは、兄からの無神経な手紙を破り捨て、屑籠の中に足の写真を見つける。それが、斧で断ち切られた精神的な傷の象徴であることは、以下で述べた通り。

そのすぐあと、Xは「連続した電線でつなぎ合わされたクリスマス・ツリーの電飾が、どこかの電球が故障すると、みな一斉に消えてしまう、あんなような感じ」(165)になる。直後に、ドアがバタンと開いてZがやってきます。だから、このクリスマス・ツリーの電飾が消えたような気がしたときが、XとZが分裂した瞬間なのだと思う。ここで、Xは光=正気を見失い、影=狂気的なZに精神的な主導権をのっとられた、白優位から黒優位に転じたともいえるでしょうか。
 
シェイクスピア作品、サリンジャー作品には樹木信仰が描かれていて、木は人の分身なのだという考え方については下記で述べた通り。

「エズメ」の後半、クリスマス・ツリーに例えられるXは、斧でたたき割られた瞬間にXとZに分裂した。それが、ツリーの電飾が消えたような感じとして語られているのではないでしょうか。また、手紙や言葉が人と重ねられていることも下記でみた通り。

シェイクスピアの『お気に召すまま』で、オーランドーが「この木々が俺の手帳だ、/その幹に思いの丈を掘りつけておこう」「木という木に刻みつけるのだ、/たとえようもなく美しく清らかなあの人の名を」(91)といいながら恋の相手ロザリンドの名を刻む場面も思い出されます。
 
木は人であり、人は言葉で出来ていて、木を斧でたたき割ることは、言葉で積み上げられた人の心をバラバラにすること。木に名前を刻み、その名前をXやZというアルファベットにしてしまうこと。
 
「エズメ」で、語り手が斧でたたき割られ、XとZに分裂したとき、語り手のなかの言葉・言語体系も一緒に破壊されている。「さ・つ・が・いされた s-l-a-i-n」「キ・ノ・ウ f-a-c-u-l-t-i-e-s」という表記はそれを示しているのだと思う。だから、アルファベットへと解体された一文字一文字は、『テンペスト』でファーディナンドが運んでいた丸太のような、大工の息子が新しい世界を再構築するための材料になるのではないでしょうか。

3 柱と梁、十字架とX

神話学者のジョーゼフ・キャンベルは、クリスマス・ツリーはイエス・キリストが磔刑にかけられた十字架に結びつくと述べています(G)。すると、大工の息子(神話の英雄)がツリーを飾るのは、象徴的に死んだあと、復活して新しい世界を立ち上げ、それを祝福する意味があるのではないでしょうか。
 
サリンジャーはこのことを分かったうえで、「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」や『キャッチャー』でホールデンがサリーに電話をかけて、「ツリーの飾りつけを手伝ってあげる」と三度繰り返す場面を描いているのだと思う。また、『キャッチャー』でホールデンがクリスマス・ツリーを運ぶ男たちを見る場面は、ホールデンがこれから弁護士の父との確執や、兄DBの存在を乗り越えて、自分なりの世界を立ち上げようとする未来への希望として読めます。
 
それは、オシリスの豊饒祭祀で建立されるジェド柱に象徴される〈柱〉を立て(詳細上記リンク[21_大工の息子]参照)、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」のタイトルにもあるとおり、より高い〈梁〉を渡そうとすることとも重なるでしょう。十字架を立てよ、自分の世界を構築せよという願いは、「エズメ」の後半の主人公〈X〉の呼び名に結びつく。三つの線(要素)が分かれている〈Z〉から、両者がクロスする統合の〈X〉になることが目指される。それを導くのが、グリーンの小包やチャールズのグリーンの目であること、これが錬金術における賢者の石や、ヘルメスに結びつくことは下記で述べた通り。

聖杯伝説や異端派信仰についての研究書によれば、ヘルメスはXの守護神といわれ、Xは真の啓示や真実を意味するのだそう(『マグダラのマリアと聖杯』マーガレット・スターバード、和泉裕子訳、英知出版、2005年)。ヘルメス=道化が此岸と彼岸を行き来して両者を結ぶ者であり、十字架が立ち上げられる瞬間が、英雄の死と再生、新しい世界の創造のはじまりと考えられていたからかもしれません。サリンジャーはこれらをある程度意識して、後半の登場人物をXとZにしたのではないでしょうか。
 
そして、十字架が柱と梁の象徴なら、『テンペスト』でファーディナンドが運んでいた丸太は、アルファベットの一文字をさらに解体して、〈Z〉にある二本の線を使って〈X〉を創りなおす想像もできる。そんな発想を、サリンジャーは神話やシェイクスピアから学んだのではないでしょうか。

