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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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シェイクスピア作品にみられるバベルの塔の崩壊のイメージ

サリンジャーの「バナナフィッシュ」読解では、シビルが砂の城を踏んで壊す姿が、バベルの塔の崩壊を暗示しているのではないかと述べました。サリンジャーはこれを、シェイクスピア作品やT.S.エリオットの『荒地』の影響を受けて書いていると、私は思うんですね。

前回までの記事でも、サリンジャー読解と題しつつ、半分はそれに影響を与えたシェイクスピア作品にみられる言葉の解体についてみてきました。簡単にまとめると、シェイクスピア作品では、道化たちがマラプロピズムと呼ばれるおかしな言い間違いで言葉の意味を崩したり、道化らしい宙返りで意味を反転させたりする場面が何度も出てきます。また、ロミオは恋に落ちて正気を失ったとき、単語を解体して〈R〉というアルファベットの一文字にしてしまう、それが、犬がうなっているようだと表現される。リア王は娘を亡くして絶望に突き落とされたとき、言葉を超えた悲しみのために、獣のように吠えることしかできなくなる。感情が理性の枠を超えるとき、言葉の意味よりもはるかに大きなものとなってあふれだすとき、正気を失って狂気に陥ったとき、シェイクスピア作品では言葉や単語、文章が崩壊して、獣のようにうなったり吠えたりする人の姿が描かれています。(詳しくは過去記事をご覧ください)

シェイクスピア作品では、この言葉(の崩壊)が、塔や柱、城壁(の崩壊)などとも結びつけられています。これを、神話の〈バベルの塔〉と重ねて読むと面白いのではないか、少なくとも、T.S.エリオットやサリンジャーはそのように読んだうえで、自作に同じモチーフを描きこんでいるのではないか、というのが私の解釈です。文献にはあたれていないのですが、AIに訊いた限りでは、シェイクスピア作品とバベルの塔を結び付ける論考はないとのこと。なので、あまり正統な読み方とはいえないかもしれませんが、読解の可能性を広げる試みのひとつとして、お楽しみいただければうれしいです。

※もくじにあるシェイクスピア作品についてネタバレになりますのでご注意ください。


こちらのマガジン〈サリンジャー×シェイクスピア読解〉では、J.D.サリンジャー作品を読み解くにあたり、押さえておきたいシェイクスピア作品の解釈を掲載しています。サリンジャー読解と合わせてお楽しみいただければうれしいです(最後にリンクをおきます)。

1 『終わりよければすべてよし』パローレス

『終わりよければすべてよし』には、フランス語で〈言葉〉を意味する「パローレス」という名前のキャラクターが登場します。彼は伯爵バートラムの連れ(従者と言っていいか微妙ですが、それに近い立場の人)として、彼と行動を共にします。
 
パローレスは、見栄っ張りで、派手な服装で飾り立てて、自分は勇敢な軍人だと言葉巧みに触れ回っています。複数の外国語を話すことができて、口先は達者だけれど、内心は大変な臆病者、中身がまったく伴っていない人物。王になりながら、自分の犯した罪に怯えるマクベスや『ハムレット』のクローディアスなど、外見は立派で華やかに見えるのに、内面は弱く卑怯で、悪に汚れているなど、外見と中身がバラバラの人物は、シェイクスピアが描く未熟者の典型ですね。
 
『終わりよければすべてよし』で、バートラムとその仲間は、パローレスの本性を暴くために、敵の兵士のふりをしてパローレスを捕え、目隠しをして尋問をします。このとき、パローレスに、彼を捕えたのが敵方の外国人だと思い込ませるために、バートラムの仲間たちは「恐ろしい言葉を喚きたてろ。自分でも何言ってるか分からなくてもかまわん。やつの言うことが俺たちに通じないと思わせりゃいいんだ」(134)「ピーチクパーチク言ってりゃ十分だ Choughs’ language, gabble enough and good enough.」(135)といって、「スローカ・モーヴスス、カルゴー、カルゴー、カルゴー」などと、本人たちにも意味不明なでたらめでわめきたてて脅し、一人だけ通訳をたてて、パローレスを尋問する、という茶番劇を繰り広げます。これに対し、語学に堪能なパローレスは、目隠しをされたまま以下のようにいう。

モスクワ連帯の方々ですな、
私は言葉が分からないせいで命を落とすわけだ。
そこにドイツかデンマークかオランダ、あるいはイタリアかフランスの方がおいでなら、私に話しかけてください

