17_ピエタ_ J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』考察
Q. ミュリエルが青いコートを持っているのはなぜか?
「バナナフィッシュにうってつけの日」で、ミュリエルの母は娘に「ブルーのコートの具合は?」と尋ね、ミュリエルは「まあいいわ」(18)と答える。『キャッチャー』の最後の場面で、フィービーがブルーのコートを着ているのは聖母マリアに重ねられているからだというのは定説。ミュリエルのブルーのコートにも同様の意味が読みとれる。
というわけで、本稿の解釈はこう。
A. 聖母マリアに重ねられているから。
そして、今回のポイントはこちら。
ここで表現されているのは、シーモアの亡骸を抱く母なる海ミュリエルのピエタ像である。
以下に理由を述べる。
J.D.サリンジャー『バナナフィッシュにうってつけの日』読解をマガジンで連載しています。前の記事を未読の方は、もしよろしければ、01からお楽しみください。
1 母なる海
海の意味を持つ〈ミュリエル〉という名前には、墜落する永遠の少年イカロスを呑みこむグレートマザー、母なる海のイメージが込められている。「ブルーのコート」(18)は聖母マリアの表象であると同時に海であり、ナルキッソスを水面に映して引きずり込んでしまう無意識の深淵。
地の文で、ミュリエルが〈the girl〉と呼ばれるときには、両親との三角関係に悩む子どもの面が強調されているが、シビルはミュリエルを〈the lady〉と呼んでいる。ここでは、彼女がグレートマザー、母なる海、大人の女性である面が強調されているのだろう。繰り返しになるが、神話学者キャンベルによれば、神話における究極の女神=アニマは、母であり、姉妹であり、恋人であり、花嫁でもある(G)。サリンジャー作品においても、究極の女神はときに妻として、ときに母として、ときに妹として現れるので、ミュリエルはシーモアにとって妻であり母にもなる。
青いコートを持ったミュリエル=母なる海に抱かれて死ぬとき、永遠の少年=シーモアがまとっているバスローブは赤ん坊のおくるみ。『キャッチャー』で描かれたスペンサー先生のバスローブやナバホの毛布、オシリス神話の包帯、ラザロが復活の際にまとっていた布にも通じる(下記参照)。
フロリダ(バミューダ)の海に抱かれて死ぬシーモアは、『シビュラの託宣』に照らし合わせるなら、聖母マリアに抱かれるイエス。つまり、ピエタ(シビュラの託宣については下記参照)。
2 ピエタ
「ズーイ」の一節、「モンテカルロのルーレット台の上で、あなたの腕に抱かれて死んだ」(78)は、第一にはベッシ―とズーイのピエタだが、深層には「バナナフィッシュ」のミュリエルとシーモアを表現したいという思いも込められているのではないだろうか。
「ズーイ」の読み解きを少々すすめてみるなら、モンテカルロはアフロディーテが登場するギリシャ神話とも関係がある場所。ミュリエルがアフロディーテであることは下記で述べたとおり。(「ズーイ」ではベッシ―がアフロディーテと重ねられている、詳細は「ズーイ」読解にて)
ルーレット=賭け事の起源は豊饒を願う神事で、イエスの受難の起源でもある豊饒祭祀・神話にも通じる(詳細『キャッチャー』読解参照)。同時に、賭け事は金銭をかけて勝敗に一喜一憂するゲーム。賭博で得られる気分の急上昇と急降下の繰り返しは、イカロスが調子に乗って太陽に近づき墜落する様子と重なる。シーモア=イカロスについては下記参照。
『ハムレット』で、調子に乗った若者の精神の堕落が、「賭けごとをなさって」「テニスの試合で喧嘩になって」「どこそこの店(女郎屋)に入るのを見た」(73)と表現されるのも同じこと。女郎屋へ行くのはいうまでもなく堕落の象徴であり、テニスの試合も二極の争い、勝敗に一喜一憂する若者の精神の乱れの例として、シェイクスピア、サリンジャー作品でよく使われるモチーフ。博打に夢中になることは、それと並ぶ若気の至りの表現である。
