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本能寺の変1582 【信長という男】 №5-364 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【信長という男】         №5-364

はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
【五大要因】  
1 時代の風潮 1戦国時代=相互不信の時代
         2美濃
         3尾張
2 光秀の実像 1信長という男
         2光秀という男
         3光秀と光慶  1光秀の素性 2光秀の年齢 3嫡男光慶
         4先祖の教訓
         5大量殺戮
         6信長の弱点
3 光秀の苦悩 1粛清の怖れ
         2志向の相違
         3光秀の老い
         4四国問題
         5自立への道
4 武田の滅亡 1甲斐遠征
         2勝頼の首
         3武田効果
5 信長の油断 「事態急変」
         1 勝利の余韻 4月21日 24日
         2 四国出陣
         3 足蹴事件
         4 中国出陣
         5 時は今、・・・・・。
さる程に、不慮の題目出来候て、
【注目ポイント】 目次
【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正

【信長という男】                  №5-364

 目次 1/5 目  2/5  3/5  4/5 目  5/5 目 
 結論 目 
 【重史052】 【重史146】 【重史169】

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これが、信長の実像である。

宣教師フロイスは、歴史の証人。        →【人物】 【重史014】
信長のことを、よく見ていた (①~⑲) 。

フロイスは、著書『日本史』の中で、信長の人物像について、以下の
ように記述している。

フロイスは、鋭い観察力の持ち主。
詳細かつ正確。
きわめて重要な史料である。
ぜひとも、目を通していただきたい。

特に、性格・人間性等について。
要注意!!

時は、大航海時代 (15C~17C) 。
フロイスは、この様な情報を、イエズス会を経由して、本国(ポルトガル)へ報告していた。

 ①中くらいの背丈で、華奢な体軀であり・・・声は快調で、

 ②極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、

 ③名誉心に富み、正義において厳格であった。
  自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。

 ④幾つかのことでは人間味と慈愛を示した。

 ⑤彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。

 ⑥はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、
  非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。

 ⑦彼はわずかしか・・・家臣の忠言に従わず、
  一同からきわめて畏敬されていた。

 ⑧酒を飲まず、食を節し、

 ⑨人々は彼に絶対君主に対するように服従した。

 ⑩彼は、戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。

 ⑪彼は、善き理性と明晰な判断力を有し、

 ⑫神および仏のいっさいの礼拝、尊崇・・・の軽蔑者であった。
  霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。

 ⑬彼は自邸においてきわめて清潔であり、

 ⑭自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、

 ⑮対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、

 ⑯ごく卑賤の家来とも親しく話をした。

 ⑰愛好したのは・・・茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩・・・相撲

 ⑱何ぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。

 ⑲彼は少しく憂鬱な面影を有し・・・はなはだ大胆不敵で、
  万事において人々は彼の言葉に服従した。
                       【重史146】『日本史』

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信長とフロイスの交流は、永禄十二年1569に始まった。
以来、天正十年1582までの14年間、フロイスは、信長に関することを、様々な角度から、よく観察し、それを記録として、後世に残した。
当時の姿が、甦る。
目に見えるようである。

  信長は、尾張の国の三分の二の主君なる殿(信秀)の第二子であった。
  彼は天下を統治し始めた時には三十七歳くらいであったろう。

【参考までに】
 信長は、天文三年1534の生れ。
 したがって、
 「天下を統治し始めた時」を、信長が「上洛した時期」だとすれば、
 次のような年齢(数え)になる。

   永禄十一年1568 三十五歳 上洛
   〃 十二年1569 三十六歳 本國寺の変 フロイスとの出会い
   
〃 十三年1570 三十七歳 金ヶ崎の戦い 姉川合戦 志賀の陣

 なお、「フロイスとの出会い」については、以下の史料を参照されたい。

  【重史140】
    ①司祭が都に到着して三日を経、
    ④信長は、贈物を見た後、ビロードの帽子だけを受理した。

  【重史141】
    ①信長は、建築作業に従事しており、
    ②濠橋の上で待った。

①信長は、中背・瘦せ型・快調な声の人だった。
 ハキハキした、よく通る、聞き取りやすい声だった・・・・・。
 「快調」=調子がいい声とは、どの様な声なのだろうか。

