本能寺の変1582 【四国問題】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【四国問題】
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【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
【粛清 佐久間信盛】 【足蹴事件】
【5月26日】 【5月27日】 【5月28日】 【5月29日】 ←
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 【重史146】
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 250720
永禄六年1563
【重史122】 第143話 石谷頼辰・光政 永禄06 1563005**
光源院殿御代、当参衆、並びに、足軽衆以下覚え、
「永禄六年諸役人附」前半部分
永禄十二年1569
【重史125】 そ第11話㊴ 石谷頼辰 永禄12 156900713
①奉公衆、石谷兵部少輔、牢人、
②小笠原又六、下向、四里北に居らるゝのところへ、
③杉原与七郎、近所に於いて、生害なり、
「言継卿記」
天正三年1575
【重史182】 公 天正03 157500406
①四月六日、信長、京都より直ちに南方へ御馬を出だされ、
②四月八日、三好笑岩(康長)楯籠る高屋へ取り懸け、
③四月十四日、大坂へ取り寄り、作毛を悉く薙ぎ捨て、
④御人数、十万余騎のつもりなり。
⑤都鄙の貴賤、皆耳目を驚かすばかりなり。
『信長公記』
【重史183】 ✓ 天正03 157500412
①同卯月十二日朝、友閑 長谷川宗仁
②一、小長板ニふとん・しがらき、二ツ置く、
「天王寺屋会記」
4月19日 【重史184】 公 天正03 157500419
①高屋に楯籠る三好笑岩、
②友閑を以て、御侘言(わびごと)、御赦免候ひしなり。
『信長公記』
7月1日
三好康長、相国寺に出仕。
『信長公記』
10月21日
三好康長、三日月の葉茶壷進上。
『信長公記』
天正四年1576
4月14日
三好康長、大坂攻めに参陣。
『信長公記』
5月3日
織田軍、総崩れ。
『信長公記』
天正六年1578
【重史179】 ✓ 天正06 157801026
①惟任日向守に対する書状、披見せしめ候、
②阿州面(おもて)に在陣、尤(もっと)もに候、
③次に、字(あざな)の儀、信を遣はし候、
④即ち、信親、然るべく候、
「土佐国蠧簡集」
【重史180】 ✓ 天正06 157801026
①御奏者は、明智殿なり、
②明智殿御内、齋藤内蔵助は、元親卿には小舅になるなり、
③則ち、信と云う御字を給わる、
④これに依り、信親と云しなり、
⑤此の由緒を以って、
⑥四国の儀は、元親、手柄次第に、切り取り候へと、
⑦御朱印頂戴したり、
「元親記」
天正八年1580
閏3月7日 【重史219】 公 天正08 158010307
本願寺が降伏した。
①さる程に、大坂(石山本願寺)退城仕るべきの旨、
②忝くも、禁中より御勅使なされ、
③御勅使、近衛殿・勧修寺殿・庭田殿、
④幷びに、宮内卿法印・佐久間右衛門等へ御請けを申し、
⑤来たる七月廿日以前に、大坂退散に相定め、
⑥閏三月七日、誓紙の筆本見申され候なり。
『信長公記』
4月9日 【重史220】 公 天正08 158010409
顕如が、石山の地を去った(雑賀へ)。
①四月九日、大坂退出の次第、
②門跡より新門跡かたへ相渡さるべきの旨、
③雑賀・淡路島の者ども、爰を取り離れ候ては、迷惑と存知、
④新門跡を取り立て候はんの間、
⑤若門跡、此の儀に同事、
⑥本門跡、雑賀より迎へ舟を乞ひ、四月九日、大坂を退出。
『信長公記』
4月24日 【重史223】 公 天正08 158010424
秀吉は、播磨と但馬、二ヶ国の平定に成功した。
①四月廿四日、播州の内しそ郡に、
②此の競ひを以て、阿賀へ取り懸けられ候ところ、
③姫路に、羽柴筑前守秀吉、在城あるべく、普請申し付け、
④羽柴筑前守、舎弟 木下小一郎、但馬国へ乱入、
⑤信長公の御威光、忝き御事なり。
⑥両国、平均に候ヘキ。
⑦都鄙の面目、後代の名誉、これに過ぐべからず。
『信長公記』
秀吉の名は、周辺諸国へ鳴り響いた。
秀吉は、これを巧みに利用する。
すなわち、「調略」・・・・・。
秀吉は、ようやく、光秀に追いついた。
ここから、である。
秀吉の快進撃が始まった。
6月6日 【重史224】 公 天正08 158010606
秀吉は、因幡・伯耆の国境まで進出した。
①播州しそ郡に楯籠る宇野民部、六月五日、夜中に退散。
②六月六日、因幡・伯耆両国境目に至りて相働き、
③馳せ向ふべき行(てだて)は、一切にこれなく、
④国端の城主、縁々を以て、降参の御断り申し、
⑤羽柴筑前守秀吉、条々(数々の手柄)、名誉の旨、
⑥信長公、御感なされ候ひキ。
『信長公記』
信長の勢威、恐るべし。
戦わずして、勝つ。
秀吉は、光秀に、一歩先んじた。
6月12日 【重史152】 ✓ 天正08 158010612
信長は、長宗我部元親に、三好との和睦を命じた。
すなわち、停戦命令。
信長は、元親との戦いを望んではいない。
①三好式部少輔の事、此方(こなた)に別心なく候、
②猶、三好山城守(康長)、申すべく候也、
「古証文」「織田信長文書の研究」
信長は、元親の拡大戦略に歯止めをかけた。
元親の夢=「四国統一」は、否定された。
信長は、絶対専制君主。
誇り高い男。
逆らう者は、容赦しない。 【信長の人物像】 信03 信09
6月14日 【重史153】 ✓ 天正08 158010614
三好康長から、長宗我部元親への、挨拶状である。
信長は、元親に、「仲良くせよ」と言っている。
康長は、三好の新当主。
以後、この康長が、「阿波の儀」に関与する。
①爾来(じらい=以来)、申し承らず候、
②仍って、阿刕(あしゅう=阿州)表の儀に就きて、
③信長より、朱印を以って、申され候、