『ハムレット』でクローディアスがレアティーズに「お前の復讐、その賭けの帳尻は合うのか?」(203)というセリフからは、レアティーズやハムレット、フォーティンブラスや劇中劇のピラスらが試みる〈父の復讐〉もまた、未熟者の愚かな行為として描かれていることが分かる(これについては改めて)。
『ヴェニスの商人』は、アントーニオの商船への投資、シャイロックからの借金、バサーニオの箱選びなど、人生を賭けた大博打をめぐる物語。バサーニオが選び取った鉛の箱には、「我を選ぶ者、持てるすべてを手放し危険にさらすべし」と記されている。同作では、未熟者が夢中になる博打を逆手にとって、若者らしくリスクをとってこそ精神的充実・聖杯が手に入る様子が描かれる。博打によって登場人物たちは一時的に窮地に陥り、勝敗に一喜一憂しながら精神的にも不安定になるが、危険を冒してこそ人生に立ちはだかっていた悪や負の要素を浄化して、一段階上の黄金に輝く幸福が実現される。
以下はリルケの『ピエタ』の一節。
こうして私は イエスよ あなたの足をまた見ます
わたしの髪の毛のなかで迷っていたことでしょう/まるで荊棘(いばら)の藪のなかの白い獣のように
髪の毛は荒廃した精神の象徴、つまり荒地であること、足の意味については下記で述べたとおり。荊棘については「ズーイ」読解にて。白い獣、一角獣については後述。
『リルケ詩集』の注釈には、ここでイエスを抱いているのはマグダラのマリアとあることから、リルケもまた、聖母マリアとマグダラのマリア、アニマの聖と俗の両面性を表現しようとしているようだ。聖俗一致については下記参照。
母胎への回帰(参考下記)を象徴するピエタ像は、楽園にいることの究極の表現。バナナフィッシュである息子シーモアは、最後に自らの手で母なる海へ還っていく。
3 波打つ心
「バナナフィッシュ」で、シビルの「波が来た」という言葉に、青年(シーモア)は「無視するさ。知らん顔するんだよ」「俗物(スノッブ)二人、波を無視(スナップ)」(柴_32)と答える。この波もまた、引いては押し寄せるように揺らぐシーモアの心の内を象徴しているのではないだろうか。狂気に陥った人の心の揺らぎについては下記参照。
それは同時に、ミュリエル母娘が夢中になっている俗世間の流行のようなものでもあるだろう。そんなミュリエルに道化的な惚れっぽさで恋をし、鏡を見て揺らいでいることを自覚しているからこそ、シーモア自身も自分を俗物と茶化している。でも、今はシビルとともに海の中にいる。陸=現実世界に対して、海のなかは彼岸世界。二項対立を超越した無意識の深淵であり、だからシーモアはもう、波に一喜一憂して揺らぐ未熟な心を手放したことを示しているのではないだろうか。
水の中にいるときには、足の傷(上記[06_足を見るな]リンク参照)にかかわらず、自由に泳ぐことができる。バナナフィッシュ(下記参照)がバミューダの水流に呑み込まれて(下記参照)母なる海へ還ることは、現世の精神的な迷いやオイディプス・コンプレックス=自分の足で大地を踏みしめるようになったころから続く苦しみを忘れて、物心つく前の楽園=母の胸のなかへ戻っていくことだ。
4 死への手招き
また、海の波は、母なる海が永遠の少年を水中へと誘い込むしぐさにも読める。『ハムレット』では、憂鬱にとりつかれた主人公が「俺のような男が天と地の間をはいずりまわり、いったい何をしでかす? 俺たちはみんな悪党だ」(124)と嘆き、「堅い堅いこの体、いっそ溶けて/崩れ、露になってしまえばいい/せめて全能の神の厳しいおきてが/自殺を禁じていなければ。ああ、神よ、神よ!」(29)と自殺願望を口にする。シェイクスピア作品で、天は象徴的父、地や海は象徴的母でもある。
作中で、息子ハムレットは、王=象徴的父に対し、「太陽の光(父の七光)を浴びすぎて有難迷惑」(26)とイカロス的に太陽への反抗と挑戦を表明する。ハムレットが持つ永遠の少年的な自我肥大傾向に対しては「生来ある気質が肥大して/理性の囲いや砦を打ち壊すことがある」(50)と、その危険性が警告され、現王=象徴的父はハムレットに対し「ただちに足枷をはめてしまおう」(156)とそれを制御しようとする。
