本能寺の変1582 【重史146】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史146】 『日本史』
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 251031
【重史146】
①中くらいの背丈で、華奢な体軀であり・・・声は快調で、
②極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、
③名誉心に富み、正義において厳格であった。
自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。
④幾つかのことでは人間味と慈愛を示した。
⑤彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。
⑥はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、
非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。
⑦彼はわずかしか・・・家臣の忠言に従わず、
一同からきわめて畏敬されていた。
⑧酒を飲まず、食を節し、
⑨人々は彼に絶対君主に対するように服従した。
⑩彼は、戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。
⑪彼は、善き理性と明晰な判断力を有し、
⑫神および仏のいっさいの礼拝、尊崇・・・の軽蔑者であった。
霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。
⑬彼は自邸においてきわめて清潔であり、
⑭自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、
⑮対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、
⑯ごく卑賤の家来とも親しく話をした。
⑰愛好したのは・・・茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩・・・相撲
⑱何ぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。
⑲彼は少しく憂鬱な面影を有し・・・はなはだ大胆不敵で、
万事において人々は彼の言葉に服従した。
『日本史』
これが、フロイスの見た信長である (①~⑲) 。 1/4 2/4 3/4 4/4
フロイスは、信長の人物像について、著書『日本史』の中で、以下の
ように記述している。
信長は、尾張の国の三分の二の主君なる殿(信秀)の第二子であった。
彼は天下を統治し始めた時には三十七歳くらいであったろう。
【参照】
信長は、天文三年1534の生れ。
したがって、
「天下を統治し始めた時」は、次のような年齢(数え)だった。
永禄十一年1568 三十五歳 上洛
十二年1569 三十六歳 本國寺の変 フロイスとの出会い
十三年1570 三十七歳 金ヶ崎の戦い 姉川合戦 志賀の陣
元亀元年 〃 〃 四月二十三日改元
二年 1571 三十八歳 叡山焼討
三年 1572 三十九歳 三方ヶ原の戦い
①信長は、中背・瘦せ型・快調な声の人だった。
ハキハキした、よく通る、聞き取りやすい声だった・・・・・。
「快調」=調子がいい声とは、どの様な声なのだろうか。
彼は、中くらいの背丈で、華奢な体軀であり、
髯は少なく、はなはだ声は快調で、
②信長は、典型的な戦国武将。
「力こそ正義」
軍事力の強化に、余念がなかった。
極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、
③信長は、誇り高い男。
そして、正義感が強い。
名誉心に富み、正義において厳格であった。
彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。
④信長には、人間らしい一面もあった。
「人の子である」、ということである。
太田牛一の『信長公記』にも、これに類する記述がある。
幾つかのことでは人間味と慈愛を示した。
⑤信長は、目的意識が強い。
時間と戦っていた。
彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。
⑥信長は、冷静沈着・激烈果断の人。
貪欲でなく、
はなはだ決断を秘め、
戦術にきわめて老練で、
非常に性急であり、激昂はするが、
平素はそうでもなかった。
⑦信長は、信念の人。
カリスマ性があった。
信長は、家臣らの意見をよく聞いた。
だが、それは、それ。
「わずかしか」、とある。
だからと言って、必ずしも、受け容れるとは限らない。
戦国時代である。
「一寸先は、闇」
何が起こるかわからない。
右か、左か。
生か、死か。
打つ手を違えれば、そこにあるのは地獄。
信長には、信念があった。
決めるのは、己自身。
それを、貫く人なのである。
そうであらねば、生き残られぬ時代だった。
それ故、ここまで、生きて来た。
このことが、家臣らの心を引きつけたのだろう。
彼はわずかしか、またほとんどまったく家臣の忠言に従わず、
一同からきわめて畏敬されていた。
⑧信長は、酒を飲まない。
酒を飲まず、食を節し、
⑨信長は、専制絶対君主。
人の取扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。
彼は、日本のすべての王侯を軽蔑し、
下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。
そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。
⑩信長は、忍耐強い。
彼は、戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。
⑪信長は、理性的であり判断力に優れていた。
フロイスが、そう言っている。
正に、つけ入る「隙」のない男。
歴史上、空前絶後の人物だった。
彼は、善き理性と明晰な判断力を有し、
⑫信長は、神仏を信用していない。
神仏を、尊崇は、している。
だが、信用は、していない。
神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、
ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。
形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、
顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、
若干の点、禅宗の見解に従い、
霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。
⑬信長は、清潔な人だった。
彼は自邸においてきわめて清潔であり、
⑭信長は、完璧主義者。
自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、
⑮信長は、冗漫を嫌った。
性急・せっかちである。
気が短い。
対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、
⑯信長には、気さくな一面があった。
話好きなのだろう。
ごく卑賤の家来とも親しく話をした。
⑰信長の好むもの。
彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りで
あり、
目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはな
はだ好んだ。
⑱信長は、用心深い。
何ぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。
⑲信長は、人の心を引きつけた。
カリスマ性があった。
彼は少しく憂鬱な面影を有し、
困難な企てに着手するにあたってははなはだ大胆不敵で、
万事において人々は彼の言葉に服従した。
(『日本史』)
以上、①~⑲。
これで、信長の輪郭が見えて来た。
【引用】【四国問題】 天正十年1582 五月十二日
【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
そ第11話㉚
【参照】【四国問題】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
【参照】【四国問題 概要】
天正八年1580
天正九年1581
天正十年1582
⇒ 次へつづく