「古証文」「織田信長文書の研究」
6月26日 【重史154】 公 天正08 158010626
織田と長宗我部は、友好関係にあった。
①土佐国補佐せしめ候長宗我部土佐守、
②惟任日向守、執奏にて、
③御鷹十六聯、幷(ならび)に砂糖三千斤、進上。
『信長公記』
7月2日 【重史221】 公 天正08 158010702
勅使とともに、本願寺(顕如)の使者が参上した。
信長は、面会せず。
代わりに、信忠が挨拶を受けた。
①大坂本門跡、三使を以て、七月二日、御礼。
②進物、御太刀代・銀子百枚。
③中将信忠卿へ御礼申す。
④信長公、御対面これなし。
⑤黄金三十枚、門跡へ。黄金二十枚、北方へ。
『信長公記』
8月2日 【重史222】 公 天正08 158010802
本願寺、退城。
多くの牢人たちが、阿波へ逃げ込んだ。
①さる程に、新門跡大坂渡し進(まいら)すべきの御請けなり。
②天正八年庚辰(かのえたつ)八月二日、新門跡、大坂退出の次第。
③抑(そもそ)も、大坂は、凡そ、日本一の境地なり。
④家門長久の処に、思はず、天魔の所為(しょい)来りて、
⑤爰に大坂立ち初めて以来、四十九年の春秋を送る事、
⑥信長公、御成りあつて、御見物なさるべく、其の意を存知、
⑦海上と陸と、蛛の子をちらすが如く、ちり々々に別れ候。
⑧余多の伽藍、一宇も残さず、夜日三日、黒雲となつて焼けぬ。
『信長公記』
8月中頃 【重史163】 信✓公 天正08 1580008**
戦いが終われば、粛清が始まる。
①爰(ここ)にて、佐久間右衛門かたへ、御折檻の条、
②御自筆にて、仰せ遣はさるゝ趣、
『信長公記』1~2/19
〃 〃 【重史172】 公 天正08 1580008**
斯くして、佐久間信盛の粛清は、完了した。
用が済めば、粛清される。
役に立たねば、粛清される。
邪魔になれば、粛清される。
このことが、光秀の脳裏から、離れない。
①抑(そもそ)も、天下を申しつくる信長に、
②口答申す輩(ともがら)、前代に始り候条、
『信長公記』末尾部分
11月24日 【重史185】 ✓ 天正08 158011124
元親は、秀吉とも連絡を取り合っていた。
①大坂を逃げ下る牢人ども、
②紀州(雑賀衆)・淡州(勢)相催し、
③阿州勝瑞へ渡られ、再籠に及び、
「吉田文書」3/8
〃 〃 【重史187】 ✓ 天正08 158001124
信長は、三好康長を四国(讃岐)へ出陣させるつもりでいた。
三好山城守、近日、讃州安富館(雨滝城)に至り下国必定に候、
「吉田文書」6/8
〃 〃 【重史188】 ✓ 天正08 158001124
信長は、瀬戸内海の制海権を手に入れようとしていた。
秀吉は、淡路島の野口長宗を調略した。
元親は、淡路島に、野心があった。
秀吉から、信長へ。
信長は、元親の野心を知っていた。
①淡州野口(長宗)方の所来、
②此比、淡州の儀、如何、仰せ付けらるゝべく候、
③淡州の儀、仰せ下さるゝ次第、心懸け致すべく候哉、
「吉田文書」7/8
〃 〃 【重史189】 ✓ 天正08 158001124
斎藤利三が、元親と秀吉の間に立った。
①善悪の御助言、(秀吉に)頼み奉る外他無く候、
②斎藤内蔵助方まで、申し登せ候間、
③自然(じねん)の時は、貴意を得らるべく候、
「吉田文書」8/8
12月25日 【重史186】 ✓ 天正08 158011225
信長と元親の関係は、まだ、良好だった。
①大坂存分に属するに就きて、
②伊予鷂(ハイタカ)、五居(すえ)到来、
③隣国との干戈(かんか=戦い)の事、
④彼是(かれこれ)、惟任日向守、申すべく候也、
「土佐国蠧簡集」
この年、光秀に、特に、目立った活躍はない。
天正九年1581
1月8日 【重史194】 ✓ 天正09 158100108
松井友閑は、津田宗及を招き茶会を催した(安土)。
正月八日朝、 安土に於いて宮法御会 宗訥 宗二 宗及
「天王寺屋会記」他
1月10日 【重史197】 ✓ 天正09 158100110
光秀、坂本にて、新年の茶会(津田宗及)。
正月十日朝、 惟任日向守殿会 宗二 宗及
「天王寺屋会記」他
1月23日 【重史191】 ✓ 天正09 158100123
信長は、京都で、盛大な馬揃えを執り行おうと考えた。
①正月廿三日、惟任日向守に仰せ付けられ、
②京都にて、御馬揃へなさるべきの間、
③御朱印を以て、御分国に御触れこれあり。
『信長公記』
〃 〃 【重史192】 ✓ 天正09 158100123
信長は、三好康長に、阿波への出陣を命じた。
①先度は、爆竹の諸道具こしらへ、
②然らば、重ねて、京にては、切々、馬を乗り遊ぶべく候、
③幾内の直奉公の者共、老若を出すべく候、
④其方(光秀)、請取り申し触るべく候、
⑤三好山城守(康長)、是れは、阿波へ遣はし候間、除くべく候、
⑥六十余州へ相聞ゆべく候の条、馬数多くしたて、
「士林証文」
2月6日 【重史195】 ✓ 天正09 158100206
三好康長が、堺の天王寺屋(津田宗及)を訪ねた。
二月六日朝、 三好山城殿 一人
「天王寺屋会記」自
2月10日 【重史196】 ✓ 天正09 158100210
松井友閑が、天王寺屋を訪れた。
二月十日朝、 宮内卿法印、御出で 雲(了雲)・叱(道叱)・訥(宗訥)
「天王寺屋会記」自
2月28日 【重史200】 公 天正09 158100228
「御馬揃への事」
当日の様子である (1~6) 。
①二月廿八日、
②五畿内隣国の大名・小名・御家人を召し寄せられ、
③天下に於て、御馬揃へをなされ、
④聖王へ、御叡覧に備へられ訖んぬ。
⑤儀式の御結構、美々しき有様、筆にも、詞にも、述べがたく、
『信長公記』1/6
〃 〃 【重史201】 公 天正09 158100228
光秀は、先頭集団の三番目に登場した。
①一番に、惟住五郎左衛門尉(丹羽)長秀、
②二番、蜂屋兵庫頭、
③三番、惟任日向守、
④四番、村井作右衛門、
⑤御連枝の御衆。
⑥公家衆。
⑦御馬廻、御小姓衆。
⑧越前衆。
『信長公記』2/6
