本能寺の変1582 【信長の人物像4】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【信長の人物像4】
はじめに ←目次 ←
→重要 ◎目次
→重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次
→テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次
→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【重要史料】 全 【重史一覧】
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【信長の人物像4】 7~9
【信長の人物像】
【1】1~2 【2】3~4 【3】5~6 【4】7~9 【5】10
【6】11~ 【7】 【8】 【9】 【10】
07信長は、信念の人。
信長は、家臣らの忠言をよく聞いた。
だが、だからと言って、必ずしも、それを受け容れるとは限らない。
信長には、己の信念があった。
それを、貫く人なのである。
彼はわずかしか、またほとんどまったく家臣の忠言に従わず、
一同からきわめて畏敬されていた。
【重史146】⑦/⑲『日本史』
【ここがポイント!!】
信長は、信念の人。
すなわち、目的意識が極めて高い人物。 →【1】05
そして、カリスマ性があった。 →【重史146】⑲/⑲『日本史』
「一同からきわめて畏敬されていた」、とある。
これぞ、正しく、絶対専制君主の姿。 →【重史146】⑨/⑲『日本史』
戦国時代の真っ只中。
完全自己責任の世界。
そうであらねば、生き残られぬ時代であった。
08信長は、酒を飲まず。
食を節していた。
己を厳しく律していた。
酒を飲まず、食を節し、
【重史146】⑧/⑲『日本史』
【ここがポイント!!】
信長は、酒を飲まず。
食を節していた。
これすなわち、目的意識が極めて高い、ということ。 →【1】05
その証左と考える。
信長の夢=志向。 →【1】05
一、「天下布武」
一、「さらなる夢」
信長は、この一事に、己の全エネルギーを集中していた。
そのための、健康管理ということである。
夢=志向 → 活力=生命力 → 生き様
正に、鋼の如き強固な意志の持主だった。
09信長は、絶対専制君主。
人の取扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。
彼は、日本のすべての王侯を軽蔑し、
下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。
そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。
【重史146】⑨/⑲『日本史』
【ここがポイント!!】
信長は、絶対専制君主。 →【1】03
しかし、君主一人だけでは何も出来ない。
信長は、鋭い人物眼の持主。
多くの人材を登用した。
中でも、際立つのが、光秀と秀吉。
彼らこそ、織田家の出世頭。
家臣らの亀鏡(手本)。
織田家活性化の源。
二人は、信長の思惑通りに動いていた。
信長は、大勢の家臣たちを、自由自在に操縦していたのである。
【重史164】 ◎第11話 『信長公記』
①丹波国、日向守が働き、天下の面目をほどこし侯。
②次に、羽柴藤吉郎(秀吉)、数ヶ国比類なし。
③池田勝三郎、小身といひしも、
④柴田修理亮、右の働き聞及び、
同盟者 家康もまた、これに同じ。
天正十年1582、三月。
「三月廿九日、御知行割仰せ出ださるゝ次第」 『信長公記』
家康は、三河・遠江の太守。
信長は、その家康に、甲斐征伐の褒美として、さらに、駿河一国を与
えた。
「駿河国、家康卿へ」 『信長公記』
家康は、信長から、新たな領地を賜った。
ここに、君臣関係が成立。
そう言えるのでは、ないだろうか。
以上、信長は、フロイスをして、「絶対君主」と言わしめるほど、
卓越したリーダーシップとカリスマ性、ズバ抜けた掌握術(管理能力)
とを兼ね備えた不世出の戦国武将だった。
⇒ 次へつづく
