本能寺の変1852 その一因 一、光秀の年齢 そ第78話 240809 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 一、光秀の年齢 そ第78話
2光秀の年齢 6人格形成 240809
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*加筆修正 240728 240801 240809
そ第78話
「本能寺の変」は、起こるべくして起きた事件である。
時は、戦国時代。
ところは、美濃。
守護は、土岐氏。
頼武~頼芸の代。
美濃は、争乱の時代であった。
戦いに、明け暮れる日々。
光秀は、この様な時代に生まれた。
そして、道三の下剋上が始まった。
光秀の性格・人格・人間性は、美濃の争乱と下剋上の中で形成された。
一、そのような時代だった。
一、そのような人物だった。
一、そのような理由(わけ)があった。
一、そのようなタイミング(時機)だった。
一、信長が「油断」した。
史実を直視すべし。
これまでの認識を改めるべきである。
光秀は、高齢だった。
己の「老い」を自覚していた。
残された時間は、短い。
このことが、光秀に、先を急がせた。
四月二十一日
信長は、安土に帰陣した。
四月廿一日、濃州岐阜より安土へ御帰陣のところに、
ろくの渡りにて、御座船飾り、稲葉伊予(良通)、一献進上なり。
捶井(垂井)に御屋形立ておき、こぼう殿(織田信房)、一献御進上侯
なり。
今洲(今須)に御茶屋立てて、不破彦三(直光)、一献進上侯なり。
柏原に御茶屋拵らへ、菅屋九右衛門(長頼)、一献進上なり。
佐和山に御茶屋立て、惟住五郎左衛門(丹羽長秀)、一献進上。
山崎に御茶屋立ておき(滋賀県彦根市里根町)、山崎源太左衛門(秀家)、
一献進上侯なり。
今度、京都・堺・五畿内、隣国の各(おのおの)、はるばる罷り下り、
御陣御見舞の面々、門前市をなす事に侯。
路次中、色々進物、員(かず)を知らず上覧に備へ、
誠に、御威光有りがたき御代なり。
四月廿一日、安土に御帰陣。
【 重史 035】(『信長公記』)
【参照】【 重史 034】 三月五日、出陣。
同、二十四日
そもそも、中国出陣は、「来る秋」のはずだった。
だが、信長は、これを、大幅に、修正・変更。
その時を、早めようとしていた。
秀吉は、備中にいた。
「毛利本軍を誘き出す」
これが、その役目。
信長は、出陣の機を窺っていた。
秀吉からの報せを待つ。
以下は、信長が、細川藤孝に宛てた書状。
「準備せよ」、と命じている。
光秀は、藤孝の上席者。
これを、伝達した。
中国進発の事、来秋たるべきの処、
今度、小早川、備前児嶋より敗北せしめ、備中高山に楯籠るの間、
羽柴藤吉郎、出陣せしめ取巻くの由、注進候、
重ねて、一左右次第、出勢すべく候、
由断なく、用意専一に候、
猶、惟任日向守、申すべく候也、
謹言
四月廿四日 信長(朱印)
一色五郎殿
長岡兵部大輔殿
【 重史 036】(「細川家文書」)
事態急変
五月七日
信長は、三男信孝に、四国への出陣を命じた。
以下は、その時の書状。
この中に、「信長、淡州に至って出馬の刻」とある。
おそらく、
信長は、織田水軍を率いて、淡路島から、瀬戸内を、西へ向かうつもり
だった・・・・・。
その先にあるのが、安芸の宮島 厳島神社 。
歴史に残ったであろう、一大デモンストレーション。
華々しい大船団の様子が、目に見えるようである。
今度、四国に至って差し下すに就きての条々、
一、讃岐国の儀、
一円、其方に申し付くべき事、
一、阿波国の儀、
一円、三好山城守 (康長) に申し付くべき事、
一、其外両国の儀、
信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事
右の条々、聊(いささ)かも相違なく相守り、
国人等の忠否を相糺(ただ)し、
立置くべき輩は立置き、追却すべき族は追却し、
政道以下堅く申し付くべし、
万端、山城守に対し、君臣父母の思いをなし、馳走すべきの事、
忠節たるべく候、
能々(よくよく)、其意を成すべく候也
天正十年五月七日 (朱印)
三七郎殿
【 重史 012 】(「寺尾菊子氏所蔵文書」)
同、十五日
家康が、安土に到着した。
信長は、これを歓待。
光秀に、接待役を命じた。
この日から、十七日までのこと。
五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至りて御参着。
御宿大宝坊然るべきの由、上意にて、
御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、
京都・堺にて珍物を調へ、生便敷(おびただしき)結構にて、
十五日より十七日まで、三日の御事なり。
【 重史 039】(『信長公記』)
足蹴事件
ここで、事件が起きた。
「準備について」・「密室において」、とある。
ところで、信長は、奇妙なばかりに親しく彼(光秀)を用いたが、
このたびは、その権力と地位をいっそう誇示すべく、
三河の国主(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことを
決め、
その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。
これらの催し事の準備について、
信長は、ある密室において、明智と語っていたが、
信長は、絶対専制君主。
きわめて、誇り高い男。
そのことを、他の、誰よりも、よく、知っていたのが光秀だった。
佐久間信盛を見よ!!
