MVP ARCHIVE HISTORY | Vietnam War / ベトナム戦争 - 植民地支配から冷戦へ、分断されたベトナムと長い戦争

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ベトナム戦争 - 植民地支配から冷戦へ、分断されたベトナムと長い戦争
Introduction
20世紀後半、東南アジアのベトナムで長期間にわたる戦争が続き、一般に「 ベトナム戦争 」と呼ばれる戦争は、単独の出来事から始まったものではない。
その背景にはフランスによる植民地支配、日本軍の進駐、第二次世界大戦 後の独立運動、フランスとのインドシナ戦争、ベトナムの南北分断、そしてアメリカとソ連・中国が対立する冷戦が存在した。
北ベトナムはベトナム統一を目指し、南ベトナムでは政府と南ベトナム解放民族戦線が対立、アメリカは南ベトナムを支援し、やがて大規模な軍事介入へ進み、ソ連と中国は北ベトナムを支援した。
一つの地域で続いていた対立は、冷戦 という世界規模の対立と結びつき、長期戦へと拡大していった。
植民地支配と独立運動
19世紀後半、フランスはベトナムを含むインドシナ半島の広い地域を植民地支配下に置いた。
第二次世界大戦 中には日本軍がフランス領インドシナへ進駐、1945年、日本が降伏すると、ホー・チ・ミン率いるベトミンはベトナム民主共和国の独立を宣言する。
しかしフランスはインドシナにおける支配の回復を目指し、1946年、フランスとベトミンの間で第一次インドシナ戦争が始り、戦争は約8年間続いた。
1954年、ディエンビエンフーの戦いでフランス軍が敗北、フランスはインドシナから撤退することになった。
17度線
1954年のジュネーブ協定によって、ベトナムは北緯17度線付近を境として暫定的に南北へ分けられ、北にはホー・チ・ミンを中心とするベトナム民主共和国、南には後にゴ・ディン・ジエム政権が成立する。
ジュネーブ協定では、将来的に選挙によってベトナムを統一することが想定されていたが、統一選挙は実施されなかった。
冷戦との接続
当時、世界ではアメリカとソ連を中心とする 冷戦 が進んでいた。
アメリカ政府は、東南アジアで共産主義勢力がさらに拡大することを警戒し、南ベトナムへの経済・軍事支援を拡大していく。
一方、北ベトナムにはソ連と中国が武器、物資、技術などの支援を行った。
南ベトナムの対立
南ベトナムでは、ゴ・ディン・ジエム政権に対する反発が拡大、1960年には南ベトナム解放民族戦線( National Liberation Front )が結成される。
アメリカでは一般に「 Viet Cong 」と呼ばれた。
南ベトナム政府軍と解放民族戦線との戦闘は激しくなり、北ベトナムも南側の勢力への支援を強めていった。
Gulf of Tonkin
1964年8月、トンキン湾でのアメリカ海軍艦艇と北ベトナム側をめぐる事件が発生、アメリカ議会は「トンキン湾決議」を採択。
リンドン・B・ジョンソン大統領 に、東南アジアで軍事力を使用する広範な権限を認めた。
1965年、アメリカは北ベトナムへの本格的な空爆を開始、同年にはアメリカ地上軍が南ベトナムへ投入された。
拡大する戦争
1960年代後半、アメリカ軍の兵力は急増、最盛期には50万人を超えるアメリカ軍兵士がベトナムに展開した。
戦闘はベトナム国内だけにとどまらず、ラオスやカンボジアにも広がっており、戦争は周辺地域にも波及した。
Agent Orange
アメリカ軍は森林や農地の植物を除去するため、大量の枯葉剤を使用した。
その代表的なものが「 Agent Orange 」と呼ばれる枯葉剤だった。
枯葉剤にはダイオキシンが含まれており、戦争終了後も、ベトナムの住民や従軍した兵士への健康影響、環境汚染をめぐる問題が長期間残った。
Tet Offensive
