本能寺の変1582 【重史217】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史217】 「蜂須賀文書」
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史217】
①敵の警固船二百艘計り罷り上るの処、
②室*より小西、安宅(船)乗り出し、
③宇喜多、煩(わずらい)、再発の由に候、
④藤吉郎、永々、在陣仕り候間、
「蜂須賀文書」
天正九年1581、十一月六日。 158101106
秀吉は、自前の水軍を持っていた。
将は、小西弥九郎(行長)。 【人物】 【重史209】
二十四歳の若者である。
信長は、疑い深い。
秀吉に目付をつけていた。
蜂須賀小六(正勝)。
当時としては、当然の事。
小六は、大永六年1526の生れ。 【人物】
この年、五十六歳。
信長の直臣である。
信長は、秀吉の与力としていた。
以下は、小六からの報告に対する信長の返書である。
姫路沖に、毛利の水軍が現れた。
西から東へ向かって航行していたのだろう。
淡路島か。
行先は、わからない。
信長は、西方へ制海権を拡大しようとしていた。
播磨灘の制海権は、未だ、その大半が毛利の手の内にあった。
秀吉の水軍(小西行長)が、これを追い払った。
徐々に、制海権を拡大しつつあったのだろう。
去る晦日の注進状、今日六到来、委曲(詳細)聞し召し候、
一、敵の警固船二百艘計り、罷り上るの処、則ち、其方案内せしめ、
室*より小西、安宅(船)乗り出し、家嶋*に至って追上ぐるの旨、
尤も以って、神妙に候、
尚々、由断なく調儀すべき事専一に候、
*室津 兵庫県たつの市御津町室津
家島 兵庫県姫路市家島町
家島諸島の一つ。
宇喜多直家は、病を患っていた。
直家は、生年不詳。
元、浦上氏の家臣。
後、これと対立。
浦上氏は、信長に接近。
直家は、毛利に与した。
天正五年1577。
浦上氏と戦い勝利。
これを追放した。
天正七年1579。
秀吉の調略により、毛利を裏切り、信長へ。
以後、毛利への備え。
西方最前線となる。
備前岡山城主。
天正十年一月、病死す。
一、備中忍(山)城*の事、宇喜多覚悟なきに依り、
此の如くの段、沙汰の限り(言語道断)、
此の方まで、無念、是非に及ばず候、
其れに付き、宇喜多、煩(わずらい)、再発の由に候、
永々、所労、少しく験気(げんき=快方にむかうこと)を得、
又、相発し候旨、本復仕り難く候、
是又、是非なき次第に候、
*忍山(しのぶやま)城 岡山県岡山市北区上高田
備中・備前、国境の城。
なるべく、近い内に、安土に、帰陣するように。
一、藤吉郎、永々、在陣仕り候間、只今打入候ても、
年内、備中面、出陣、如何候、
とても彼口、別の儀も之れ有るべからず候間、
相変らず候とも、隙明き次第、帰陣、然るべく候、
此方よりも、此分、申し遣すべく候、
猶、其元よりも其意を成し、申し聞かすべき事簡要に候、
其面、警固船の躰(てい)、又、備中面の儀、珍事候はば、
重ねて注進すべく候也、
十一月六日 御黒印
蜂須賀彦右衛門尉
とのへ
(「蜂須賀文書写」「織田信長文書の研究」補遺257)
【引用】
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
【参照】【四国問題 概要】
⇒ 次へつづく