「朝倉破軍の刻」
信盛は、それを軽んじたが故、粛清された◎第12話 (『信長公記』) 。
元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪
えられない性質であったので、
フロイスは、イエズス会の宣教師【 人物 】◎第7話。
信長の身近に、同会の関係者がいたということだろう。
黒奴「弥助」、なのかもしれない・・・・・ (「松平家忠日記」) 。
彼は、「本能寺の変」を生き延びた。
人々が語るところによれば、
だが、光秀は、甘かった。
否、そうする他、道はなかった。
これまでの、御奉公に免じて、・・・・・。
否、それが、「油断」。
と、いうことなのだろう。
彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、
その一言が、・・・・・。
信長の逆鱗に触れた。
信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたとい
うことである。
【 重史 041】(『日本史』)
しかし、このことが、世間に知られることは、なかった。
だが、それは密かになされたことであり、二人だけの間の出来事であっ
たので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、
フロイスは、次のように見ていた (①~④) 。
①この事件が、「本能寺の変」のきっかけになった。
あるいはこのことから、
明智は、何らかの根拠フンダメントを作ろうと欲したかも知れぬし、
②光秀は、欲深い野心家。
③天下の主になることを欲していた。
あるいは〔おそらくこの方がより確実だと思われるが〕、
その過度の利欲と野心が募りに募り、ついには、それが天下の主になる
ことを、彼に望ませるまでになったのかもしれない。
④光秀は、計画的だった。
誰にも、胸中を明かさず。
ベストタイミングを窺っていた。
ともかく、彼はそれを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果たす適当な
時期を、ひたすら窺っていたのである。
【 重史 041】(『日本史』)
同、十七日
中国出陣命令が出た。
光秀は、安土から坂本へ。
五月十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、
何れも々々々(他の面々も)、同事に本国へ罷り帰り侯て、
御陣用意侯なり。
【 重史 029】(『信長公記』)
同、二十一日
土佐、長宗我部元親が承諾した。
光秀は、これを知らず。
石谷頼辰が帰国の途についた 。
光秀は、これも知らず。
同、二十六日
光秀は、亀山城に入った 。
五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣のため、坂本を打ち立ち、
丹波亀山の居城に至り参着。
【 重史 030】(『信長公記』)
【参照】そ第74話④
光秀には、先が見えた。
中国攻め → 国替え → 「さらなる夢」→戦いは、終わらず。
すなわち、国替えは、明智の危機。
明智は、存続の危機に瀕していた。
光秀には、「守るべき者」たちがいた。
明智の命運は、中国出陣によって定まる。
これを阻止するためには、中国攻めを取り止めにする他ない。
【参照】そ第75話
頼辰が、「間に合わぬ時は」、・・・・・。
光秀は、心を決めた。
【参照】そ第76話
同、二十七日
愛宕山へ。
「本能寺」
山上より、見下ろす。
次の日、廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣。
一宿参籠致し、惟任日向守、心持御座侯や、
神前へ参り、太郎坊の御前にて、
二度三度まで鬮(くじ)を取りたる由、申し侯。
(『信長公記』)
信長は、無警戒だった。
「上洛」
京都所司代 村井貞勝へ、連絡したものと思う。
光秀は、信長の上洛情報を入手した。
