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本能寺の変1582 【 重史 37 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【 重史 037】 『信長公記』 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
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【 人物 】 
*加筆修正 

【 重史 037】

①駿河・遠江両国、家康公へ進らせらる。

②其の御礼として、

 徳川家康公、幷びに、穴山梅雪、今度、上国侯。

                      『信長公記』

 天正十年1582、五月。
 家康は、安土へ向かった。

  信長公、当春、東国へ御動座なされ、
  武田四郎勝頼・同太郎信勝・武田典厩、一類、歴々討ち果たし、
  御本意を達せられ、
  駿河・遠江両国、家康公へ進らせらる。

  其の御礼として、徳川家康公、幷(なら)びに、穴山梅雪(信君)、
  今度、上国侯。

 信長は、家康の安土来訪に対し、街道を整備するなど、最大限の配慮を
 示した。
 先の、家康の心尽くしに対する、返礼なのであろう。
 
  一廉(ひとかど)、御馳走あるべきの由侯て、
   先づ、皆道を作らせ、
   所々、御泊り々々に、国持ち・郡持ち大名衆罷り出で候て、
   及ぶ程、結構仕り侯て、御振舞い仕り侯へと、
   仰せ出だされ侯ひしなり。
                          (『信長公記』)
                           →【 重史 038】

 【引用】【重史226】



 ⇒ 次へつづく

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