4 『ロミオとジュリエット』言葉の創造

『ロミオとジュリエット』で「Rだなんて、犬がうなってるみたいじゃありませんか」というセリフが言葉の解体であるという考察については下記で述べました。

このセリフのあと、乳母は「お嬢様は、あなたのお名前とローズマリを組み合わせて、何やらキンケンみたいな文句をお作りですよ。」(97)と続けます。キンケンと訳されている部分は、注釈によると〈sentences金言〉を〈sententious気障な〉といい間違えているマラプロピズムとのこと。前回、マラプロピズムは言葉の解体のひとつの表れだと述べました。ここではそれが言葉を〈つくる〉行為として現れているんですね。いちどアルファベットに解体した文字を使って、自分なりの新しい言葉を創造しようとしている。これが世界の創造に結びつくように思う。
 
ロミオとジュリエットの恋は悲劇に終わりますが、ここでロミオが言葉を創ろうとする行為には、大人同士がつくった確執を乗り越え、若者が自分たちなりに恋を成就させられる新しい世界を創造しようと試みている様子が仄めかされているのかもしれません。

5 「エズメ」Xの言葉の解体と創造

「エズメ」の後半でXは、「一時間以上も前から、同じ文節を三度ずつ繰り返しながら読んできたのだけれど、今度はそれを文章ごとに切って、同じ文章を三度ずつ繰り返し読んでいるところであった」(162)といいます。精神衰弱に陥っているXは、まとまった文章を読むことに困難を覚え、文章を区切りながら読んでいる。ここから彼の言葉の解体が始まっているんですね。
 
Xは、ナチスの下級官吏の持物である書物に「おお、神よ、人生は地獄である」という書き込みを見つけます。そしてその下に、「諸師よ、地獄とは何であるか? つらつら考えるに、愛する力を持たぬ苦しみが、それである、と、私はいいたい」という『カラマーゾフの兄弟』の言葉を書き記し、ドストエフスキーの名を書きかけます。けれど、

ふと見ると、その綴りがめちゃめちゃで、まるで判読に苦しむものを書いていることに気がつき、慄然たる思いが全身を貫いて走った。

(164)

とづつく。ここでXは、自分の心身の状態が、まともに文字も書けないほど悪化していることに慄いています。同時にそれは、彼の既存の言語体系、象徴的父から与えられた世界観が崩れる予兆とも読める。自分の心身の「キ・ノ・ウ(f-a-c-u-l-t-i-e-s)」がバラバラになることは確かに恐ろしい。けれど神話では、その試練をくぐり抜けてこそ、ゼロから新しい世界を創造することができるという考え方があるのも確か。いま持っている世界を手放すことができた者だけが、新しい世界を手に入れることができるのかもしれない。
 
そして、ナチスの下級官吏の持物である書物『未曽有の時代』の書き込みに、文字が崩壊しつつあるのを感じながらなお、自分の言葉を上書きしようとするXの行為には、父世代から与えられた所与の言語体系を壊して、自分の言葉・新しい世界観をそこに上書きしていこうとする意志が感じられます。
 
前回、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』で、ポーシャが証文に新しい解釈を与え、自分の言葉で世界の〈法〉を書き換えることが、父の遺言を乗り越え、自分の望む未来を切り拓くことだと述べました(詳細下記参照)。「エズメ」のXが新しい書き込みをしようとするのも、これと同じだと思うのです。

そんな両義的な意味をはらみつつ、ここから、Xは兄の手紙を読み、それを破き、言葉をさらに解体して、Zとの会話へと進んでいくわけですね。そうして、Xはゆっくりと、大工の息子として新しい世界を再構築する方向へ進んでいく。ゼロ=地獄の口(下記参照)から、バラバラになったアルファベットの文字を使って、自分の言葉、自分の世界観や価値観を築き上げていくのだと思う。
 
素人考えですが、精神分析では、不調の原因となっている無意識に抑圧された言葉にならない体験やトラウマを思い出し、言語化して客観的に語れるようになることが、癒しや治癒につながることがあるといいますよね。これも、自分の言葉で語ることから再生がはじまるということと、どこかで結びついているような気がします。

6 壁のなぞなぞ

前回(上記リンク)、シェイクスピア作品において、言葉が記された手紙や書物とともに、木(十字架やクリスマス・ツリー)や城壁、石塀もまた、バベルの塔につながる、内なる世界観の象徴ではないかと述べました。神話やシェイクスピア作品において、人の精神が神殿や建物に例えられることも、下記で述べた通り。それは「バナナフィッシュ」でシーモアが撃ち抜いた〈temple こめかみ〉にも通じます(詳細上記リンク[21_大工の息子_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』考察]参照)。

「エズメ」でチャールズがだす「ひとつの壁が隣の壁になんて言ったか?」というなぞなぞ、「角のところで会いましょう」という答えの意図もここから解釈したい。チャールズがいう一つひとつの壁は、XやZがそれぞれ、精神的な落ち込み、象徴的な死を体験した後、復活して、新たに構築しようとする壁ではないでしょうか。

