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MVP ARCHIVE PEOPLE | Prime Ministers of Japan : Shigeru Yoshida 1878–1967 / 吉田茂 - 戦後から独立回復へと導いた戦後日本の設計者

Shigeru Yoshida 1878–1967 / 吉田茂 - 戦後から独立回復へと導いた戦後日本の設計者

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吉田茂 - 戦後から独立回復へと導いた戦後日本の設計者

1945年8月、日本は敗戦し、都市は焼け、産業基盤は破壊され、海外領土を失い、軍隊は解体され連合国軍による占領という、それまで経験したことのない時代が始まった。
敗戦から独立回復へ向かう日本政治の中心にいた人物が、吉田茂 だった。

日本国憲法・占領改革・冷戦朝鮮戦争・サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約。

敗戦によって国家の前提を失った日本が、アメリカを中心とする新しい世界秩序の中で、どのような国家として再出発したのか。

外交官から政治へ

1878年、吉田茂 は東京に生まれ、父は自由民権運動にも関わった竹内綱。
幼少期に実業家の吉田健三の養子となる。
東京帝国大学を卒業後、外務省へ入省。
吉田 の政治的基盤には、長い外交官経験があり、中国、イタリア、イギリスなどで外交官として勤務し、1936年には駐英大使となった

1930年代、日本が日独伊三国同盟へ接近していく中で、吉田 は英米との対立拡大に批判的で、太平洋戦争末期には近衛文麿らと連携し、戦争終結を模索する動きにも関わった。
1945年4月には憲兵隊に拘束される。

敗戦

1945年8月15日、日本は ポツダム宣言 受諾を国民へ発表、9月2日、降伏文書へ署名し、日本は連合国軍の占領下へ入る。
占領政策を実際に主導したのは、アメリカを中心とする GHQ / SCAP( 連合国軍最高司令官総司令部 )だった。
その最高司令官が、Douglas MacArthur である。
日本社会の制度そのものが大きく作り変えられていった。
吉田 は敗戦直後、東久邇宮内閣で外務大臣となる。
そして1946年5月、第45代内閣総理大臣 に就任した。

MacArthurと吉田

占領期の日本政治を理解するうえで、吉田MacArthur の関係は避けて通れない。

日本には政府と国会が存在していたが、日本は主権を完全には回復しておらず、占領政策について最終的な権限を持っていたのは GHQ だった。
つまり 吉田 は、日本政府を率いながら、占領当局とも交渉しなければならない という特殊な立場に置かれていた。
吉田MacArthur と交渉しながら、日本側が維持できる政策領域を確保しようとした。

日本国憲法

占領改革の中でも最も大きな制度変更が、日本国憲法 だった。
1946年11月3日公布、1947年5月3日施行。
天皇は統治権を持つ存在から「 日本国および日本国民統合の象徴 」となり、女性にも参政権が認められた。

Cold War

第二次世界大戦 中、アメリカとソ連はナチス・ドイツという共通の敵と戦ったが、戦争が終わると、両国の対立が急速に表面化する。
東ヨーロッパではソ連の影響力が拡大、1947年、アメリカ大統領 Harry S. Truman は Truman Doctrine を発表する。

1949年には NATO が成立。
同年、ソ連も 原子爆弾実験 に成功し、中国では中国共産党が国共内戦に勝利して 中華人民共和国 を成立させる。
世界は、アメリカを中心とする西側陣営と、ソ連を中心とする東側陣営
へ分かれていった。

占領政策の転換

占領初期、GHQ は日本の非軍事化と民主化を重視していた。
しかし 冷戦 が深まると、アメリカの対日政策も変化する。
日本を弱体化させ続けることより、経済を復興させ、東アジアにおける安定した西側国家にすることが重要になっていった。
そして1950年、その流れを決定的に加速させる戦争が始まる。

朝鮮戦争

1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を越えて韓国へ侵攻し、朝鮮戦争 が始まり、アメリカを中心とする国連軍が韓国側へ介入。
中国人民志願軍も北朝鮮側へ参戦する。

日本企業への大量発注が発生、朝鮮特需である。
敗戦後の日本経済は、この需要によって急速に回復していった。
同時に、アメリカ軍が日本から朝鮮半島へ移動したことで、日本国内の治安・防衛をどうするかという問題も浮上する。

1950年、GHQ の指示によって警察予備隊が創設された。
後の自衛隊へつながる組織である。
戦争放棄を掲げる新憲法と、冷戦下の安全保障という二つの現実が、早くも交差し始めていた。

「吉田ドクトリン」

吉田 は、限られた国家資源を経済復興へ集中させる方向を選んだ。
安全保障についてはアメリカとの関係を基軸とし、日本自身の大規模な再軍備には慎重な姿勢を取る、 「 吉田ドクトリン 」と呼ばれる基本路線をとることとなる。