3月5日 【重史202】 ✓ 天正09 158100305
秀吉は、京都馬揃えに参加していない。
①今度、御馬揃の儀、夥敷(おびただしく)、相聞え申し候事、
②参上せしめず候段、無念に存ずる計(ばか)りに候、
③爰元、(姫路城の)普請等、漸(ようや)く出来候、
「富田文書」
3月29日 【重史193】 ✓ 天正09 158100329
秀吉、清水寺にて、松井友閑と酒宴に興ず。
①清水寺に於いて、羽柴筑前守・宮内卿法印・春長軒
②各、罷り向かい、酒宴、
③羽筑より、乱舞の衆へ、小袖一つ宛、遣わすと云々、
「兼見卿記」
4月10日 【重史198】 公 天正09 158100410
信長、竹生島参詣事件。
①信長、御小姓衆五、六人召し列れられ、竹生島御参詣。
②御帰り候て、御覧候へば、
③御城内は、行きあたり、もだえ焦(こが)れ、仰天限りなし。
④其の長老をも、同事に、御成敗候なり。
『信長公記』
4月12日 【重史199】 ✓ 天正09 158100412
光秀、天橋立を遊覧す(津田宗及を同道)。
①惟任日向守殿父子三人
②長岡兵部太夫殿父子三人
③紹巴 宗及 宗二 道是
④地蔵行平の太刀、与一郎殿より日向殿へ御進上候なり、
⑤かざり船にて、并びに橋立の文殊にて御振舞これあり、
⑥うふてる松は、千年のさなえ哉、 光秀
「天王寺屋会記」他
5月4日 【重史203】 ✓ 天正09 158100504
秀吉と松井友閑、天王寺屋にて茶会に興ず。
秀吉は、二人との関係を強化していた。
五月四日朝、 羽柴藤吉郎殿・宮内卿法印御坊、
「天王寺屋会記」自
6月12日 【重史204】 ✓ 天正09 158100612
秀吉、播州姫路にて、茶会を催す(津田宗及、参ず)。
①六月十二日朝、 羽柴藤吉郎殿御会、
②播州ヒメジにて、 宗及 備中屋一噌
「天王寺屋会記」他
6月25日 【重史205】 公 天正09 158100625
秀吉が、鳥取城攻めへ向かった。
①六月廿五日、羽柴筑前守秀吉、中国へ出勢。
②打ち立つ人数、二万余騎。
③即時に、とつとり(鳥取)を取りまかせ、
④海上には、警固舟をおき、浦々、焼き払ひ、
⑤数千挺の弓・鉄炮勝り出し、
『信長公記』
8月13日 【重史214】 公 天正09 158100813
秀吉は、信長と、頻繁に連絡を取り合っていた。
毛利の本軍が、鳥取へ向かったらしい、との情報が入った。
①因幡国とつとり表に至りて、
②毛利・吉川・小早川、罷り出づべきの風説これあり。
③一左右次第、参陣いたすべき用意、
④永岡兵部大輔父子三人、惟任日向守、
⑤信長公、御馬を出だされ、悉く、討ち果たし、
⑥永岡・惟任両人は、大船に兵粮つませ、
『信長公記』
秀吉の役目は、毛利の本軍を誘き出すこと。
信長は、自ら、出陣するつもりだった。
信長は、猜疑心のきわめて強い男。
秀吉は、聡い男。
そのことをよく心得ていた。
8月19日 【重史173】250817 ✓ 天正09 158100819
佐久間信盛、十津川の湯にて、死す。
①佐久間(信盛)、十津川の湯にて、死ぬにつき、
②惟任日向守、郡山城普請見舞として、
「多聞院日記」
8月20日 【重史215】 ✓ 天正09 158100820
信長は、吉報を待っていた。
秀吉は、信長の性格をよく知っていた。
報告を欠かさない。
①鳥取面の事、
②彼の城中の下々、日々餓死に及び候旨、実儀なるべく候、
③惟任・長岡以下申し付け候、
④その方、一左右(いっそう)次第、出張すべく候、
⑤信長も、出馬すべく候条、
「沢田文書」
信長は、毛利との決戦を期待していた。
光秀は、その時ための切り札であった。
手柄を上げる好機。
なれど、ために身動きとれず。
8月21日 【 重史 007 】250817 ✓ 天正09 158100821
光秀は、妹の御ツマキ(妻木)を失った。
①惟任の妹の御ツマキ死におわんぬ、
②向州、比類なく、力を落とすなり、
「多聞院日記」
9月8日 【重史206】 ✓ 天正09 158100908
信長は、阿波北部への出兵を決めた。
ならば、その前に・・・・・。
どうしても、成さねばならぬことがあった。
絶対必要条件。
「淡路島」
信長は、秀吉に、攻略を命じた。
秀吉は、鳥取城攻めの真っ最中。
兵を割く余裕は、ない。
となれば、黒田官兵衛。
秀吉は、官兵衛に、これらの下工作を命じた。
鳥取は、時間の問題。
なれど、まだ、先が見えず。
「あと、一月」
「否、二月」
その間に・・・・・。
秀吉は、淡路衆を阿波へ先行させようとしていた。
その上で、本軍を。
①長宗我部方よりも申し分候へ共、返事に能わず候、
②勝瑞、いよいよ、堅固の由、尤もに候、
③阿州表の儀、重ねて、申し越され候、
④淡路衆、毎日、追々、渡海の旨、然るべく候、
「阿波国徴古雑抄」
9月12日 【重史207】 ✓ 天正09 158100912
秀吉は、黒田官兵衛に、阿波渡海の指揮を命じた。
①権兵衛に、阿(淡)州衆召し連れ、入城せしむべきの由、
②生甚・明与四は、自遁の城まで渡海せしむべく候、
③その方、早々、相越され、
④野孫五の城に在城候て、
「黒田家文書」50
9月16日 【重史208】 ✓ 天正09 158100916
志知城は、阿波渡海の作戦司令部。
①淡路へ渡海の儀、油断無き由、尤もに候、
②生甚、阿州へ相越すの旨に候条、
③其の方は、しちの城に在城候て、
④先々の儀、示し合わされ、行等の事、調儀専一に候、
「黒田家文書」51
9月24日 【重史209】 ✓ 天正09 158100924
黒田官兵衛が、志知城に入った。
①阿州、相残る人質ども、志智に至り、相越さるるの由、
②行の様子、委細、小西弥九郎に、書付を以って申し渡し候、
③讃州安富、人質召し連れ、親父相越され候、
「黒田家文書」52
**** 【重史181】 ✓ 天正09 1581****
信長は、元親の領地を土佐一国と阿波南半国に定めた。
①元親儀を、信長卿へ、或る人、さゝへ(妨害)申す、
②連々、天下のあだにも罷り成るべし、
③信長卿、御朱印の面、御違却有りて、