(138)

言葉の通じない敵の捕虜となり、コミュニケーションがままならないことによって、パローレスは窮地に追い込まれます。このままでは弁明さえできずに殺されてしまうかもしれない。精神的に追い詰められたパローレスはあっさりバートラムを裏切って、敵(だと思い込んでいるけれど実は味方)に、自分の軍の内情をばらす。どころか、味方の悪口をこれでもかというほど言い募り、なんとか敵方に取り入ろうとする。バートラムと仲間たちはそれを笑って聞いている。目隠しを取られ、味方に自分の裏切りがバレたことを悟ったパローレスは、自分の浅はかさを認め、道化・愚者として生きる決意をする、というストーリーになっています。
 
パローレスという名前からして、シェイクスピアがここで言葉の問題を扱おうとしたことは間違いないですよね。パローレスという名は口先だけの人物であることを示すという解釈が一般的ですが、これに加えて、世界にはさまざまな言語があり、いくら語学に堪能でも、世界中の言語すべてを修得することは困難で、コミュニケーションがままならないことによって、思いがすれ違い、心が荒廃し、戦争のさなかには命の危険にさらされることもありうるというテーマが描かれているように思います。
 
鳥のようにさえずっていればいいというのは、人間界で通じる言葉の意味が崩壊して、動物の鳴き声になること。それは、言葉を覚える前、獣と同様に、泣くことしかできなかった赤ん坊に戻るということ。下記で見た内容とも重なります。

2 イカロスとバベルの塔

『終わりよければすべてよし』は、さまざまな読み方ができる作品ですが、精神的に未熟なバートラムが、試練を経て成長するというストーリーがひとつの軸。パローレスは、バートラムの影・鏡像として、バートラムの未熟で浅はかな部分を映し出し、誇張してみせてまわる役割とも読めます。
 
そして、バートラムが女性問題で恥をさらしながら赦され、精神的に成長を遂げるという物語が、パローレスの、仲間に裏切りを知られ、恥をさらしながら、自分の愚かさを悟って生き方を改める姿とパラレルになっている。さらにこれが、パローレス(=バートラム)の内なる世界観=言葉で積み上げられた価値観=バベルの塔が崩壊し、再建する覚悟を決める姿と重ねられているように思います。
 
若者が、精神的な未熟さ、弱さ、浅はかさをいかに克服して、立派な大人へと成長を遂げるかというのが、太古から受け継がれる英雄神話や聖杯伝説の基本的なテーマであり、シェイクスピア作品もこれを受け継いでいることは、過去記事でも述べてきた通り(下記参考)。

未熟で傲慢な若者イカロスが、自分の限界を超えて太陽に挑むとき、翼が溶けて墜落死してしまう神話が、天を目指す塔を建てようとしたとき、神の怒りにふれて塔が破壊され、民族ごとに言語がバラバラになったというバベルの塔の神話と重ねられることは、以下でみた通り。イカロスは一人の青年の未熟さを語る物語であり、バベルの塔は、それを人類全体の未熟さへと敷衍した物語として読める。

シェイクスピアは、未熟な青年バートラム(=イカロス)の未熟さをパローレスに投影し、そこにバベルの塔を重ねている。そして、彼の内なる言葉の体系、既存の世界観や価値観の塔が崩壊し、虚栄に満ちた生き方から、自分の愚かさを悟った生き方へ切り替えるパローレスの精神的な変容を、バートラムの成長に重ねているのだと思うのです。
 

3 『ヴェニスの商人』障壁

『ヴェニスの商人』では、言語が異なるせいでコミュニケーションがままならない事態が以下のように嘆かれます。

あの人には私の言葉が通じないし、私にはあの人の言葉が分からないんだもの。何しろラテン語もフランス語もイタリア語もだめときてるし、私の英語がどんなにお粗末かはあなたが証人

(25)

これが同作の「多くの臆病者が、砂の階段のように頼りない/心を持ちながら」(106)という記述とも響きあいながら、バベルの塔の崩壊のイメージと重ねて読めることは、上記リンク[シェイクスピアが描いた永遠の少年とは?][04_砂の城とは?_「バナナフィッシュ」読解]でも示しました。
 
作中で、ポーシャはバサーニオに恋をしていて、結婚したいと思っています。けれど、父の遺言により、バサーニオが箱選びで正しい答えを選択できなければ結婚できない。そのことについて、下記のように嘆きます。

持ち主とその権利のあいだに壁が立ちはだかっている!
Puts bars between the owners and their rights!