安全保障ではアメリカとの同盟を利用する。
軍事負担を抑える。
経済復興と産業発展へ国家資源を集中する。


この選択は、その後の 高度経済成長 へつながる戦後日本の重要な足がかりとなっていく。

吉田ドクトリン 安全保障ではアメリカとの同盟を利用する。軍事負担を抑える。経済復興と産業発展へ国家資源を集中する。

San Francisco Peace Treaty

1951年9月8日、サンフランシスコで 日本国との平和条約( San Francisco Peace Treaty )が調印された。
日本側代表として署名したのが 吉田茂 だった。
条約には48か国が署名、ソ連は署名せず、中華人民共和国も中華民国も講和会議には参加していない。

日本の国際社会復帰は、すでに 冷戦 によって分断された世界の中で行わ、1952年4月28日、平和条約が発効。
連合国による日本占領は終了し、日本は主権を回復した。

日米安全保障条約

サンフランシスコ平和条約と同じ1951年9月8日。
もう一つ、日本の戦後史を決定する重要な条約が締結された。

日本国とアメリカ合衆国との間の 安全保障条約(旧日米安全保障条約 )を締結占領は終わったがアメリカ軍は駐留することとなる。
ここに、現在まで続く日米同盟の原型が成立し、日本の戦後外交・安全保障を長期間規定することになる。

TrumanからEisenhowerへ

敗戦直後から 冷戦 初期を担ったのが Harry S. Truman、1953年には Dwight D. Eisenhower が大統領に就任する。

アメリカでは 冷戦 を前提とした世界戦略が定着していく中で、日本は東アジアにおける、アメリカの同盟国、経済拠点、軍事的後方基地、共産圏に対する西側陣営の一角、という新しい役割を持つようになった。
わずか数年前まで戦争をしていた日本とアメリカの関係は、冷戦 によって急速に再構築されたのである。

再軍備をめぐって

アメリカは 冷戦 の進行とともに、日本へより大きな防衛負担を求め。
しかし 吉田 は急速な再軍備には慎重だった。

日本経済はまだ完全に復興していない。
大規模な軍備には巨額の財政負担が必要になる。
国内には戦争への強い拒否感も存在していた。

一方で 朝鮮戦争 という現実もあり、1952年、警察予備隊は保安隊へ改組、1954年には自衛隊が発足する。

日本は 憲法第9条 を維持したまま、防衛力を持つ国家へ進んでいった。
この安全保障をめぐる緊張関係は、吉田政権 だけでは終わらない。
次の大きな転換を担うことになるのが、岸信介 だった。

バカヤロー解散

1953年2月、衆議院予算委員会で社会党議員との質疑中、吉田 が「 バカヤロー 」と発言、発言そのものを契機として政治対立が拡大し、内閣不信任決議案が可決され、吉田 は衆議院を解散、「 バカヤロー解散 」である。

吉田 の政治は、占領当局との交渉だけでなく、国内では激しい政党政治の中にあり、戦後民主主義の制度が成立すると同時に、その制度を実際にどう運用するのかという試行錯誤も始まっていた。

退陣

吉田 は1946~47年、1948~54年に首相を務め、通算在職日数は2,616日。
戦後日本の基礎が形成された重要な期間の大部分で政権を担当したことになるが、長期政権によって党内の反吉田勢力も拡大していった。

1954年12月、吉田内閣 は総辞職、後継首相となったのは鳩山一郎だった。
吉田 はその後も政界に影響を残したが、戦後日本を直接設計する時代は終わり、1967年10月20日、吉田茂 は89歳で死去した。

吉田茂が残したもの

戦後日本は、複数の力の交点で形成され、その中で 吉田 が行ったことは、日本が利用できる選択肢を見極め、その限られた条件の中で国家再建の優先順位を設定することだった。

敗戦国から経済大国へ

東條英機 から 吉田茂 へ続けて見ると、日本という国家が経験した変化は大きく、わずか10年間で、「 敵国 → 敗戦国 → 被占領国 → 同盟国 」へ急速な転換を迎え変化したのである。

Cold War は、日本を弱体化させ続けることより、日本を復興させ西側陣営へ組み込むことの方が重要になった。
日本にとっても、アメリカの安全保障力を利用しながら経済再建へ集中することには大きな合理性があり、双方の利害が一致した。

MVP Perspective

「 日本はアメリカに従ったのか、それともアメリカを利用したのか 」
敗戦直後の日本とアメリカには、圧倒的な力の差が存在し、日本には完全な選択の自由などなかった。

吉田 は安全保障をアメリカへ大きく依存する一方、その分の国家資源を経済復興へ振り向けた。
アメリカも日本を東アジアの西側拠点として必要とした。
そこに成立した構造が、その後の日本を 高度経済成長 へ向かわせる。
同時に、対米依存 と 外交的自律性という、現在まで続く問題も同じ構造から生まれた。

吉田茂 の時代に作られたのは、戦後日本が世界の中でどの位置に立つのかという基本設計そのものだった。

そして次の世代は、その設計を受け継ぎながら、日本はどこまで自らの意思で外交と安全保障を動かすのか という新しい問題に向き合うことになる。

その中心に登場するのが、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、そして田中角栄だった。

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