本能寺の変1582 【重史231】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史231】 『日本史』
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史231】
①信長の長男(信忠)が都に到着し、
②彼とともに・・・三河の国主(徳川)家康・・・殿が来た。
『日本史』
天正十年1582、五月二十一日。 158200521
(十日前)
この時、家康とともに、信忠も上洛している。
三七殿(信孝)が出発した後、信長の長男(信忠)が都に到着し、
彼とともに父の義弟である三河の国主(徳川)家康、ならびに新たに征服
された諸国の重立った武将の一人である天野(康景)殿が来た。
我らは、都の教会にいたが、三河の国主が我らの修道院に宿泊すること
を望むのではないかと大いに憂慮していた。
なぜなら、市(まち)では、その噂があったからである。
だが、後述するように、
それらは、我らを危険に陥れるものゆえ、我らの主は望まれなかった。
そして、彼とその家臣たちは、かねて上京する際に宿泊していた我らの
修道院の近傍(きんぼう=近所)のいくつかの家々に投宿した。
そして、二、三日後には、信長の到着を待たず、堺と奈良の市(まち)を
見物するために出発したが、
その後数日を経て生じた事件を想い合わせる時、それは偉大なデウスの
御摂理によることであった。
(『日本史』)
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
【参照】【四国問題 概要】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