それに対抗するかのように、王妃=象徴的母は「ハムレット、ここにおいで、私のそばに」(135)と息子を誘う手招きするが、ハムレットは「いえ、母上」と抗う。けれど、「いえ、母上」と抗った後で、ハムレットは、「こちらにもっと強い磁石があります。」と答えて恋人オフィーリアの膝に頭を乗せる。
ユング派の研究者エーリッヒ・ノイマンによれば、グレートマザーは永遠の少年を愛人として抱き寄せ、彼岸へ引きずり込もうとするのだという(Q)。ガートルードの手招きはこれと重ねて読める。
そして、王妃ガートルードと恋人オフィーリアが分身関係であることは、前回[16_魂の売女](上記リンク)で示したとおり。永遠の少年=ハムレットにとって、母も恋人も姿を変えた一人のアニマ=究極の女神=グレートマザー。王妃の手招きを避けて恋人の膝に頭を乗せたハムレットは、自分を生んだ母体から独立して、恋人という別のグレートマザーの腕に抱かれる神話の英雄。生物学的な母から離れ、イニシエーション期に愛人・恋人として現れた女神=第二の母のもとで精神的・象徴的に死に、成長した姿で生まれなおそうとする青年。聖母マリアから独立し、マグダラのマリアに見守られて死に、復活するイエス・キリストと重ねられる。
ハムレット・母ガートルード・恋人オフィーリアの三角関係と、「バナナフィッシュ」のシーモア・義母(電話の向こうのミュリエルの母)・妻ミュリエル、イエス・キリスト・聖母マリア・マグダラのマリアの三角関係は重なり合い、妻でありグレートマザーであるミュリエルの腕に抱かれて死んでいくシーモアというピエタ像が浮かび上がってくる。
象徴的父(先王・現王・ポローニアス)が手本を示す現世を厭い、自殺したい、母なる大地に還りたいと望み、悲劇へ巻き込まれていくハムレットは、戦地で現世の地獄を見て狂気に陥り、海に引き寄せられて自殺するシーモアと同じ。
「波を無視」するシーモアは、「いえ、母上」と抗ったハムレット同様、まだぎりぎり現世にいる身として、母なる海の手招き=死への誘い掛けに、最後の抵抗をしているのかもしれない。
5 海風・波・呼吸
シェイクスピアの『ヴェニスの商人』の冒頭では、海を航行中の商船へ投資したアントーニオの憂鬱が「スープを冷まそうとフーフーやってても、/僕なら熱病にかかって震えがくる、その息が/海上ならどんなひどい嵐になるかと思ってな」(10)と語られる。
海上で船の帆をふくらませて陸へ導いたり、嵐を起こして難破させたりする気まぐれな風が、スープを冷ます息と結びつき、それがアントーニオの憂鬱な精神状態と重ねられている。『十二夜』『オセロー』『夏の夜の夢』などシェイクスピア作品では、漁夫王を運ぶ海風とそれが起こす波の様子が登場人物の精神状態を象徴し、荒波による船の転覆が物語を駆動する。嵐で海が荒れて船を難破させるとき、精神は陸と海に分裂し、海の風が穏やかに船を正しい陸地へ運ぶとき、分裂していた精神は統合されて大団円に至る(詳しくは改めてまとめる)。それが、『ヴェニスの商人』では、健やかに呼吸をすることが精神的な平穏として、呼吸の乱れが精神的な乱れとして、分かりやすく結びつけられている。サリンジャー作品における呼吸の浅さの表現については下記参照。
シェイクスピア作品においてはこれが例えば『リア王』で「おぎゃあおぎゃあと泣くものだ」と語られ、最後に亡くなったコーディリアの口もとに鏡をあてて呼吸をしていないことを確かめる場面にも結びついていくのだが、これについては改めて。
『ヴェニスの商人』では、上記のスープのセリフに続いて、「絹の布は荒れ狂う波を包むだろう」(11)と語られる。これが母なる海、女神・アニマが英雄を癒し再生へ導く包帯、クジラの腹の中イメージへとつながっていく。この意味でも、シーモアはやはり、母なる海からの手招きである「波を無視」しつつ、彼岸世界へ否応なく引きずり込まれていく様子が現されていると思うのだ。
今回はここまで。「スキ」をいただけたらうれしいです。
つづきはこちらから。ぜひご覧ください。
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