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本能寺の変1852 その一因 一、光秀の年齢 そ第72話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、光秀の年齢 そ第72話 

2光秀の年齢 3光秀と土岐氏 1/2 

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 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 240719 

そ第72話

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1土岐氏の跡目争い。
 守護の座をめぐる兄弟の戦い。
 頼武と頼芸。 
 美濃は、真っ二つに割れた。

 光秀の明智氏は、この争いに巻き込まれた。
 
明智氏は、頼武派。
 土岐頼武の家臣だったと思われる。

 長井新左衛門(父)と若き日の斎藤道三(子)は、頼芸派。

 おそらく、この様な図式だった、・・・・・。
 
 
とすれば、明智氏は、斎藤道三と敵対関係にあった、という事になる。

 光秀は、土岐頼純の家臣。
 頼武の後を継いだのが頼純である。
 おそらく、光秀は、その家臣だった。
 世代的に見れば、そう、なる。

2斎藤道三の下剋上。
 これが、天文年間 (元年1532~二十三年1554) 。

 天文二年1533。
 父、長井新左衛門、死去。
 道三がその後を継いだ。

 道三、土岐頼純を殺害す。
 天文十六年1547のことである。
 六角承禎がそれを証言している (【 重史 024】「春日文書」) 。

 光秀は、主君を失った。
 以後、牢人となる。
 「濃州土岐一家牢人たりしか」、とある。

 光秀は、越前へ逃げた。
 光秀には、越前で暮らした時期があった。
 「長崎称念寺門前に、十ヶ年居住」、とある。

 
称念寺は、福井県坂井市丸岡町長崎に現存する。
 「念珠(ねんごろ)にて」
 光秀は、同寺の住職と懇意にしていたらしい。
 天文十六年1547~永禄十一年1568の内の10年間。
 その門前に、居住していた
 (【 重史 025】「遊行上人三十一祖京畿御修行記」) 。

3持たざる者 → 明智の再興 → 持てる者 → 「本能寺」へ。
 光秀は、すべてを失った。
 「持たざる者」に、落ちぶれ果てた。
 
光秀の悲願。
 
「明智の再興」
 
日の当たらぬ日々がつづく。
 光秀の雌伏時代である。

 結果として、光秀は、「明智の再興」を成し遂げた。
 大願成就。
 
「持てる者」に、上り詰めた。

 そして、やがて、「本能寺」へ。

 その意味で、
 主君を失い、牢人となったこと、
 「持たざる者」に、落ちぶれ果てたことが、
 「本能寺の変」の、第一要因になるのかもしれない

 
 光秀は、まだ、独身だった。
 天文十六年~同二十三年(1547~1554)は、独身時代。

 そして、次へ繋がる。
 弘治年間1555~1557の終り頃に、妻木氏を妻に迎え。
 永禄1558~の初め頃に、長女が生まれ。
 永禄六年1563に、三女が生れた。

 道三、土岐頼芸を追放す。
 天文十九年1550のこと。

 斯くして、道三の下剋上は、成った。
 頼芸は、尾張へ逃れ織田信秀を頼った。
 法華坊主の子倅が、守護土岐氏から、美濃一国を奪い取った
  (【 重史 027】『信長公記』) 。



 ⇒ 次へつづく

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