本能寺の変1582 【四国】 九 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【四国問題】 天正九年1581
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 250808 250824 250910
天正九年1581
1月8日 【重史194】 ✓ 天正09 158100108
松井友閑は、津田宗及を招き茶会を催した(安土)。
正月八日朝、 安土に於いて宮法御会 宗訥 宗二 宗及
「天王寺屋会記」他
1月10日 【重史197】 ✓ 天正09 158100110
光秀、坂本にて、新年の茶会(津田宗及)。
正月十日朝、 惟任日向守殿会 宗二 宗及
「天王寺屋会記」他
1月23日 【重史191】 ✓ 天正09 158100123
信長は、京都で、盛大な馬揃えを執り行おうと考えた。
①正月廿三日、惟任日向守に仰せ付けられ、
②京都にて、御馬揃へなさるべきの間、
③御朱印を以て、御分国に御触れこれあり。
『信長公記』
〃 〃 【重史192】 ✓ 天正09 158100123
信長は、三好康長に、阿波への出陣を命じた。
①先度は、爆竹の諸道具こしらへ、
②然らば、重ねて、京にては、切々、馬を乗り遊ぶべく候、
③幾内の直奉公の者共、老若を出すべく候、
④其方(光秀)、請取り申し触るべく候、
⑤三好山城守(康長)、是れは、阿波へ遣はし候間、除くべく候、
⑥六十余州へ相聞ゆべく候の条、馬数多くしたて、
「士林証文」
2月6日 【重史195】 ✓ 天正09 158100206
三好康長が、堺の天王寺屋(津田宗及)を訪ねた。
二月六日朝、 三好山城殿 一人
「天王寺屋会記」自
2月10日 【重史196】 ✓ 天正09 158100210
松井友閑が、天王寺屋を訪れた。
二月十日朝、 宮内卿法印、御出で 雲(了雲)・叱(道叱)・訥(宗訥)
「天王寺屋会記」自
2月28日 【重史200】 公 天正09 158100228
「御馬揃への事」
当日の様子である (1~6) 。
①二月廿八日、
②五畿内隣国の大名・小名・御家人を召し寄せられ、
③天下に於て、御馬揃へをなされ、
④聖王へ、御叡覧に備へられ訖んぬ。
⑤儀式の御結構、美々しき有様、筆にも、詞にも、述べがたく、
『信長公記』1/6
〃 〃 【重史201】 公 天正09 158100228
光秀は、先頭集団の三番目に登場した。
①一番に、惟住五郎左衛門尉(丹羽)長秀、
②二番、蜂屋兵庫頭、
③三番、惟任日向守、
④四番、村井作右衛門、
⑤御連枝の御衆。
⑥公家衆。
⑦御馬廻、御小姓衆。
⑧越前衆。
『信長公記』2/6
3月5日 【重史202】 ✓ 天正09 158100305
秀吉は、京都馬揃えに参加していない。
①今度、御馬揃の儀、夥敷(おびただしく)、相聞え申し候事、
②参上せしめず候段、無念に存ずる計(ばか)りに候、
③爰元、(姫路城の)普請等、漸(ようや)く出来候、
「富田文書」
3月29日 【重史193】 ✓ 天正09 158100329
秀吉、清水寺にて、松井友閑と酒宴に興ず。
①清水寺に於いて、羽柴筑前守・宮内卿法印・春長軒
②各、罷り向かい、酒宴、
③羽筑より、乱舞の衆へ、小袖一つ宛、遣わすと云々、
「兼見卿記」
4月10日 【重史198】 公 天正09 158100410
信長、竹生島参詣事件。
①信長、御小姓衆五、六人召し列れられ、竹生島御参詣。
②御帰り候て、御覧候へば、
③御城内は、行きあたり、もだえ焦(こが)れ、仰天限りなし。
④其の長老をも、同事に、御成敗候なり。
『信長公記』
4月12日 【重史199】 ✓ 天正09 158100412
光秀、天橋立を遊覧す(津田宗及を同道)。
①惟任日向守殿父子三人
②長岡兵部太夫殿父子三人
③紹巴 宗及 宗二 道是
④地蔵行平の太刀、与一郎殿より日向殿へ御進上候なり、
⑤かざり船にて、并びに橋立の文殊にて御振舞これあり、
⑥うふてる松は、千年のさなえ哉、 光秀
「天王寺屋会記」他
5月4日 【重史203】 ✓ 天正09 158100504
秀吉と松井友閑、天王寺屋にて茶会に興ず。
秀吉は、二人との関係を強化していた。
五月四日朝、 羽柴藤吉郎殿・宮内卿法印御坊、
「天王寺屋会記」自
6月12日 【重史204】 ✓ 天正09 158100612
秀吉、播州姫路にて、茶会を催す(津田宗及、参ず)。
①六月十二日朝、 羽柴藤吉郎殿御会、