1968年1月、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、南ベトナム各地で大規模な攻勢を開始した、「テト攻勢」である。
軍事的には北ベトナム側と解放民族戦線も大きな損失を受けた。
しかし、アメリカ国内への政治的・社会的影響は大きかった。
テレビが伝えた戦争
戦闘、負傷者、破壊された村、避難する市民、戦場の映像や写真が家庭へ届けられ、政府発表だけではなく、ジャーナリストによる現地報道を通じて、人々が戦争の状況を直接目にする機会が増えた。
戦争をめぐる政府への信頼、報道の役割、国民が政策をどのように判断するのかという問題も、アメリカ社会で大きく問われることになった。
My Lai
1968年3月、南ベトナムのソンミ村の一地区で、アメリカ軍兵士によって多数の民間人が殺害された、一般に「 ミライ虐殺 」と呼ばれる事件である。
事件は当初十分に公表されなかったが、後に調査と報道によって広く知られるようになった。
Vietnamization
1969年、リチャード・ニクソン がアメリカ大統領に就任した。
ニクソン政権 は、南ベトナム軍へ戦闘の主体を移しながらアメリカ軍を段階的に撤退させる「 Vietnamization( ベトナム化政策 )」を進めた。
戦闘や空爆は継続し、カンボジアやラオスにも戦争の影響が拡大した。
Pentagon Papers
1971年、アメリカ国防総省が作成したベトナム政策に関する機密文書が新聞で報道された、「 Pentagon Papers 」と呼ばれる文書である。
そこには歴代政権によるベトナムへの関与と政策判断に関する内部記録が含まれていた。
政府が公に説明していた内容と内部で認識していた状況との違いが明らかになり、政府への信頼をめぐる問題はさらに大きくなった。
Paris Peace Accords
長期にわたる交渉の末、1973年1月、パリ和平協定が締結され、アメリカ軍はベトナムから撤退した。
しかし北ベトナムと南ベトナムの戦争そのものが終わったわけではなく、アメリカ軍撤退後も戦闘は続いた。
Saigon 1975
1975年春、北ベトナム軍は南ベトナムへの大規模な攻勢を進め、4月30日、南ベトナムの首都サイゴンが陥落、南ベトナム政府は崩壊した。
これにより、長期間続いた戦争は事実上終結する。
1976年、南北ベトナムは正式に統一され、ベトナム社会主義共和国
が成立、サイゴンは後にホーチミン市へ改称された。
戦争が残したもの
ベトナム戦争 では、ベトナム人の軍人・民間人、アメリカ軍兵士、南北双方を支援した各国の兵士など、多数の人々が死亡した。
ラオスとカンボジアも長期間にわたって戦争の影響を受けた。
不発弾、地雷、枯葉剤による環境・健康問題など、戦争が残した問題は現在まで続いている。
アメリカでは、政府と国民の関係、軍事介入、徴兵制度、報道の自由、大統領の戦争権限などについて大きな議論が起きた。
1973年には、大統領による軍事力行使を議会が制約することを目的としてWar Powers Resolution( 戦争権限法 )が成立した。
What We Know
ベトナム戦争 の背景には、フランス植民地支配からの独立運動と、第二次世界大戦 後のベトナム分断が存在した。
1954年、ベトナムは17度線付近を境として暫定的に南北へ分割、北ベトナムはソ連・中国から支援を受け、南ベトナムはアメリカから支援を受けた。
1965年以降、アメリカは大規模な地上軍を投入。
1968年のテト攻勢は、アメリカ国内の戦争認識に大きな影響を与えた。
1973年、パリ和平協定後にアメリカ軍は撤退。
1975年4月30日、サイゴンが陥落。
1976年、南北ベトナムはベトナム社会主義共和国として統一。
ベトナム戦争 は、植民地支配からの独立と国家統一をめぐる歴史が、冷戦 という世界規模の対立と接続した戦争だった。