④予州・讃州、上表申し、
⑤阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし
「元親記」
**** 【重史190】 ✓ 天正09 1581****
元親は、信長の命を受け付けず。
①四国御儀は、某が手柄を以って、切り取り申す事に候、
②一圓、御請け申されず、
③明智殿より、石谷兵部少輔(頼辰)を御使者に下されたり、
④是れにも、御返事、申し切らるゝなり、
「元親記」
10月10日 【重史210】 ✓ 天正09 158101010
阿波の木津・土佐泊へ。
秀吉は、黒田官兵衛に、兵粮・玉薬の搬入を命じた。
讃岐では、長宗我部の軍勢が撤退した。
①来島一書口上の趣聞き届け、委細申し遣わし候、
②木津・土佐泊兵粮の事、申し付け相渡し候、
③右両城玉薬の事、先度書き付け候分、これ又申し付け候、
④讃州表の事、敵引き退き候由、其分たるべく候、
「黒田家文書」53
10月25日 【重史211】 公 天正09 158101025
鳥取城、開城。
①因幡国とつ鳥一郡の男女、悉く、城中へ逃げ入り、楯籠り候。
②下々、百姓以下、長陣の覚悟なく候の間、即時に餓死に及ぶ。
③吉川式部少輔・森下・日本、三大将の頸を取り進らすべく候間
④残党、扶け出だされ候様にと、詫言、申し候、
⑤十月廿五日、取鳥籠城の者、扶(たす)け出ださる。
『信長公記』
10月28日 【重史212】1/2 公 天正09 158101028
吉川元春が、伯耆に進出した。
秀吉、出陣。
鳥取から、伯耆へ。 →11月8日【重史212】2/2へつづく
11月6日 【重史217】 ✓ 天正09 158101106
姫路沖に、毛利の水軍が現れた。
秀吉の水軍(小西行長)が、これを追い払った。
①敵の警固船二百艘計り、罷り上るの処、
②室より小西、安宅(船)乗り出し、
③宇喜多、煩(わずらい)、再発の由に候、
④藤吉郎、永々、在陣仕り候間、
「蜂須賀文書」
11月8日 【重史212】2/2 公 天正09 158101108
秀吉は、吉川元春に、攻め寄せる意思がないと判断した。
秀吉は、姫路城へ帰った。
①伯耆国に、吉川、罷り出で、南条表取り巻くの由、注進候。
②羽柴筑前守、後巻に罷り立ち、
③因幡・伯耆の境目に、山中鹿之介弟 亀井新十郎(茲矩)、
④羽衣石・岩倉両城へ、兵粮・玉薬丈夫に入れおき、
⑤十一月八日、播州姫路に至りて帰陣。
⑥吉川元春も、曲なく、人数引き取り候ひキ。
『信長公記』
11月17日 【重史178】 公 天正09 158101117
秀吉は、淡路島の攻略に成功した。
①羽柴筑前・池田勝九郎両人、淡路島へ人数打ち越し、
②姫路に至りて、羽柴筑前守、帰陣。
③淡路島、物主(ものぬし)、未だ仰せつけられず候なり、
『信長公記』
11月23日 【重史213】 ✓ 天正09 158101123
信長は、三好康長に阿波(北部)・讃岐の平定を命じた。
①今度、淡州の儀、皆相済ませ申し候、
②阿・讃の儀、三好山城守、弥、仰せつけられ候、
③即時に、両国残さず一着候ように仰せ付けられるべく候、
④慥(たし)かに、申し届くべきの通り、 上意候間、
「志岐文書」
11月26日 【重史218】 ✓ 天正09 158101126
信長は、毛利水軍の切り崩しを図った。
秀吉に、これを命ず。
能島村上氏が、誼を通じて来た。
①弟鷹一居到来候、遠路懇情喜び入り候、
②十一月廿六日 信長(朱印) 村上掃部頭とのへ
「村上文書」
信長の調略作戦が、着々と、進行してた。
十二月後半 【重史216】 公 天正09 1581012**
秀吉、安土に参着。
秀吉は、得意の絶頂にあった。
①歳暮の御祝儀として、羽柴筑前守秀吉、播州より罷り上り、
②御小袖、数弐百、進上。
③其の外、女房衆かた、それぞれへ参らせられ、
④か様の結構、生便敷(おびただしき)様躰、古今承り及ばず、
⑤今度、因幡国取鳥、一国平均に申しつけらるゝ事、
⑥武勇の名誉、前代未聞の旨、御感状をなされ、
⑦信長公、御褒美として、御茶の湯道具、十二種御名物、
『信長公記』
秀吉の活躍が、目立った。
播磨・但馬・因幡・伯耆、そして、淡路島。
信長との関係は、きわめて良好。
秀吉は、一歩も二歩も先行した。
その将来は、明るい。
光秀に、特に、目立った活躍はない。
光秀は、大きく水をあけられた。
元親の問題が、重石になった。
そして、もう一つ。
毛利との決戦に備えて、待機せねばならなかった。
ために、身動きならず。 【重史214】 【重史215】
のみならず、妹御ツマキを失った、今。 【 重史 007 】250817
信長とのコミュニケーションが、思うようにならず。
等々。
明智の将来は、暗い。
天正十年1582
一月十一日 【重史174】 ✓ 天正10 158200111
信長は、元親に朱印状を送った。
信長は、己の命に従わぬ者を容赦しない。
「阿波南郡半国」を取り止めた。
元親には、「土佐一国」のみとした。
①空然(石谷光政) 人々御中
②尚々、御朱印の趣も、元親御ため、然るべく候、
③始末、然るべく様に、万事、御異見、尤もに、存じ候、
「石谷家文書」
【参照】
【重史181】 阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし
【重史213】 阿・讃の儀、三好山城守、弥、仰せつけられ候、
【重史012】 其外両国の儀、信長、淡州に至って出馬の刻~
【重史042】 ~うしきの城・仁宇南方、残らず明け退き申し候、
二月一日 【重史046】 公 天正10 158200201
木曾義昌が裏切った(武田→織田)。
二月三日 【重史046】 公 天正10 158200203
信長は、出陣命令を下した。
「甲斐へ」
攻め口は、四つ。
信忠を総大将とする先陣部隊が出発した。
①二月朔日、信州、木曾義政御身方の色を立てられ候
②二月二日、武田四郎父子・典厩(武田信豊)、木曽謀叛の由承り、
③二月三日、信長公、諸口に出勢すべきの旨、仰せ出だされ、