(101)

ここでは父の遺言、父が娘に与える教えや価値観が、恋や幸福、自由を阻む〈bar障壁・柵〉として、娘ポーシャを悩ませています。辞書を見てみると、〈bar〉には法廷・法曹界の意味もあるんですね。上記では娘ポーシャにとって、父の遺言が法律と同じくらい大きな効力を持って、彼女の人生を制限している。『ヴェニスの商人』や『ジュリアス・シーザー』など、シェイクスピア作品では、象徴的父からの教えがしばしば法律と結びつけて語られます。そして、子ども世代がそれをいかに乗り越えていくかがテーマになっている。それが、(これはシェイクスピアというより、言葉のなりたちそのものにかかわる気もしますが)障壁や柵のようなイメージと結びついているわけです。

4 『ヴェニスの商人』言葉の混乱

以下は、ポーシャへの恋が成就した喜びを語るときのバサーニオのセリフ。

あなたは私から言葉という言葉を奪ってしまった、(中略)
私の心の動きはすっかり混乱している、
ちょうど国民の敬愛を一心に集める国王が
素晴らしい演説をしおわったとき、
歓喜にどよめく群衆の中に生まれるような混乱です、
意味のある一語一語が混ざり合い
騒然とした無意味と化す、言葉でありながら言葉にならない

(112)

シェイクスピア作品において、恋は狂気であり、正気を失って狂気にとりつかれることは、理性的に言葉を操る能力を喪失して、混乱に陥ること。言葉が持つ本来の意味を失って、ごちゃ混ぜになること。上記は恋の成就が、言葉の混乱の極まった状態として示されている一節。AIに訊いてみると、〈バベル〉とはヘブライ語で「混乱、ごちゃ混ぜにする」という意味なのだそう。バサーニオの恋の狂気は、この言葉の混乱と重なりあうわけですね。
 
反対に、言葉の意味の区別をつけられているうちは正気であり、身の丈にあったバベルの塔を建てることは、大人として立派に生きていくということでもある。シャイロックは、「例の証文を忘れないでもらおう!」(95)と三度、「証文どおりだ」(123)と四度、執拗にくり返す。証文に書かれた〈言葉〉に執着する人物で、言葉を正しく使って商売をしている間はうまくいっていたけれど、敵対する相手への憎しみや傲慢さから、証文に記された言葉を盾に取り、相手を追い詰めようとした瞬間、言葉に足もとをすくわれて、破滅へと向かう。憎悪にとりつかれ、思い上がって自分の能力を超えた行いをしよう、天に挑もうと身の丈を超えた塔を積み上げはじめたとたん、神の怒りにふれる。

バサーニオが恋に落ちて狂気から混沌へ還り、言葉の意味がいったん解体した後、ポーシャと夫婦になって、家族という新しい世界を再構築していく流れが、アントーニオとシャイロックの対決によって両者が危機に瀕し、傲慢で強欲なシャイクロックが破滅してアントーニオが救われるストーリーと呼応しています。

以下でふれた『十二夜』のマルヴォーリオもシャイロックと同じ。所与の言葉・既存の価値観に執着して、自分の世界観をアップデートできない人は、ときに仲間から追い出され、ときに破滅するというのもシェイクスピア作品の典型です(最近似たようなテレビドラマを見た気がしますが笑)。

『十二夜』では、ヴァイオラが「言葉をみだりにもてあそぶと、あっという間に乱れるからね」といい、道化が「だから、妹には名前なんかなきゃよかった」(90)とからかう。名前を持っている、言葉を使う人間であるからこそ、バベルの塔は建てられ、それが崩壊する憂き目にも遭う。船の難破で離れ離れになってしまった双子は「阿呆と亭主はイワシとニシン」(92)と茶化され、分裂する者・阿呆foolは「言葉のこじらせ屋」(92)になるのだと、道化は笑います。

5 『ヴェニスの商人』 〈法〉の創造

同作で道化的なキャラクターであるゴボーとランスロットの二人組は、「指であばら骨をさわってみな」というべきところを「あばら骨でもって指さわってみな」(51)といったり、「affection」を「infection」、「effect」を「defect」と言い間違えたりと、いくつもの言葉をマラプロピズムで解体します。これが、バサーニオのバベルの塔の崩壊とも響きあっている。

