MVP ESSAYS | My Lai 1968 / ミライ - 命令の向こう側に残るもの - ミライ虐殺から考える、人間の尊厳と選択

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命令の向こう側に残るもの - ミライ虐殺から考える、人間の尊厳と選択
1968年3月16日、ベトナム戦争 の最中、南ベトナムのソンミ村の一地区、ミライで、多数の民間人がアメリカ軍兵士によって殺害された。
女性、子ども、高齢者、その多くは武器を持っていなかった。
後に「 ミライ虐殺 」と呼ばれることになる事件である。
戦争という極限状態では、人間の判断は大きな圧力を受ける。
命令があり、敵がいて、仲間がいる、恐怖がある。
それまでに失った仲間への怒りもある。
そして何より、自分だけが違う行動を取ることには危険が伴う。
だから私たちは、後からいくらでも説明することができる。
戦争だったから。
命令だったから。
周囲もそうしていたから。
異常な状況だったから。
人間は環境から切り離されて存在しているわけではない。
しかし ミライ には、その説明だけでは終われなくなる事実が残っている。
その日、上空を飛んでいた偵察ヘリコプターの操縦士、Hugh Thompson Jr. は、地上で起きていることに気づいた。
彼もアメリカ軍人であり、地上にいた兵士たちと同じ組織に所属し軍服を着ていたが、彼は別の行動を選んだ。
Thompson はヘリコプターを着陸させ、殺害される危険にさらされていたベトナム民間人と、武装したアメリカ兵の間に入った。
味方の兵士による殺害を止めるためだった。
彼は乗員に、民間人を守る必要が生じた場合に備えるよう指示し、その後、民間人の退避にも動いた。
この行動を「 英雄的だった 」と評価することも「 正義だった 」と呼ぶこともできる。
しかしそこにある事実だけを見たならば、「 彼は、その場で自分自身の判断をした。」それだけだ。
一人の兵士が好きなように行動する軍隊は成立しない。
国家にも法律があり、企業にも規則があり、社会にも秩序がある。
私たちは無数のルールの中で生きている。
問題は、そのルールと自分自身の判断が衝突したときに現れる。
自身を正当化する言葉には、不思議な力がある。
判断の主体を、自分の外側へ移すことができるからだ。
「 私が決めたのではない、私の判断ではない 」
そう考えることができれば、自分自身で判断する負担は小さくなる。
しかし、行動した自身が他人になるわけではない。
ミライ で起きたことは、その問題を極端な形で私たちに見せている。
同じ場所同じ状況に置かれた人間が、命令系統が厳しい軍隊の作戦行動中でありながら、同じ行動をしたわけではなかった。
非武装の民間人を殺害した人がいた。
女性・子供・高齢者を殺害した人がいた。
ただ命令に従った人がいた。
自身の判断で命令に逆らい、止めようとした人がいた。
そして事件の後には、沈黙はしない、事実を公表すべきと考えた人がいた。
Ronald Ridenhour は事件について関係者から話を聞き、議員や政府・軍関係者へ告発文を送った。
ジャーナリストたちも事件を追い、やがて、隠れていた出来事は社会に知られるようになった。
誰かに「 告発しろ 」と命令されたからではない。
見なかったことにすることもできた。
黙っていることもできた。
それでも、別の行動を選んだ人間がいた。
人間の尊厳とは何か。
正義とは何か。
善とは何か。
こうした言葉を定義しようとすると、途端に難しくなる。
時代によって価値観は違い、社会によって規範も違う。
人によって答えも違う。
ならば、言葉ではなく行動を見るべきではないか。
武器を持たない人々が殺されようとしている。
その向こうには、自分と同じ軍服を着た兵士たちがいる。
そこで一人の人間がヘリコプターを降ろした。
それ以上の説明が、本当に必要なのだろうか。
善を語ること、正義を掲げることはできる。
人間の尊厳について美しい文章を書くこともできる。
しかし、それらが本当に存在するのかが問われるのは、言葉を発した瞬間ではなく、自分にとって不利益な選択を迫られたときなのかもしれない。
安全な場所から正しいことを言うのは難しくない。
周囲と同じことをしていれば守られる状況で、違う行動を選ぶことはずっと難しい。
Thompson が後世から評価されることを知っていたわけでも、期待していたわけでもない、その瞬間には、自分の行動がどう評価されるのかさえ分からなかった。
それでも自身で判断し行動した。
ここに、人間の主体というものが最も鮮明に現れているように思う。
私たちは普段、「 ミライ 」のような極限状態にはいない。