④二月三日、三位中将信忠・森勝蔵・団平八、先陣として、
『信長公記』
二月九日 【重史047】 公 天正10 158200209
信長は、甲斐出陣にあたり、十一ヶ条の条書を発した(①~⑪) 。
三好康長は、四国へ出陣すること。
光秀は、出陣すること。
①二月九日、信長公、信濃国に至りて御動座なさるべきについて、
②三好山城守、四国へ出陣すべきの事。
③惟任日向守、出陣の用意すべき事。
『信長公記』
三月五日 【重史034】 公 天正10 158200305
信長は、安土を発った。
三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。
『信長公記』
三月十一日 【重史170】 公 天正10 15600311
武田勝頼の最期。
①三月十一日、武田四郎父子、簾中、一門、
②こがつこ(駒飼)の山中へ引籠らるゝの由、
③三月十一日、巳の刻、各、相伴、討死なり。
④四郎父子の頸、滝川左近かたより、三位中将信忠卿へ、
⑤関可平次・桑原助六両人にもたせ、信長公へ御進上候。
『信長公記』
3月17日 【重史018】 ✓ 天正10 158200317
信長は、己の勢威の強大さに驚いた。
①穴山、忠節を抽んずべきの条、朱印をなし、
②去る十一日四郎父子を討ち捕り、首到来候、
③典厩(信豊)の事、是も首到来、
④四郎の弟仁科五郎、是も首到来候、
⑤甲州の歴々の者ども、大略首を刎ね候、
⑥尾濃の浪人、土岐美濃守(頼芸)を始め、岩倉・犬山等、
⑦卅日・四十日際(きわ)に、一偏に属するの事、
我ながら驚き入る計りに候、
「武家事紀」1/2
信長は、絶対的な武力を手に入れた。 →そ第74話② ◎第66話 66
「戦わずして、勝つ」
これが、武田効果。
信長は、絶大な自信=確信を持った。 →そ第74話② ◎第66話 66
「天下布武」は、成る。
光秀は、武田の滅びゆく姿をその目で見ていた。 →◎第115話 第115話
それ故、知っている。
信長の心の内を。
中国の事。
急に、慌ただしくなって来た。
安芸の毛利。
これとて、武田に同じ。
二の舞となる。
さ程、時間はかかるまい。
「天下布武」は、成る。
ならば、・・・・・。
【参照】3光秀と光慶 (2)光秀の年齢 4光秀、最大の敵
そ第74話② 武田効果
【参照】10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣 ◎第66話 66
信長は、わずか一月で四ヶ国を手に入れた。
「長篠効果」「本願寺効果」「武田効果」
【参照】14 信長の甲斐侵攻 5潮目の変化 ◎第115話 第115話
〃 〃 【 重史 019】 ✓ 天正10 158200317
信長の強大さは、瞬く間に、諸国に知れ渡った。
抗えば、滅す。
「あの武田が、・・・・・」
中国 毛利は、戦慄した。
四国 長宗我部、これに同じ。
⑧相州氏政、駿河へ在陣にて、一廉(ひとかど)馳走候、
⑨甲斐・信濃の事、城介を残し置き申し付くべき候、
⑩路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、
⑪京都・五畿内、並に、羽柴藤吉郎方迄、残らず相触るべく候、
「武家事紀」2/2
光秀は、現役の戦国武将。
⑩老足(老人)では、ない。
光秀の生年は、大永四1524±四年ぐらい。
光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。
【参照】3光秀と光慶 (2)光秀の年齢 5結論 そ第77話
【参照】11光秀の年齢 5結論 ◎第77話
4月21日 【重史035】 公 天正10 158200421
信長は、安土に凱旋した。
途中、各所で、大勢の家臣らの出迎えをうけた。
①四月廿一日、濃州岐阜より安土へ御帰陣のところに、
②ろくの渡りにて、御座船飾り、
③捶井(垂井)に御屋形立ておき、
④今洲(今須)に御茶屋立てて、
⑤柏原に御茶屋拵らへ、
⑥佐和山に御茶屋立て、
⑦山崎に御茶屋立ておき、
⑧京都・堺・五畿内、隣国の各(おのおの)、はるばる罷り下り、
⑨御陣御見舞の面々、門前市をなす事に候。
⑩路次中、色々進物、員(かず)を知らず上覧に備へ、
⑪誠に、御威光有りがたき御代なり。
⑫四月廿一日、安土に御帰陣。
『信長公記』
さながら、雲の上を歩むが如し。
心地いい。
勝利の余韻が、まだ、尾を引いていた。
安土城は、新緑の中に聳え立つ。
4月24日 【重史036】 ✓ 天正10 158200424
そもそも、中国出陣は、「来る秋」のはずだった。
なれど、信長は、待ちきれず・・・・・。
①中国進発の事、来秋たるべきの処、
②小早川、備前児嶋より敗北せしめ、備中高山に楯籠るの間、
③羽柴藤吉郎、出陣せしめ取巻くの由、注進候、
④重ねて、一左右次第、出勢すべく候、
⑤猶、惟任日向守、申すべく候也、
「細川家文書」
秀吉の役目は、毛利の本軍を誘き出すこと。
早速、注進あった。
小早川隆景の軍勢が、近くの高山に着陣。
秀吉、これと対峙。
吉川元春、未だ、現れず。
毛利輝元、同。
信長は、動かず。
「引きつけよ」
出陣のタイミングを窺っていた。
次の報せを待つ。
中国出陣の日は、近い。
信長は、光秀と細川藤孝に、出陣の準備を命じた。
石谷頼辰は、土佐へ向かっていた。
おそらく、未だ、到着していない。
光秀の心中や、如何に・・・・・。
光秀は、信長の、当初の言を受けて、それに合わせて、行動していた。
「中国進発の事、来秋たるべきの処」
光秀は、出来る男。
キレ者である。
もちろん、十分な余裕を持って。
ところが、事態急変。
大幅に、早まることに。
おそらく、二ヶ月程も・・・・・。
となれば、頼辰は、間に合わぬ・・・・・
5月7日 【重史012】 ✓ 天正10 158200507
信長は、三男信孝に、四国への出陣を命じた。
①今度、四国に至って差し下すに就きての条々、
②讃岐国の儀、一円、其方に申し付くべき事、
③阿波国の儀、一円、三好山城守 (康長) に申し付くべき事、