ここでのポイントは、ゴボーとランスロットが父と息子であること。父と息子の会話ではゴボーの妻、ランスロットの母についても触れられ、両親と息子の三角関係、オイディプス・コンプレックスのテーマが出てきている。そして、この場面でゴボーは手に籠を持っている。これは神話の英雄が象徴的に死んだあと、再生に導くゆり籠だと思う(詳細下記参照)。

作中で、賭けに負けて借金の返済が困難になったアントーニオに対し、シャイロックは、証文に記された通り、アントーニオの肉を切り取ることで返済してもらいたいと迫る。ポーシャは裁判官に変装し、優れた機転で、証文通り、肉を切り取って構わないが、その際に血を流してはいけないと命じ、アントーニオの命を救う。ポーシャは、まさに〈法〉を扱う者として、父の言葉・所与の価値観を乗り越え、自分の言葉で世界を再構築してみせる。このとき、ポーシャは、自分の力で新しい〈法〉を創造すること、証文に書かれた文字を別の観点から再解釈することで、父の言葉のとおりに動く操り人形から、自分の意志で世界を創る人間へと成長している。これが、バサーニオの恋の混乱と再生、アントーニオの象徴的な死と再生とも響きあう。

また別の場面では、アントーニオがバサーニオへ送った手紙について以下のようにいわれます。

この紙は親友の肉体そのもの、
書かれた文字の一つ一つが傷口で、
そこから鮮血が噴き出している

(118)

言葉やそれが記された手紙が人体、文字が傷口に例えられ、そこから血が流れるイメージが強調される。そのうえで、作品全体としては、証文に書かれた肉と血という言葉は分けられても、生命を持つ人体においてそれを分けて取り出すことは不可能であるという事実が、ストーリーの鍵になっていくわけです。肉と血は、キリスト教のミサで配られるパンとワインであり、ミサはイエス・キリストの受難の再現であることは、以下でも示したとおり。この死と再生の物語や儀式の起源は、オシリス神話にも通じるものですね。
 
バベル=混沌のごちゃ混ぜ状態が、食べ物として現れたのが下記で見たバターやミルク。生贄の身体が大地にばらまかれる儀式として現れているのが、オシリスの豊饒祭祀であり、神話であるという言い方もできるでしょうか。

6 『尺には尺を』斧で切り刻まれる判決文

シェイクスピアの『尺には尺を』は、罪人に対する法の裁きと、それを超えた赦しをめぐる物語。「斧」「首切り」といった言葉が散りばめられるなかに、以下のようなセリフが出てきます。

あの人の厳しい生き方は、
公正な裁きが振り下ろす斧の一撃に匹敵する
His Life is parallel’d
Even with the stroke and line of his great justice.

(134)

この後半部分「斧の一撃」という訳に対して、注釈には「判決文を書くペンの筆勢と行」という解釈もあると記されています。シェイクスピアが、『ハムレット』や『ロミオとジュリエット』で、書物や手紙と人を重ねていることは、下記で見た通り。

だから『尺には尺を』でも、シェイクスピアは意識的に、斧で首を切ることと、正義のために書かれた判決文書に言葉を記すことを重ねるような一節を書いたのかもしれない。二重のイメージは、判決文書に書かれた法の裁きそのものをも解体して、人と人が互いへの思いやりを持って過ちを赦すという、この物語のテーマそのものへと響いるようにも思えます。
 
そして、斧が人体=言葉を切り刻むイメージは、やはりオシリス神話と重ねて読めるのではないでしょうか。オシリス神話が直接的に描かれた『アントニーとクレオパトラ』で、道化が毒蛇を入れてくる籠、『ロミオとジュリエット』で、仮死状態になった後、ジュリエットを復活させるロレンス神父が持っている薬草用の籠と、ジュリエットが埋葬された棺(そのあと悲劇が待っているにせよ、一度は復活する、この場面にはイエス・キリストの受難と復活が重ねられていると思う)、『ヴェニスの商人』でゴボーが持つ籠はいずれも、主人公たちの再生を願うためのもの、オシリスを再生へ導いた棺と重ねて解釈できるのではないでしょうか。

7 『テンペスト』海に沈める書物

シェイクスピアの『テンペスト』で、ファーディナンドは初めてミランダに会ったとき、「私の国の言葉!」(46)といって感激を表します。同時に、イタリアのプリンセスとアフリカの王子の結婚について語られ、バベルの塔に象徴される、言葉が異なることでコミュニケーションがままならないイメージが重ねられて、言葉でコミュニケーションできることの喜びと、精神的な充実が結び付けられています。
 