この事件を、「 戦争という異常な世界で起きた出来事 」として遠くに置くこともできる。
しかし構造だけを取り出せば、それほど遠い話ではない。
組織の判断と自分の判断が違う。
多数の人が同じ方向へ進んでいる。
声を上げれば自分が不利益を受ける。
間違っているように感じるが、自分だけが違うのかもしれない。
そんな状況は、社会のいたるところに存在する。
もちろん、その重さを「 ミライ 」と同列に扱うことはできない。
それでも問いは同じ場所に残る。
自分は、どこまで自分の判断を手放すのか。
そしてもう一つ。
どこから先は、手放してはいけないのか。
人間の尊厳を完全な言葉にすることは難しい。
正義を一つに定義することも難しい。
善を測る物差しも存在しない。
それでも、人間が選んだ行動を見ることはできる。
1968年3月16日、殺害が続く場所へ、一機のヘリコプターが降りた。
そこにいたのは、完璧な人間でも、哲学者でもなかった。
決して特別だったわけではない一人の兵士だった。
彼は自分が所属する組織そのものを否定したわけではない。
軍人であることを捨てたわけでもない。
ただ、その瞬間に目の前で起きていることを見て、
「 自分で判断した。」
人間の尊厳や正義、善というものが本当に存在するのなら、それは大きな言葉の中ではなく、誰にも答えを保証されていない瞬間に、それでも自分の判断を他者へ預けず、一つの行動を選ぶところに現れるのかもしれない。
概要
1968年3月15日
Charlie Company に翌日のソンミ村周辺での作戦が命じられる。
米軍側はこの地域にNLF部隊が存在するとみていた。
1968年3月16日 朝
Charlie Company などがソンミ村一帯へ進入。
Mỹ Lai 地区で非武装の住民に対する殺害が始まる。
女性、子ども、高齢者を含む多数の民間人が殺害される。
家屋の破壊・放火なども行われる。
同日
偵察ヘリコプターで上空を飛行していた Hugh Thompson Jr. らが、地上で多数の民間人が死亡していることに気づく。
Thompson は、生存する民間人と米兵の間にヘリを着陸させる。
乗員の Lawrence Colburn 、Glenn Andreotta とともに民間人の保護・救出に動く。
Thompson は無線で状況を報告し、民間人の退避支援を要請。
その後、殺害行為は停止へ向かう。
1968年3月16日以降
米軍の当初の公式発表では、作戦によって多数の敵兵を殺害したと報告される。
民間人の大量殺害という実態は、直ちには公にならなかった。
1968年〜1969年
米兵 Ronald Ridenhour が、事件に参加・目撃した兵士たちから話を聞き、情報を集める。
1969年3月
Ridenhour が米国議会議員、国防総省、国務省などへ書簡を送り、事件の正式な調査を求める。
1969年秋
米軍による捜査が進み、William Calley中尉が殺人容疑で訴追される。
1969年11月
ジャーナリスト Seymour Hersh が事件を報道。
Mỹ Lai で起きた民間人大量殺害が米国内外へ広く知られるようになる。
1969年11月以降
軍写真家 Ronald Haeberle が撮影した現場写真も公開される。
ベトナム戦争に対する米国社会の議論に大きな影響を与える。
1969〜1970年
米陸軍が Peers Commission( ピアーズ調査委員会 )を設置。
虐殺そのものだけでなく、指揮系統や事件後の報告・隠蔽についても調査する。
多数の軍関係者について責任が検討される。
1971年3月29日
軍法会議でWilliam Calley中尉が殺人罪で有罪となる。
1971年3月31日
Calleyに終身刑が言い渡される。
その後、刑は軽減され、最終的には約3年半の自宅軟禁を経て釈放される。
多数の関係者が調査・訴追対象となったものの、虐殺そのものについて有罪判決を受けたのはCalleyだけとなった。
1998年
Hugh Thompson Jr.、Lawrence Colburn、死亡していたGlenn Andreottaの3人に、米陸軍からSoldier's Medalが授与される。
戦闘外で自らの危険を顧みず民間人を救出した行動が正式に顕彰される。
現在
Mỹ Laiには事件を記録するSơn Mỹ Memorialが設けられている。
ミライ虐殺 は、ベトナム戦争における戦争犯罪の記録であると同時に、軍の指揮責任、命令への服従、内部告発、報道、そして戦場における個人の判断を考える重要な事例として残っている。

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