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本能寺の変1582 【重史75】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史075】 「多聞院日記」 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【重史075】 そ第201話⑤

十三日、一返(遍)上人、来るとて、極楽坊馳走と云々、

十四日、遊行上人、昨日、極楽坊へ来たる、

                   「多聞院日記」

 天正八年1580
 二月十三日。
 遊行上人が、奈良に到着した。
 多聞院英俊は、上人のことを、よく知らなかった。

  十三日、
  一、一返(遍)上人、来るとて、極楽坊馳走と云々、
    何者ぞ、
    薪能、これ在り、
    社頭、幷(ならび)に、門にて、これ在り、
                          (「多聞院日記」) 

 同十四日。
 英俊のもとに、様々な情報が入って来た。
 光秀の命によるもの、という。
 中々の、地獄耳である。 

  十四日、
  一、遊行上人、昨日、極楽坊へ来たる、
    上人は、初めより卅六代目なり、
    此の上人、六十三才と云々、
    人数、大勢これ在り、
    筒井へ、惟任日向守より、申し来たる馳走と云々、
                          (「多聞院日記」) 

      →【重史025】 200
       ①惟任方、もと明智十「遊行上人三十一祖京畿御修行記」


 【引用】そ第201話⑤



 ⇒ 次へつづく

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