そして、戯曲の最後にプロスペローは、「この荒々しい魔術は/この場で捨てる」「魔法の杖を折り、/地の底深く埋め、/「測量の錘も届かぬ深みに/私の書物も沈めてしまおう」(141)と、無人島を住みやすくするために使っていた測量の錘(大工道具ですね)の届かない場所へ、錬金術について記された書物を手放す。
 
嵐を起こし、船体や乗っている人々の精神、兄弟の仲を引き裂き、その後和解へ導く魔術は、もう必要のないものとして、無意識の深淵へと葬り去ってしまう。プロスペローが過ちを犯した弟を抱きしめ、罪を包摂し、赦すと宣言するとき、過去の罪、汚れた心、忌まわしい記憶は書物とともに海の底へ沈められ、忘れ去られる。
 
ここでの書物は、魔術を象徴するものであると同時に、プロスペローの過去の忌まわしい記憶、弟の内面にある汚れた精神性と、それに復讐をしようとするプロスペロー自身の恨み・憎しみといった負の感情の象徴として、葬られます。[11_ J.D.サリンジャー「シーモア—序章—」擬人化された手紙](上記リンク)でみたような、人が書物として表現される例とも重なる表現です。

8 『テンペスト』不滅の柱

同じ作品のなかで、ミランダはファーディナンドを見初めて「これほどの神殿に悪いものが棲みつくはずがない。/悪霊がこんなに美しい家を持ったとしても/いいものが住もうと努めるでしょう」(48)といい、人を神殿に例えます。そして、物語の最後、兄弟が和解し、新たに若い夫婦が誕生したことを喜び、下記のようなセリフがいわれます。

不滅の柱に
金文字でこう記しましょう。「とある船旅のこと、
クラリベルはチュニスにおいて夫を得、
兄ファーディナンドはその身を失いし海にて
妻を得たり。プロスペローは貧しき島にて
自らの公国を取り戻し、われら一同
正気を失いしときに我にかえりぬ」

(153)

注釈によれば、不滅の柱とは神話でヘラクレスが建てたとされる「ヘラクレスの柱」への言及とされているとのこと。AIによれば、ヨーロッパの君主たちも紋章などとして取り入れた表象で、錬金術や神秘主義の文脈でも知識の限界や新たな探究の出発点として使われるのだそう。
 
『テンペスト』では、兄弟の絆や夫婦がプロスペローの魔術=錬金術で結ばれ、荒廃していた精神に幸福がもたらされたことが、正気を取り戻すことと結びつけられている。それが、柱に言葉を刻むという行為に象徴されているわけですね。ここでは、人と神殿、言葉が記された柱がイコール関係にあることを押えておきたい。この柱は、下記[21_大工の息子]でふれた、新婚のファーディナンドが運ぶ丸太に通じるはずで、柱を建てることは自分なりの言葉の塔=神殿を建てることなのだと思う。
 
「ヘラクレスの柱」は、ヘラクレスが十二の難行のうち、十番目を達成したあとで立てられたもので、偉業の達成や世界の限界点を表すともいわれます。もしかすると、オシリスの豊饒祭において建立されるジェド柱とも重ねられるかもしれません。ジェド柱の建立は、息子ホルスが太陽神ラーと一体化すること。天の神と地上の王がひとつになること。それは、新しい世界を創造すること、柱を建てることと重ねられるのではないでしょうか。だからこそ、そこには新しい世界がいかなるものかを示す言葉が刻まれるのかもしれません。なんでもつなげたくなってしまうのは私の悪いクセなのかもしれませんが、シェイクスピア、T.S.エリオット、サリンジャー読解では、オシリス祭祀の柱の建立とバベルの塔の建設も、結びついているような気がするのです。
 
『ヴェニスの商人』では、父ゴボーが息子のことを「あの子はな、この老いの身の杖とも柱とも頼んでたんだThe boy was the very staff of my age, my very prop.」といい、ランスロットが「この俺が棍棒だの柱だの杖だのつっかい棒だのに見えるか?Do I look like a cudgel or a hovel-post, a staff or a prop?」(49)と茶化す場面があります。杖というのは道化が小道具として持っているもので、道化の分身。樹木信仰においての道化の分身としての樹木であり、これが柱のイメージとも結びつく。オシリス祭祀で建立されるジェド柱は、オシリスの背骨ともいわれており、樹木、柱、人体が重なる。
 
