本能寺の変1582 【重史226】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史226】 『信長公記』
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史226】
①駿河・遠江両国、家康公へ進らせらる。
②其の御礼として、徳川家康公幷びに穴山梅雪、今度、上国候。
③五月十四日、ばんばまで、家康公・穴山梅雪、御出でなり。
④同日に、三位中将信忠卿、御上洛なされ、ばんば御立ち寄り、
⑤五月十五日、家康公、安土に至りて御参着。
⑥御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、
⑦十五日より十七日まで、三日の御事なり。
『信長公記』
天正十年1582、五月十五日。 158200515
信長は、家康に、駿河・遠江を与えた。
信長公、当春、東国へ御動座なされ、
武田四郎勝頼・同太郎信勝・武田典厩、一類、歴々討ち果たし、
御本意を達せられ、
駿河・遠江両国、家康公へ進らせらる。
家康は、その御礼に、安土へ向かった。
其の御礼として、徳川家康公、幷(なら)びに、穴山梅雪(信君)、
今度、上国候。
信長は、家康の来訪に対し、最大限の配慮を示した。
先の、家康の心尽くしに対する、返礼なのであろう。
一廉(ひとかど)、御馳走あるべきの由候て、
先づ、皆道を作らせ、
所々、御泊り々々に、国持ち・郡持ち大名衆罷り出で候て、
及ぶ程、結構仕り候て、御振舞い仕り候へと、
仰せ出だされ候ひしなり。
【重史037】(『信長公記』)
五月十四日。
家康は、番場に到着した。
安土の手前、凡そ七里28km(滋賀県米原市番場)。
丹羽長秀が、仮御殿を用意して、接待にあたった。
五月十四日、江州の内、ばんばまで、家康公・穴山梅雪、御出でなり。
惟住五郎左衛門、
ばんばに仮殿を立ておき、雑掌を構へ(酒肴の支度をととのえ)、
一宿、振舞い申さるゝ。
信忠も、番場に到着した。
信忠は、暫し休息した後、そのまま安土へ向かった。
同日に、三位中将信忠卿、御上洛なされ、
ばんば、御立ち寄り、暫時、御休息のところ、
惟住五郎左衛門、一献進上候なり。
其の日、安土まで御通候ひキ。
【重史038】(『信長公記』)
五月十五日。
家康、安土に到着。
信長は、歓待した。
宿所は、大宝坊。
五月十五日、家康公、ばんばを御立ちなされ、安土に至りて御参着。
御宿大宝坊然るべきの由、上意にて、
接待役は、明智光秀。
この日から十七日までのことである。
御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、
京都・堺にて珍物を調へ、生便敷(おびただしき)結構にて、
十五日より十七日まで、三日の御事なり。
【重史039】(『信長公記』)
【引用】【重史037】 【重史038】 【重史039】 そ第78話⑤
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
【参照】【四国問題 概要】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