②播州ヒメジにて、 宗及 備中屋一噌
「天王寺屋会記」他
6月25日 【重史205】 公 天正09 158100625
秀吉が、鳥取城攻めへ向かった。
①六月廿五日、羽柴筑前守秀吉、中国へ出勢。
②打ち立つ人数、二万余騎。
③即時に、とつとり(鳥取)を取りまかせ、
④海上には、警固舟をおき、浦々、焼き払ひ、
⑤数千挺の弓・鉄炮勝り出し、
『信長公記』
8月13日 【重史214】 公 天正09 158100813
秀吉は、信長と、頻繁に連絡を取り合っていた。
毛利の本軍が、鳥取へ向かったらしい、との情報が入った。
①因幡国とつとり表に至りて、
②毛利・吉川・小早川、罷り出づべきの風説これあり。
③一左右次第、参陣いたすべき用意、
④永岡兵部大輔父子三人、惟任日向守、
⑤信長公、御馬を出だされ、悉く、討ち果たし、
⑥永岡・惟任両人は、大船に兵粮つませ、
『信長公記』
秀吉の役目は、毛利の本軍を誘き出すこと。
信長は、自ら、出陣するつもりだった。
信長は、猜疑心のきわめて強い男。
秀吉は、聡い男。
そのことをよく心得ていた。
8月19日 【重史173】250817 ✓ 天正09 158100819
佐久間信盛、十津川の湯にて、死す。
①佐久間(信盛)、十津川の湯にて、死ぬにつき、
②惟任日向守、郡山城普請見舞として、
「多聞院日記」
8月20日 【重史215】 ✓ 天正09 158100820
信長は、吉報を待っていた。
秀吉は、信長の性格をよく知っていた。
報告を欠かさない。
①鳥取面の事、
②彼の城中の下々、日々餓死に及び候旨、実儀なるべく候、
③惟任・長岡以下申し付け候、
④その方、一左右(いっそう)次第、出張すべく候、
⑤信長も、出馬すべく候条、
「沢田文書」
信長は、毛利との決戦を期待していた。
光秀は、その時ための切り札であった。
手柄を上げる好機。
なれど、ために身動きとれず。
8月21日 【 重史 007 】250817 ✓ 天正09 158100821
光秀は、妹の御ツマキ(妻木)を失った。
①惟任の妹の御ツマキ死におわんぬ、
②向州、比類なく、力を落とすなり、
「多聞院日記」
9月8日 【重史206】 ✓ 天正09 158100908
信長は、阿波北部への出兵を決めた。
ならば、その前に・・・・・。
どうしても、成さねばならぬことがあった。
絶対必要条件。
「淡路島」
信長は、秀吉に、攻略を命じた。
秀吉は、鳥取城攻めの真っ最中。
兵を割く余裕は、ない。
となれば、黒田官兵衛。
秀吉は、官兵衛に、これらの下工作を命じた。
鳥取は、時間の問題。
なれど、まだ、先が見えず。
「あと、一月」
「否、二月」
その間に・・・・・。
秀吉は、淡路衆を阿波へ先行させようとしていた。
その上で、本軍を。
①長宗我部方よりも申し分候へ共、返事に能わず候、
②勝瑞、いよいよ、堅固の由、尤もに候、
③阿州表の儀、重ねて、申し越され候、
④淡路衆、毎日、追々、渡海の旨、然るべく候、
「阿波国徴古雑抄」
9月12日 【重史207】 ✓ 天正09 158100912
秀吉は、黒田官兵衛に、阿波渡海の指揮を命じた。
①権兵衛に、阿(淡)州衆召し連れ、入城せしむべきの由、
②生甚・明与四は、自遁の城まで渡海せしむべく候、
③その方、早々、相越され、
④野孫五の城に在城候て、
「黒田家文書」50
9月16日 【重史208】 ✓ 天正09 158100916
志知城は、阿波渡海の作戦司令部。
①淡路へ渡海の儀、油断無き由、尤もに候、
②生甚、阿州へ相越すの旨に候条、
③其の方は、しちの城に在城候て、
④先々の儀、示し合わされ、行等の事、調儀専一に候、
「黒田家文書」51
9月24日 【重史209】 ✓ 天正09 158100924
黒田官兵衛が、志知城に入った。
①阿州、相残る人質ども、志智に至り、相越さるるの由、
②行の様子、委細、小西弥九郎に、書付を以って申し渡し候、
③讃州安富、人質召し連れ、親父相越され候、
「黒田家文書」52
**** 【重史181】 ✓ 天正09 1581*****
信長は、元親の領地を土佐一国と阿波南半国に定めた。
①元親儀を、信長卿へ、或る人、さゝへ(妨害)申す、
②連々、天下のあだにも罷り成るべし、
③信長卿、御朱印の面、御違却有りて、
④予州・讃州、上表申し、
⑤阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし
「元親記」
**** 【重史190】 ✓ 天正09 1581*****
元親は、信長の命を受け付けず。