『お気に召すまま』では、オーランドーが森の木々に恋人ロザリンドの名前を刻みます。神話の表現を受け継ぐシェイクスピア作品では、杖、木、柱、言葉もつながっています。
 
イカロスが墜落すること、英雄が神話の中で象徴的に死ぬことと、バベルの塔が崩壊することは同じで、豊饒祭祀で、生贄であるオシリスの体がバラバラに切り刻まれて大地に撒かれる儀式とも結びつく。英雄は再生した後、大工の息子として新しい世界を創る、それが創世神話へつながることは、下記で示しました。アルファベットに解体された言葉のかけらは、斧で切り刻まれたオシリスの体=木材のイメージと重なる。それらが、一回り大きな世界観を再建する材料やエネルギーになる。シェイクスピア作品には、そんな思想が見え隠れするように思います。

9 『トロイラスとクレシダ』城壁とユリシーズの言葉

『トロイラスとクレシダ』では、ユリシーズが以下のように話します。

序列、優先順位、地位、
規律、進路、均衡、季節、形式、
職務、慣習などを正しい秩序(略)
高邁な企てを目指す梯子だ、それがぐらつけば
大事業そのものも病み衰える
序列を取り去り、弦の調子を狂わせ、
どんな不協和音が生じるか聴いてみるがいい。あらゆるものが
ただ対立するばかりだ(略)
正不正は
その名を失い区別がつかなくなる。両者の果てしない葛藤を
裁くはずの正義もまた名前をなくしてしまう(略)
そのあとに続くのはこうした混沌だ

(46-48)

年長の司令官ユリシーズは、象徴的父として秩序や序列を保つことの大切さを力説し、若く傲慢で、序列を守らないアキレウスやアイアスを批判します。ここには息子世代を言葉によって支配しようとする父親世代と、力でそれに反抗しようとする若者世代との対立が見られる。ユリシーズは、バベルの塔のような、高みを目指して梯子をかける高慢さを批判し、価値観の対立や混沌を避けるべきものとして避けようとします。

だけれど、長々と演説をぶつユリシーズの言葉こそがバベルの塔でもある、という皮肉がある。アキレウスら若者にとっては、年寄りの長話ほどうっとうしいものはない。若者の側から見れば、上の世代から受け継いだ秩序やルールは、むしろ壊すべきものとしてある、というのもまた神話の教え。
 
ですが、ユリシーズは自分と同じく年長者である「アガメムノンの言葉は、(中略)真鍮の板に刻みつけ高々と掲げるべき名言」(44)と称賛し、父親世代の言葉を構築物に刻むイメージを表現しています。そのうえで、以下のようにギリシャ軍が未だ陥落できずにいるトロイの城壁についての言及が繰り返される。

トロイの城壁が七年におよぶ包囲にも屈せず、
いまなお聳え立っている(41)
トロイはいまだその礎から崩れ落ちず(45)

アキレウスってやつがいる——土木専門の策士ときた。あの二人(アキレウスとアイアス)が地下から掘り崩さなきゃトロイの城壁が落ちないんなら、ひとりでに倒れるまでそびえ立ってりゃいい(89)

私(ユリシーズ)の予言の実現はまだ道半ば。
なぜなら、トロイの正面に不敵な面がまえで立ちはだかる城壁も、
うきうきと雲に口づけしているあの数々の塔も、
これからおのれの足にキスすることになるからです(197)

先に引用した序列についての演説を行い、アキレウスに、「ユリシーズだな、本を読んでいるが邪魔してやるか」(139)と陰口を叩かれる、言葉で世界を秩序付けようとする年長者ユリシーズは、トロイの城壁が崩れ落ちる預言をする。
 
そのことが、「おのれの足にキスをする」と予言される、ここでの「足」には、「踵」が弱点であるギリシャ軍の戦士アキレウスが重ねられますね。トロイ軍の城壁が崩れるイメージに、シェイクスピアはユリシーズの味方であるアキレウスの戦死を鏡映しに投影させている。だからこそ、劇中でアキレウスは「土木専門の策士 a rare enginer」(89)だと設定されている。城壁を支える土台の部分は、人体に例えるなら足の踵部分であり、トロイの城壁が崩れることは、反転して踵を攻撃されてギリシャ軍のアキレウスが倒されることと結びつく。以下の記述では、アキレウスのライバルであるヘクトルもまた柱石に例えられています。

不思議だな、ああしてトロイの城がまだ立っている、
その柱石(ヘクトルのこと)がここに来ているのに
When we have here her base and pillar by us.