④其外両国の儀、信長、淡州に至って出馬の刻、
⑤万端、山城守に対し、君臣父母の思いをなし、
⑥天正十年五月七日 ( 朱 印 ) 三七郎殿
「寺尾菊子氏所蔵文書」
〈解釈〉
①四国出陣にあたって 心得
②讃岐は、一国すべて、信孝に与える。
③阿波は、一国すべて、三好康長に与える。
④伊予・土佐については、信長が淡路島に着いてから決める。
⑤信孝は、三好康長の養子=三好の後継者である。
⑥子を思う父の姿である。
信長は、信孝に、讃岐と阿波 二ヶ国を与えた。 ②③⑤
期待していたのだろう。
信長は、長宗我部元親の「阿波南郡半国」を取り止めた。 ③
「阿波国の儀、一円、三好山城守 (康長) に」とある。
【参照】九 【重史181】 阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし
土佐については、未定である。 ④
これには、「元親」の名が記されていない。
保留=未決ということ。
元親の諾否、明らかならず。
ただただ、時間が経過するのみ。
信長は、忍耐強い。
なれど、・・・・・。
「危うい」
きわめて、流動的な状況になって来た。
間に合わねば、光秀の責任問題となる。
光秀は、元親の取次。
当然である。
となれば、・・・・・。
光秀は、信長の「信」を失う。
「出来る男」から、一転、「出来ぬ奴」へ。
すなわち、失脚。
明智は、没落する・・・・・。
光秀が、何よりも怖れること。
信長は、合理主義者。
無駄を嫌う。
その上、疑い深く、執念深い。
光秀は、「高齢」+「役に立たぬ」・・・・・。
なれど、直ぐにでは、ない。
「天下布武」=日本統一の成った後。
「さらなる夢」
それも、ある。
戦いは、終わらず。
使えるだけ、使った後。
・・・・・。
信長は、恐ろしい男。
不意を衝く。
「災いは、いつ来るのか、わからない」
信長に、口実を与えては、ならぬのである。
そもそも、光秀と元親の関係は、斎藤利三から始まった。
【重史179】 天正06 1026
③次に、字(あざな)の儀、信を遣はし候、「土佐国蠧簡集」
【重史180】 天正06 1026
②明智殿御内、齋藤内蔵助は、元親卿には小舅になるなり「元親記」
【人物】
斎藤利三 ◎第57話② →石谷頼辰
石谷氏 ◎第57話② ◎第146話① ◎第146話②
石谷光政 第143話 ◎第57話② 【重史174】
石谷頼辰 第143話 ◎第57話② そ第11話㊴ そ第11話㊵
利三は、元親との問題に責任を痛感していた。
おそらく、そうだったと思う。
光秀は、利三を守らねばならなかった。
嫡男光慶は、まだ若い。
若すぎた。
利三は、明智の将来のために、欠くことの出来ぬ人物。
光秀にとって、家臣は「宝」なのである。
利三の年齢は、よくわからない。
だが、その娘 お福=後の春日の局(第三代将軍 徳川家光の乳母)の生年は、
天正七年1579とされる(「国史大辞典」) 。
したがって、山崎の合戦時=天正十年1582は、4歳。
また、この戦いに参戦した兄がいたらしい。
とすれば、少なくとも14~5歳年長。
これらのことから、大雑把であるが、利三の年齢は、40代前半ぐらい
だった、と考える。
如何、だろうか。
【参照】3光秀と光慶
そ第75話 光秀の老いと光慶 国替え
そ第76話 最大の敵 光慶 後継問題
そ第6話② 光秀は、大きな悩みを抱えていた。
そ第7話① 1光秀は、高齢だった。
そ第7話② 2嫡男光慶は、若すぎた。
そ第7話③ 他に光慶が登場する場面 史料
3光秀は、明智の将来に不安を感じていた。
1時代の風潮
2信長の猜疑心
3粛清 の怖れ 光秀は、粛清を怖れていた。
光秀は、追い込まれた。
心の内は、焦燥感の中。
なれど、表には出さず。
平静を装う。
頼みの綱は、石谷頼辰。
土佐は、僻遠の彼方。
今頃は、・・・・・。
早い帰還を祈るのみ。
【参照】【四国問題】 十 5月17日
そ第78話⑨ そ第11⑩02 ◎第147話② 第147話
5月11日 【重史225】 公 天正10 158200511
信孝は、四国渡海の準備に入った。
「阿波国、神戸三七御拝領の事」
①四国阿波国、神戸三七信孝へ参らせられ候につきて、
②五月十一日、住吉に至りて御参陣。
③四国へ渡海の舟ども、仰せ付けられ、其の御用意、半に候。
『信長公記』
信孝は、阿波・讃岐 二ヶ国の新たな国主となる。
【参照】【重史012】②讃岐国の儀、一円、其方に申し付くべき事、
信長は、未だ、土佐の国主(くにぬし)を決めていない。
「信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事」
淡路島にて、決める、と言っている。
元親を取り巻く状況は、悪化の一途を辿っていた。
故に、間に合ったとしても、「土佐一国」。
それ以上は、有り得ない。
信長は、誇り高い男。
己の命に従わぬ者には、容赦しない。
【参照】【信長の人物像】 信03
元親は、土佐を失う可能性すらあった。
間に合わなければ、さらなる減封。
最悪、「没収」も有り得た。
信長は、元親の名を記せず。
となれば、国主は、余人。
そういうこと、である。
信長は、待った。
「なれど、遅い」
遅すぎた。
【参照】ポ02③ 【重史012】
石谷頼辰は、未だ、帰らず。
このままでは、失敗。
光秀は、信長の「信」を失う。
・・・・・。
信長は、何も言わず。
容赦なく、時は流れて行く。
信長は、執念深い。
このことを、決して、忘れない。
五月中頃 【重史040】 ✓ 天正10 1582005**
「足蹴事件」1/2
①その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。
②これらの催し事の準備について、
③信長は、ある密室において、明智と語っていた
④反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、
⑤信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にした
