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本能寺の変1582 【重史67】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史067】 「お湯殿の上の日記」 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【重史067】 そ第201話①

ゆきよう(遊行)上人、御れいまいる、

                   「お湯殿の上の日記」

 天正七年1579
 九月十三日。
 遊行上人が、参内した。
 「お湯殿の上の日記」に、その記述がある。

  十三日、
  かものしんこうゐんより、かきのほんこ一まいる、
  かものしゃうてん寺より、くり・かきのほんこ二つまいる、
  ふしみとのうちへ、御まいりのよし、さたあり、
  よへのれいほう、けふ、御かみありて、御かへしあり、

  のふなが(信長)、山国を、御ちきむ(直務)に、かへ(返)しまいらせ候
  よし、申さるゝ、
  くわい天下へのおほえといひ、とし月のむねんといひ、
  かたがた、まんそく(満足)、一事ならず、
  めでたさなどとは、おろかなる御事にて候、
  一たん御まんそく、これにすぎず候、

  しん大すけとのより、枝まめ御ふたまいる。
  のふなが(信長)より、はつあか御まな二まいる、
  一たけたほうゐんにたふ、
  山国の事、御つかい、宮の御かたの御ちの人まいる、
  つかはさるゝ、

  ゆきよう(遊行)上人、御れいまいる、
  
くわんしゅ寺中納言、申しつぎ、
  引きあはせ、十てうにあをきまき物一たんしん上、
  おなじく、宮の御かたへも、御れい申さるゝ、
                       (「お湯殿の上の日記」)

     →【重史025】
        ①惟任方、もと明智十「遊行上人三十一祖京畿御修行記」


 【引用】200 そ第201話①



 ⇒ 次へつづく

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