(197)

以下では城壁とギリシャ人の血(体)が重ねられていますね。

現にああしてそびえ立っている。控えめに見ても、
あのフリギアの意思が城壁から一つ落ちるたびに
ギリシャ人の血が一滴ずつ犠牲になるだろう

(198)

アキレウスがヘクトルを倒すときには、以下のように叫びます。

王宮も倒れろ! さあ、トロイよ、崩れ落ちろ!
お前の心臓が、筋肉が、骨が、ここに横たわる。

(251)

こうして抜き出してみると、言葉=人(体が精神を象徴する)=城壁・柱は結びついていて、戦争によってそれが崩れるさまが入念に描かれているようにも思えてきます。城壁=バベルの塔が崩れることは、ユリシーズが語るような、大人世代がこだわる既存の価値観、言葉によって秩序づけられた体系、両軍の対立と戦争を引き起こすような世界観が崩壊し、混沌へ還ること。
 
その前後には、錬金術の賢者の石を示すマーキュリーという言葉が、トロイ軍(78)ギリシャ軍(90)両軍で、鏡合わせに口にされています。戦争によって引き裂かれた両陣営の和解、浮気によって引き裂かれた恋人たちの仲直り、敵味方の区別なくすべてが混ざり合うこと、錬金術的な統合が究極の目的。城壁が足にキスをするという例えは、戦争で対立する敵同士がキスをすること、恋人たちが口づけをかわすことと結びつきます。

10 『リチャード三世』ロンドン塔

『リチャード三世』では、以下の記述が船乗り(シェイクスピア作品では、波に翻弄されるの船乗りも未熟者の例え。詳しくは「バナナフィッシュ」読解参照)や、調子に乗って天を目指すイカロス、バベルの塔を築こうとして神の怒りに触れる傲慢な人間のイメージに重ねて読めるように思います。

人間の笑顔という空中に希望の楼閣を築く者は、
マストにのぼった酔っ払いの水夫に等しい。
相手の顔色ひとつが船のひと揺れ、いつ振り落とされ
海のはらわたに呑みこまれるか知れたものではない

(144)

また別の場面では、悪魔のようなリチャード三世の甘い言葉にのせられて結婚してしまったアンの後悔が、以下のように語られます。

あの男の蜜の言葉のとりこになり、
魂からほとばしり出た私自身の呪いの的になったのです。

(177)

リチャード三世による偽りの愛の言葉が、アンの呪いとなって彼女の運命を狂わせていく。私が重要だと思うのは、このセリフが「ロンドン塔の前」で言われること。同じ場面で、エリザベスはロンドン塔に閉じ込められた幼い息子たちと会うことができないことを悲しみ、以下のように訴えます。

もう一度塔をご覧になって。
古びた石よ、悪意がもとでお前の壁に閉じ込められた
幼子たちを憐れんでおくれ。
あんなにもあどけない子供たちには堅すぎるゆりかご、
幼い王子たちにはむごすぎる乳母、年老いて
陰気すぎる遊び仲間、我が子に優しくしてやって。
なんという愚かな悲しみ。石に別れをつげるなんて。

(178)

エリザベスはここで、塔の古い石を年老いた乳母や遊び仲間に例えていますね。息子たちに会うことができずに、石に別れを告げる羽目になったとき、ロンドン塔の石が擬人化され、意志を持つ人間のように見えてくる。悪魔リチャード三世の呪いの言葉と、陰気な石の塔が結びつき、幼い者たちを閉じ込める。子供たちはこの後、リチャード三世の陰謀によってロンドン塔のなかで殺されてしまう。アンを閉じ込めて破滅へ導く、リチャード三世の虚飾に満ちた言葉の数々が、幼い王子たちを閉じ込めて命を奪うロンドン塔の石塀と重なりあうようにも思えてきます。
 
過去記事でも触れましたが、『リチャード三世』の後半、リチャードとリッチモンドが対決する前夜には、両者がそれぞれ、自分のテントに「インクと紙」を持って来いと繰り返すんですね。これは、[11_ J.D.サリンジャー「シーモア—序章—」擬人化された手紙](上記リンク)でも見たシェイクスピア作品の手紙や書物、手帳などに連なるアイテム。

正しい書状をしたためることができたリッチモンドは翌日戦いに勝利し、自分を馬鹿にする内容が書かれた紙片を目にしてしまったリチャードは戦いに敗れて命を落とす。そうして、悪魔のような心を持つリチャードが築いたバベルの塔は崩壊し、リッチモンドが紙に描きだした新しい世界の再構築がはじまる。シェイクスピアが、この作品においても言葉の問題を、ひとつのテーマに据えていたことは間違いないように思うのです。