『日本史』
〃 〃 【重史041】 ✓ 天正10 1582005**
「足蹴事件」2/2
①明智は、何らかの根拠フンダメントを作ろうと欲した
②過度の利欲と野心が募りに募り、
③それが天下の主になることを、彼に望ませるまでになった
④企てた陰謀を果たす適当な時期を、ひたすら窺っていた
『日本史』
〃 〃 【重史227】 公 天正10 1582005**
秀吉は、備中高松城を水攻めにしていた。
「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるゝ事」
そこに、毛利の本軍が現れた。
信長は、この好機を逃さない。
即座に、決断した。
信長は、毛利を滅ぼすつもりだった。
さらに、九州を平定しようとしていた。
信長は、光秀に出陣を命じた。
①中国備中へ、羽柴筑前守相働き、
②高松へ取り詰め、水攻めに申しつけられ候。
③芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。
④今度、間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候間、
⑤中国の歴々討ち果たし、
⑥九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、
⑦ 惟任日向守・長岡・・・、 先陣として、出勢すべきの旨、
『信長公記』
5月17日 【重史029】 公 天正10 158200517 訣別の日。
光秀は、饗応役の任を解かれた。
この日が、信長との最後になった。
出陣支度のため、坂本城に帰った。
五月十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、
『信長公記』
光秀は、石谷頼辰の帰りを待っていた。
「一縷の望み」
他に、打つ手がなかった。
土佐は、僻遠の彼方。
片道だけでも、一ヶ月ほど時間を要した。
頼辰の着日は、おそらく、月末。
否、六月・・・・・。
【参照】そ第78話⑨ そ第11⑩02 ◎第147話② 第147話
信長は、必ず、上洛する。
「信長、淡州に至って出馬の刻」、とある。 【重史012】五月七日
ならば、その前。
この月末・・・・・。
光秀は、そう見ていた。
光秀は、肚を決めた。
間に合えば、・・・・・。
間に合わぬ時は、・・・・・。
なれど、・・・・・。
5月19日 【重史228】 公 天正10 158200519 信長は、家康のために、能舞を興行した。
「幸若大夫・梅若大夫の事」
①五月十九日、安土御山惣見寺において、
②幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、
③丹波猿楽 梅若大夫に能をさせ、
④家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、
⑤御桟敷の内、近衛殿(前久)・信長公・家康公・穴山梅雪・
⑥世間の褒貶(ほうへん)あるべきやの御思慮を加へられ、
『信長公記』
信長は、中国出陣を控え、気が立っていた。 【重史227】
梅若大夫を折檻。
信長は、誇り高い男。 【信長の人物像】 信03
世間の評判を気にした。
そこに、「隙」が生まれた。
光秀は、これを見逃さない。
5月20日 【重史229】 公 天正10 158200520
信長は、家康に対し、最上級の誠意を示した。
高雲寺御殿にて、饗応。
信長は、自らが、御膳を運び入れた。
①五月廿日、徳川家康公御振舞の御仕立て仰せつけられ、
②御座敷は、高雲寺御殿、
③家康公・穴山梅雪・石河伯耆・酒井左衛門尉、外、家老の衆
④忝くも、信長公御自身、御膳を居えさせられ、
⑤家康公御伴衆、上下残さず、安土御山へ召し寄せられ、
『信長公記』
5月21日 【重史230】 公 天正10 158200521
(十日前)
家康、上洛。
信長は、家康を京都・大坂・奈良・堺の見物に案内した。
「家康公・穴山梅雪、奈良・堺御見物の事」
①五月廿一日、家康公御上洛。
②京都・大坂・奈良・堺、御心静かに御見物なされ尤もの旨、
③案内人は、長谷川秀一。
④織田七兵衛・惟住五郎左衛門は、大坂にて、家康公の御振舞
『信長公記』
〃 〃 【重史231】 ✓ 天正10 158200521
この時、家康とともに、信忠も上洛している。
①信長の長男(信忠)が都に到着し、
②彼とともに・・・三河の国主(徳川)家康・・・殿が来た。
『日本史』
〃 〃 【重史232】 ✓ 天正10 158200521
信忠は、中国出陣を控えていた。
「天下布武」
おそらくは、その総仕上げとなったであろう大戦。
脳裏にあるのは、「武田勝頼の首」。 【重史170】
信忠は、大きな手柄を上げた。
ならば、出立前に・・・・・。
そう、思っていたのだろう。
①世子は、再び、全兵力を率ゐて日本の端まで行き、
②諸国を征服して、彼とその父とに帰服せしむるつもりである
「イエズス会日本年報」
〃 〃 【重史042】 ✓ 天正10 158200521
元親は、信長の命を受け入れた。
①尚々、頼辰へ、残らず申し達し候上は、
②今度、御請け、兎角、今に到り、延引候段、
③▢御朱印に応じ、此の如き次第を以って、
④不慮、成し下し候はん事、了簡に及ばず候、
⑤海部・大西*両城の儀は、相、抱え候はて叶わず候、
⑥是れは、阿・讃競望のためには、一向にあらず候、
⑦東州、平均に属し奉り、御馬を納められ、
⑧何事も何事も、頼辰、仰せ談じらるべく候、
「石谷家文書」
石谷頼辰は、土佐にいた。
「武田滅亡」
結局、これが、決め手になった。
「武田効果」、である。
だが、残念ながら、遅すぎた。
結果、間に合わず。
信長は、すでに、動き出していた。
「四国出陣命令」 【 重史 012 】五月七日
元親は、未だ、これを知らず。
五月二十六日 【重史030】 公 天正10 158200526
(五日前)
光秀は、坂本から丹波亀山城へ移った。