  彼は、中くらいの背丈で、華奢な体軀であり、
  髯は少なく、はなはだ声は快調で、

②信長は、典型的な戦国武将。→⑥
 「力こそ正義」
 信長は、軍事力の強化に、余念がなかった。

  極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、

③信長は、誇り高い男。
 そして、正義感が強い。

  名誉心に富み、正義において厳格であった。
  彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。

④信長には、人間らしい一面もあった。
 「人の子である」、ということである。
 太田牛一の『信長公記』にも、これに類する記述がある。

  幾つかのことでは人間味と慈愛を示した。
                       【重史146】『日本史』

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⑤信長は、目的意識が強い男。→⑦
 時間と戦っていた。

  彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。

⑥信長は、冷静沈着・激烈果断の人。
 典型的な戦国武将。
→②
 戦巧者である。


  貪欲でなく、
  はなはだ決断を秘め、
  戦術にきわめて老練で、
  非常に性急であり、
  激昂はするが、
  平素はそうでもなかった。

⑦信長は、信念の人。→⑤
 人を惹きつけるカリスマ性があった。
→⑲
 信長は、家臣らの意見をよく聞いた。
 だが、それは、それ。
 「わずかしか」、とある。
 だからと言って、それを、必ずしも、受け容れるとは限らない。

  彼はわずかしか、またほとんどまったく家臣の忠言に従わず、
  一同からきわめて畏敬されていた。

 戦国時代である。
 「一寸先は、闇」
 何が起こるかわからない。
 右か、左か。
 生か、死か。
 一手違えれば、そこにあるのは地獄。

 信長には、信念があった。
 決断するのは、己自身。
 それを、貫く人なのである。
 そうであらねば、生き残られぬ時代だった。

 それ故、ここまで、生きて来た。

 このことが、家臣らの心を引きつけたのだろう。

⑧信長は、酒を飲まない。
 ここに、注目!!
 これが、「史実」である。
 したがって、「飲酒」場面の有る映画・テレビ・小説等は、「史実」を
 無視したもの、と言うことができる。

  酒を飲まず、食を節し、

⑨信長は、専制絶対君主。
 己が、天下の支配者であることを強く意識していた。

  人の取扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。
  彼は、日本のすべての王侯を軽蔑し、
  下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。
  そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。

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 ⑩信長は、忍耐強い。
  粘り強い→しつこい=執拗→執念深い。


   彼は、戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。

 ⑪信長は、理性的であり判断力に優れていた。
  フロイスが、そう言っている。
  正に、つけ入る「隙」のない男。
  歴史上、空前絶後の人物だった。

   彼は、善き理性と明晰な判断力を有し、

  そして、このことが、信長の過度な合理主義へと繋がっていく。
                 →【粛清 佐久間信盛】 【重史240】

 ⑫信長は、神仏を信用していない。
  尊崇は、している。
  だが、信じてはいない。

   神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、
   ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。

   形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、
   顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、
   若干の点、禅宗の見解に従い、
   霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。

 ⑬信長は、清潔な人だった。
  潔癖主義者的な人物だったのだろう。

   彼は自邸においてきわめて清潔であり、

 ⑭信長は、完璧主義者。

   自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、

 なかなか、気難しい性格である。
 この様な信長の期待に、見事に、応えたのが、光秀と秀吉の二人だった。

5/5

⑮信長は、冗漫を嫌った。
 せっかち・性急・気が短い。

  対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、

⑯信長には、気さくな一面があった。
 話好きなのだろう。

  ごく卑賤の家来とも親しく話をした。

⑰信長の好むもの。

  彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、
  目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ
  好んだ。

⑱信長は、用心深い。
 注意深い→疑い深い→猜疑心が強い。

  何ぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。

⑲信長は、人の心を引きつけた。
 カリスマ性があった。→⑦

  彼は少しく憂鬱な面影を有し、
  困難な企てに着手するにあたってははなはだ大胆不敵で、
  万事において人々は彼の言葉に服従した。
                       【重史146】『日本史』

以上、①~⑲。
これで、信長の輪郭が見えて来た。

結論

光秀は、信長の性格を知り尽くしていた。
「打てば響く」
信長は、大いに気に入った。
そして、抜擢。
以後、光秀は、出世街道を駆け上る。

すなわち、
信長の性格が、光秀の意志決定に大きな影響を及ぼしていた。

特に、以下の部分に注意!!

信長は、典型的な戦国武将。
猜疑心が強く、
執念深い。


信長は、専制絶対君主。
誇り高い男である。

信長は、目的意識が強い。
信念の人。

信長は、合理主義者。


信長は、完璧主義者。


信長は、せっかち・性急・気が短い。

結果として、
これらが、ベースとなり、
光秀を、最終局面に追い込むことになる。

光秀の心理面に大きなプレッシャーを与えていた。

そして、ついに、その限界を突破する日がやって来る。
それが、天正十年1582六月二日だった。

すなわち、
信長自身の性格そのものが、
「本能寺の変」を引き起こす大きな原因の一つになった、
と言える。



 ⇒ 次へつづく


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