だけれど、壁一枚では神殿はできない。柱を建てて梁を渡し、幾枚かの壁を角のところでつないでこそ、立派な神殿になる。それは、バラバラに分裂していた心が再び統合されることを意味するのではないでしょうか。「角のところで会う」瞬間とは、錬金術でいう精神の黄金が達成された瞬間のこと。善悪などの二極に分裂していた精神がひとつになり、安定すること。
 
それは、大工の息子が内面化していた父の存在を乗り越え、自らの弱さや汚れを認めて、より大きな世界を構築しなおすこと、自分の言葉で新たな世界観を創造し始める瞬間のこと。心のなかに前よりもひとまわり大きな神殿を建てられたとき、「エズメ」の語り手は、以前よりも成長した姿で、以前よりも少しだけ明るく見える世界に立てるのだと思う(もちろんそんなに簡単じゃないよね、という両義性も、「エズメ」にはしっかり書かれているわけですが)。
 
「ズーイ」にも、壁と一体化した居間の本棚についての仔細な描写がありますね。そして、学問的な知識を積み上げるさまを象徴するかのような学校の建物と、洞窟(再生の胎内、『テンペスト』にでてくる洞窟と同じ)のようなグラス家の部屋が対比されています。
 
また、『ナイン・ストーリーズ』の「愛らしき口もと目は緑」の最後に、リーが眩しがるように額に手をかざすしぐさもこれと結びついているのかもしれません。壁と壁と天井が角のところで出会うあたりに、エピファニーが現れているとも読める一節のように思います。『ナイン・ストーリーズ』の短編同士は、いくつかのモチーフが重なりあいながら、イメージが広がっていく仕掛けになっているので、これもそのひとつではないかというのが私の想像です。
 
ところで、以前の記事でも少し触れましたが、サリンジャーがエドガー・アラン・ポーを読んでいた可能性は高いと思う。ポーもまた、シェイクスピアを読み込んでいたようで、並べて読んでいくととても面白い。「アッシャー家」の屋敷の崩壊は、ロデリックとマデラインの死と結びついているし、「黒猫」の最後に崩れる壁は、主人公の理性と狂気の間にある壁の崩壊ですよね。なんて言い出すとまたきりがないわけですが笑。

7 キャンベル・タータン

〈X〉の呼び名は、エズメが「両足を互いに交差して立ち、足元を見下ろしながら、靴の爪先を両方きちんとそろえてみたりなどしているのだ。これは、ちょっとほほえましい仕草だった。白のソックスをはいた少女、足首から全体にかけて実にかわいらしい。」(158)と描写されるしぐさとも結びつきます。
 
さらに、前半でエズメが「着ている服はタータン・チェックの毛織物——キャンベル・タータンにちがいない。年端のいかない女の子がざんざん降りの雨の日に着るにはいかにも格好なものをえらんだものと、私には思えた。」(144)という記述ともつながる。
 
ざんざん降りの日というのは、精神的な浄化、洪水が起こる日ということ。「オハイオのあたりには、ひどく荒れた土地がある」(146)というセリフに現れているように、今の時点では、語り手もエズメの心のなかも、戦争の影響でひどく荒廃している。けれど、いずれは大雨と洪水によって浄化され、まっさらになった大地に、タータン・チェックが象徴する十字架=クリスマス・ツリー=柱と梁を建て、壁を角のところでつなぎ合わせて、自分らしい神殿を建てられる日が来るはず、そんな希望が込められた記述ではないでしょうか。
 
サリンジャー作品で描かれる布が、傷ついた心身を癒す包帯の意味を持つことは、以下でふれた通り。

エズメがまとうキャンベル・タータンは、包帯として語り手の傷を癒しながら、新しい世界の創造を促すために描きこまれたアイテムだと思う。
 
詳しくは改めてまとめますが、シェイクスピア作品では、人が布に例えられる記述も何度も出てきますね。縦と横の糸を織って一枚の布に仕上げられたものが、その人の世界観を象徴する。これが柱と梁と結びついていく。同時に、誰もが少なからず運命の糸に操られているというイメージも重なってくる。これらを踏まえて、トマス・ピンチョンは『競売ナンバー49の叫び』で、女性版オイディプスがレメディオス・バロの絵画《大地のマントを刺繍する》に心を揺さぶられる場面を描く。じゃあこの作品に描かれた私的地下組織の郵便システムって……、というつながりがあって、これも考えていくととても面白い。
 
などと、際限なくつながっていきますが笑。「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」の読解記事は今回でいったん終わります。お読みいただき、ありがとうございました。次回からまた別の作品を考察していきますので、引き続きお付き合いいただけたらうれしいです。


J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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