11 『夏の夜の夢』饒舌な石塀

『夏の夜の夢』の劇中劇では、職人の一人スナウトが石塀の役を演じるさまを、口上役が以下のように紹介します。

漆喰と壁土まみれのこちらの男は
恋人たちの仲をへだてる憎っくき石塀。
この石塀の割れ目より、あわれな二人は愛をささやき交わします。

(141)

口上の後、見物人たちが「あのライオンは口をきくのかな?」「口をきくライオンが一匹くらいいても不思議はありません。/口をきくとんまなロバがごまんといるんですから」などと話していると、舞台上の石塀役スナウトが喋りだします。

お目にかけますこの芝居、ひょんなことから
この私、スナウトと申す者ですが、石塀の役を演じます。
塀は塀でもただの塀ではございません。(中略)
これなる粘土、漆喰と、これなる石が何よりの証拠。
わたくしこそはその石塀、嘘偽りはございません。(後略)

(142)

とこれでも半分に省略したのですが、塀役のスナウトはだいたいこの倍、10行分もの長台詞をしゃべります。これに見物人が「これ以上弁舌さわやかな石塀があるかな?」「こんなに気のきいたことを喋る塀は初めてです」と突っ込みを入れる。さらに、出番が終わるときにも塀は「かくしてわたくし石塀の役目はここですみました。/すんだからにはこのとおり、石塀さっさと引っ込みます」(146)と言葉を添えて退場するという念の入れよう。
 
この石塀は、愛の障壁の象徴であり、この芝居全体のテーマである現実と夢、理性と感情、貴族と職人、といった二極を隔てる境界線を強調する役目を担っている、というのが一般的な解釈。ですがそれだけなら、大道具として作った壁の絵か何かを立てておけばよい。ここで壁の役をわざわざ一人の人が演じ、そのことを強調するかのような長台詞を喋るのには、やはり意味があるのだと思う。これもまた、塀=人=言葉が結び付けるためのしかけではないでしょうか。
 
とんまなロバというのは第一に、この場面の前、森の中で魔法にかけられ、ロバになってしまったボトムのこと。ロバは伝統的に、愚か者の象徴ですね。そのうえで、「ごまんといる」という表現には、言葉を話す人間たちは誰もがみな、少なからず愚か者foolであるというシェイクスピアの思想が反映されているように思う。
 
スナウトが演じる石塀は、誰もが心のなかに持っている言葉の塔の象徴。所与の世界観、既存の価値観や思い込みが、ときに貴族と職人といった無意味な差別を助長し、本当に大切なことを隠して、恋人との大切な愛を妨げる障壁にもなりうる。これが、この戯曲前半の片思いの連鎖、魔法の惚れ薬による滑稽な恋の追いかけっこと、目覚めた後、つまり心のなかに築いた壁が取り除かれた後の、真実の愛への気づきというテーマと呼応する。そんな風に解釈してみるのも、面白いのではないでしょうか。

12 まとめ

シェイクスピア作品では、言葉と塔・壁・柱・木、人の体や内面が、ゆるやかに結びついている。未熟な若者が既存の世界観に縛られて行き詰まったとき、あるいは言葉の塔を身の丈以上に傲慢に、高く積み上げようとするとき、それらは壊され、自分のまっさらな紙に、自分だけの新しい言葉を書き記さなければならない、まっさらな大地に、自分が大工となって、新しい柱や塔、神殿を建てなければならない。そんな思想が描かれているように思います。
 
そして、今回見たシェイクスピア作品のバベルの塔が、サリンジャー作品を考察する際にもポイントになると思うんですね。「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」で、チャールズがだす「ひとつの壁が隣の壁になんて言ったか?」というなぞなぞの答えも、もう見当がついたのではないでしょうか。言葉の柱やコラムについては、「コネティカットのひょこひょこおじさん」「ズーイ」「シーモア—序章—」にも描かれており、注目して読んでみるのも面白いのでおすすめです。

今回はここまで。お読みいただき、ありがとうございました。ぜひ、以下のサリンジャー読解もあわせてご覧ください。

J.D.サリンジャー「エズメに捧ぐ——愛と汚辱のうちに」読解01はこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』読解01~10のまとめはこちらから。ぜひご覧ください。


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