①四国御儀は、某が手柄を以って、切り取り申す事に候、
②一圓、御請け申されず、
③明智殿より、石谷兵部少輔(頼辰)を御使者に下されたり、
④是れにも、御返事、申し切らるゝなり、
「元親記」
10月10日 【重史210】 ✓ 天正09 158101010
阿波の木津・土佐泊へ。
秀吉は、黒田官兵衛に、兵粮・玉薬の搬入を命じた。
讃岐では、長宗我部の軍勢が撤退した。
①来島一書口上の趣聞き届け、委細申し遣わし候、
②木津・土佐泊兵粮の事、申し付け相渡し候、
③右両城玉薬の事、先度書き付け候分、これ又申し付け候、
④讃州表の事、敵引き退き候由、其分たるべく候、
「黒田家文書」53
10月25日 【重史211】 公 天正09 158101025
鳥取城、開城。
①因幡国とつ鳥一郡の男女、悉く、城中へ逃げ入り、楯籠り候。
②下々、百姓以下、長陣の覚悟なく候の間、即時に餓死に及ぶ。
③吉川式部少輔・森下・日本、三大将の頸を取り進らすべく候間
④残党、扶け出だされ候様にと、詫言、申し候、
⑤十月廿五日、取鳥籠城の者、扶(たす)け出ださる。
『信長公記』
10月28日 【重史212】1/2 公 天正09 158101028
吉川元春が、伯耆に進出した。
秀吉、出陣。
鳥取から、伯耆へ。 →11月8日【重史212】2/2へつづく
11月6日 【重史217】 ✓ 天正09 158101106
姫路沖に、毛利の水軍が現れた。
秀吉の水軍(小西行長)が、これを追い払った。
①敵の警固船二百艘計り、罷り上るの処、
②室より小西、安宅(船)乗り出し、
③宇喜多、煩(わずらい)、再発の由に候、
④藤吉郎、永々、在陣仕り候間、
「蜂須賀文書」
11月8日 【重史212】2/2 公 天正09 158101108
秀吉は、吉川元春に、攻め寄せる意思がないと判断した。
秀吉は、姫路城へ帰った。
①伯耆国に、吉川、罷り出で、南条表取り巻くの由、注進候。
②羽柴筑前守、後巻に罷り立ち、
③因幡・伯耆の境目に、山中鹿之介弟 亀井新十郎(茲矩)、
④羽衣石・岩倉両城へ、兵粮・玉薬丈夫に入れおき、
⑤十一月八日、播州姫路に至りて帰陣。
⑥吉川元春も、曲なく、人数引き取り候ひキ。
『信長公記』
11月17日 【重史178】 公 天正09 158101117
秀吉は、淡路島の攻略に成功した。
①羽柴筑前・池田勝九郎両人、淡路島へ人数打ち越し、
②姫路に至りて、羽柴筑前守、帰陣。
③淡路島、物主(ものぬし)、未だ仰せつけられず候なり、
『信長公記』
11月23日 【重史213】 ✓ 天正09 158101123
信長は、三好康長に阿波(北部)・讃岐の平定を命じた。
①今度、淡州の儀、皆相済ませ申し候、
②阿・讃の儀、三好山城守、弥、仰せつけられ候、
③即時に、両国残さず一着候ように仰せ付けられるべく候、
④慥(たし)かに、申し届くべきの通り、 上意候間、
「志岐文書」
11月26日 【重史218】 ✓ 天正09 158101126
信長は、毛利水軍の切り崩しを図った。
秀吉に、これを命ず。
能島村上氏が、誼を通じて来た。
①弟鷹一居到来候、遠路懇情喜び入り候、
②十一月廿六日 信長(朱印) 村上掃部頭とのへ
「村上文書」
信長の調略作戦が、着々と、進行してた。
十二月後半 【重史216】 公 天正09 1581012**
秀吉、安土に参着。
秀吉は、得意の絶頂にあった。
①歳暮の御祝儀として、羽柴筑前守秀吉、播州より罷り上り、
②御小袖、数弐百、進上。
③其の外、女房衆かた、それぞれへ参らせられ、
④か様の結構、生便敷(おびただしき)様躰、古今承り及ばず、
⑤今度、因幡国取鳥、一国平均に申しつけらるゝ事、
⑥武勇の名誉、前代未聞の旨、御感状をなされ、
⑦信長公、御褒美として、御茶の湯道具、十二種御名物、
『信長公記』
秀吉の活躍が、目立った。
播磨・但馬・因幡・伯耆、そして、淡路島。
信長との関係は、きわめて良好。
秀吉は、一歩も二歩も先行した。
その将来は、明るい。
光秀に、特に、目立った活躍はない。
光秀は、大きく水をあけられた。
元親の問題が、重石になった。
そして、もう一つ。
毛利との決戦に備えて、待機せねばならなかった。
ために、身動きならず。 【重史214】 【重史215】
のみならず、妹御ツマキを失った、今。 【 重史 007 】250817
信長とのコミュニケーションが、思うようにならず。
等々。
明智の将来は、暗い。
⇒ 次へつづく