①五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣のため、
②坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。
『信長公記』
五月二十七日 【重史028】 ✓ 天正10 158200527
(四日前)
信忠は、信長の上洛を待っていた。
①家康は、明日、大坂・堺に罷り下られ候、
②中国表、近々、御馬出さるべきの由候条、
③我々、堺見物の儀、先ず、遠慮致し候、
④一両日中に、御上洛の旨候間、是に、相待ち申し候、
「小畠文書」
①家康は、明日(二十八日)、大坂・堺へ下向する。
信忠は、一人、京に残る。
②信長は、「近々」、中国へ出陣する。
近日中・・・・・。
否、数日中・・・・・。
その日が、近づいていた。
何やら、急に、慌ただしくなって来た。
③信忠は、それより前に、出陣するつもりだった。
「堺見物」などしている場合はない、ということ。
時の流れが、一段と、速さを増す。
④信長は、「一両日中に」、上洛する。
すなわち、今日・明日・明後日のうち。
秀吉から、新たな注進があったのだろう。
事態は、いよいよ、差し迫って来た。
〃 〃 【重史233】 公 天正10 158200527
光秀は、戦勝を祈願するため愛宕山に参詣した。
①次の日、廿七日に、亀山より、愛宕山へ仏詣。
②一宿参籠致し、
③惟任日向守、心持御座候や、
④二度三度まで鬮(くじ)を取りたる由、申し候。
『信長公記』
光秀は、山上から、京の都を見下ろした。
「本能寺」
信長は、急いている。
そこに、毛利の本軍が現れた。 →【重史227】
信長は、気が立っていた。 →五月十九日【重史228】
梅若大夫を折檻。
信忠は、家康とともに京にいる。
少人数で。 →五月二十一日【重史230】 【重史231】
信長は、中国へ出陣する。
「信長、淡州に至って出馬の刻」 →五月七日【重史012】
その前に、必ず、上洛する。 →五月十七日【重史029】
おそらく、少人数で。
なれど、いつ・・・・・。
光秀は、六月一日夜、出陣する。
石谷頼辰、未だ、帰らず。 →そ第74話②
「間に合わぬ」
すなわち、交渉失敗。
「万事休す」
光秀は、絶体絶命の窮地に追い込まれた。
そこに、・・・・・。
五月二十八日 【重史234】 公 天正10 158200528
(三日前)
光秀は、愛宕山西坊にて連歌会を催した。
①廿八日、西坊にて連歌興行。
②ときは今、あめが下知る五月哉
③五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。
『信長公記』
〃 〃 【重史005】 ✓ 天正10 158200528
①時は今、あめか下なる五月かな、 光秀
②国々は、猶、長閑なる時、 光慶
「続群書類従」
〃 〃 【重史032】 ✓ 天正10 158200528
これが、全ての元凶となった。
①惟任(光秀)、・・・備中に下らずして、密かに謀反をた工む、
②年来の逆意、識察する所なり、
③ときは今、あめかしたしる五月かな、
④今、これを思惟すれば、則ち、誠に、謀反の先兆なり、
⑤天正十年六月朔日、夜半より、
「惟任退治記」
秀吉は、実に、素早かった。
本能寺の変 六月二日。
山崎の合戦 同十三日。
その、直後。
十月には、すでに、この書が、世の出ていたという。
「惟任退治記」は、創作物。
信長亡き後の、秀吉の行動を、美化・正当化するために書かれた宣伝本。
フィクション部分が多い。
今風に言えば、政府発表の公文書の如きもの。
瞬く間に、世に広まった。
秀吉は、歴史を捏造した。
秀吉は、これを利用して、言葉巧みに、大衆を丸め込んだ。
狡猾で、抜け目のない男である。
秀吉は、光秀が、己の心中を、事前に、外部の人間に漏らした、
と言っている。
秀吉は、光秀を利用した。
「死人に口なし」
光秀は、冥途の彼方へ。
秀吉は、天下を狙っていた。
「明々白々」
やがて、織田家を乗っ取った。
これもまた、「下剋上」。
その様な時代だった。
同、二十八日
家康が、大坂へ向かった。 →五月二十七日【重史028】
信忠は、京に残った。
五月二十九日 【重史033】 公 天正10 158200529
信長が、上洛した。
①五月廿九日、信長公、御上洛。
②御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。
③直ちに、中国へ御発向なさるべきの間、
④今度は、御伴これなし。
『信長公記』
従うのは、小姓衆のみ。
信長は、中国へ出陣するつもりだった。
信長は、軍勢を京に入れず。
安土に残した。
信長は、家康に配慮した。
家康は、暗殺を怖れていた (『日本史』「本城惣右衛門覚書」) 。
信長は、自身を警固する軍勢を伴っていなかった。
信長は、「油断」した。
「一世一代の不覚」
結果として、そうなる。
光秀は、信長の性格をよく知っている。
斯くなることを予測していた。
光秀は、道中で目にした。
駿河・遠江・三河は、家康の領地。
甲斐からの帰路、そこを、通った時のこと。
信長は、供廻りを最小限にした。
①『信長公記』 天正十年1582、三月二十八・二十九日条。
②『信長公記』 天正十年1582、四月十六日条。
これ、すなわち、「配慮」。
家康を信用しているという、意思表示。
今度(こたび)も、それに同じ。
時は、戦国時代。
生と死は、紙一重。
油断=死。
「相互不信」の時代だった。
そして、家康が、少人数で安土を訪れた。
これもまた、信長を信用しているの証。
否、そうせねばならなかった。
何しろ、信長は、猜疑心の強い男。
疑われれば、潰される・・・・・。
恐ろしい時代だった。
そして、再び、信長の番となる。
信長は、これに、応えねばならなかった。
となれば、・・・・・。
「都には、軍勢を入れぬ」
否、「入れるわけには、いかぬ」のである。
光秀は、聡明な男。
そう、見ていた。
斯くなれば、
「丸裸」・・・・・。
そして、正に、その通りになった。
⇒ 次へつづく