光秀は、聡い男。
万事につき、抜かりはない。
京にも、坂本にも、安土にも、・・・・・。
万全な情報網を構築していた。
おそらく、同じ頃。
光秀は、このことを知った。
信忠は、京で、信長の上洛を待っていた。
信忠の情報源は、貞勝だったのではないか。
以下は、京の信忠が、安土の森成利(乱丸)に送った書状である。
使者のルートは、わからない。
最短は、京→坂本→安土 である。
尚々、家康は、明日大坂・堺に罷り下られ候
中国表、近々、御馬出さるべきの由候条、
我々、堺見物の儀、先ず、遠慮致し候、
一両日中に、御上洛の旨候間、是に、相待ち申し候、
此旨、早々、御諚を得られ、申し越さるべく、
委曲の様躰、使に申し含め候条、口上に申すべく候、
謹言、
五月廿七日 信忠(花押)
森乱殿
【 重史 028】(「小畠文書」)
同、二十八日
光秀は、連歌会を催した。
「愛宕百韻」
史料は、以下①~③の三つ。
①【 重史 005 】 「続群書類従」
(発句) 時は今、あめか下なる五月哉、 光秀
(中略)
(結句) 国々は、猶、長閑なる時、 光慶
②【 重史 031】 『信長公記』
廿八日、西坊にて連歌興行。
発句 惟任日向守
ときは今、あめが下知る五月哉 光秀
水上まさる、庭のまつ山 西坊
花落つる、流れの末を関とめて 紹巴
か様に、百韵(いん)仕り、神前に籠(こめ)置き、
五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。
③【 重史 032】 「惟任退治記」
惟任(光秀)、公儀(信長)を奉じ、二万余騎の人数を揃え、
備中に下らずして、密かに謀反をた工(たく)む、
併(しか)しながら、当座の存年に非ず、
年来の逆意、識察する所なり、
扨(さて)、五月廿八日、愛宕山に登り、一座の連歌を催す、
光秀、発句に云はく、
ときは今、あめかしたしる五月かな、
今、これを思惟すれば、則ち、誠に、謀反の先兆なり、
何人か、兼ねて、これを悟らんや、
然るに、天正十年六月朔日、夜半より、
彼の二万余騎の人数を延(ひ)きい、丹波国亀山を打ち立ち、
石谷頼辰、未だ、帰還せず。
「万事休す」
ついに、間に合わなかった。
同二十九日。
信長が、上洛した。
五月廿九日、信長公、御上洛。
信長は、安土に、留守居の衆を残した。
本丸に七、二の丸に十四、合せて二十一将。
安土本城御留守衆。
津田源十郎・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・遠山新九郎・
世木弥左衛門・市橋源八・櫛田忠兵衛。
二丸御番衆。
蒲生右兵衛大輔・木村次郎左衛門・雲林院出羽守・鳴海助右衛門・
祖父江五郎右衛門・佐久間与六郎・簑浦次郎右衛門・福田三川守・
千福遠江守・松本為足・丸毛兵庫頭・鵜飼・前波弥五郎・山岡対馬守。
是れ等を仰せつけられ、
従うのは、小姓衆のみ。
御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。
信長は、中国へ出陣するつもりだった。
直ちに、中国へ御発向なさるべきの間、
信長は、軍勢を、安土で、待機させていた。
京に入れ置くことを取り止めた。
「家康」への配慮、である。
家康は、暗殺を怖れていた (『日本史』「本城惣右衛門覚書」) 。
御陣用意仕り侯て、御一左右次第、罷り立つべきの旨、
御触れにて、
信長は、親衛隊(馬廻衆)を伴っていなかった。
すなわち、自身を警固する軍勢がいなかった。
今度は、御伴これなし。
【 重史 033】(『信長公記』)
これすなわち、信長の「油断」。
光秀は、それを見逃さなかった。
信忠も、京に居る。
二人が、揃った、・・・・・。
供廻りは、僅かばかり、・・・・・。
六月一日。
中国出陣の日。
これが最後のチャンス!!
同、二日未明。
「本能寺の変」
【参照】そ第77話
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