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本能寺の変1582 【重史68】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史068】 『信長公記』 

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 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【重史068】 そ第201話②

年頭の御礼、旧冬より御触れにて、御免、御出仕これなし。

                       『信長公記』

 天正八年1580
 一月一日。
 信長は、年賀の儀式を取り止めた。
 荒木村重の有岡城をめぐる戦いは、一年二ヶ月にも及ぶ長い戦いで
 あった。
 従軍した将兵らへの配慮である。

  正目朔日、終日雪降り侯なり。
  近年、摂州表、各(おのおの)、在番粉骨に付きて、
  年頭の御礼、旧冬より御触れにて、御免、御出仕これなし。
                           (『信長公記』)

 【引用】そ第201話②



 ⇒ 次へつづく

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