本能寺の変1582 【重史140】 『日本史』 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史140】 『日本史』
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 251218
【重史140】
①司祭が都に到着して三日を経、
②和田殿は、司祭が信長の許へ伺候する準備整えた。
③信長は、邸の奥に入っていて、音楽を聞いていた。
④信長は、贈物を見た後、ビロードの帽子だけを受理した。
⑤幾千里もの遠国から、はるばる日本に来た異国人たちを、
『日本史』
永禄十二年1569、三月十三日。 156900313
フロイスは、都を逐われて、堺にいた。
フロイスの人物像については、・・・・・。
【 人物 】 【重史014】 ◎第7話 第7話
フロイスは、信長に謁見するため、京へ向かった。
和田惟政が、これを仲介した。
三月九日。
堺を出発。
富田着。
同十日。
芥川城着。
同十一日。
入京。
和田惟政は、近江甲賀の人。 【 人物 】
享禄三年1530の生れ。
義昭の側近。
伊賀守。
義昭の上洛・幕府再興の時、細川藤孝とともに、奔走した。
その功により、摂津三守護の一人に任じられる。
芥川城→高槻城を居城とした。
元亀二年1571、荒木村重との戦いで敗死(白井河原の戦い)。
子に、惟長がいる。
これが、信長とフロイスの初接触である。
同十三日。
謁見の日。
司祭が都に到着して三日を経、
和田殿は、司祭が信長の許へ伺候する準備整えた。
司祭(フロイス)は、贈物として、
非常に大きいヨーロッパの鏡・美しい孔雀の尾・黒いビロードの
帽子、およびベンガル産の籐杖を携えたが、
それらすべては日本にはない品だったからである。
信長は、邸の奥に入っていて、音楽を聞いていた。
彼は、司祭を接見して、ゆっくり彼と語りたかったのであろうが、
初回には、あることを考慮して、そうしようとしなかった。
(『日本史』)
信長は、フロイスを、引見すれども、近寄せず。
信長は、フロイスとの間に、家臣らを置いて、距離をとった。
「観察」するのみ。
そこに、会話は、なかったという。
信長は、(彼の前に)立っている若い武士らの間から、
司祭を観察していた。
そして、二人の司令官、佐久間(信盛)殿と和田殿をして、
豊富に各種の料理が配列された大きい食膳を供させ、
何か手をつけるようにと督促した。
司祭がしばらくそこにおり、信長は、贈物を見た後、
その三つを司祭に返し、ビロードの帽子だけを受理した。
(『日本史』)
初回は、これだけで終わった。
これが、その理由である。
その後、信長は、この二人の司令官に対し、
「予が伴天連を親しく引見しなかったのは、他のいかなる理由からで
もなく、
実は、予は、この教えを説くために、幾千里もの遠国から、
はるばる日本に来た異国人たちを、どのようにして迎えてよいのか
判らなかったからであり、
予が単独で伴天連と語らったならば、世人は、予自身もキリシタン
になることを希望していると考えるかも知れぬと案じたからであ
る」、と述べた。
(『日本史』)
なお、二回目の面会については、【重史141】を参照。
有名な場面である。
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