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本能寺の変1582 【四国問題 概要】 八 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【四国問題 概要】 天正八年1580

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

天正八年1580

本願寺の降伏

閏0307 本願寺が降伏した。               【重史219】

 0409 顕如が石山の地を去った(雑賀へ) 。        【重史220】

秀吉の台頭1
秀吉の躍進がめざましい。

 0424 秀吉は、播磨・但馬、二ヶ国を平定した。     【重史223】

    秀吉の名は、周辺諸国へ鳴り響いた。
    秀吉は、これを巧みに利用する。
    すなわち、「調略」・・・・・。 

    秀吉は、ようやく、光秀に追いついた。
    
ここから、である。
    秀吉の快進撃が始まった。

 0606 秀吉は、因幡・伯耆の国境まで進出した。    【重史224】

    信長の勢威、恐るべし。
    戦わずして、勝つ。
    
秀吉は、光秀に、一歩先んじた。

信長の停戦命令

 0612 信長は、長宗我部元親に三好との和睦を命じた。 【重史152】

    信長は、元親の拡大戦略に歯止めをかけた。
    元親の夢=「四国統一」は、否定された。

    信長は、絶対専制君主。
    誇り高い男。
    逆らう者は、容赦しない。   【信長の人物像】 信03 信09

 0614 三好康長は、三好の新当主。    
    以後、この康長が「阿波の儀」に関与する。   【重史153】

光秀は、粛清を怖れていた。

 0802 本願寺、退城。                【重史222】
    多くの牢人たちが、阿波へ逃げ込んだ。

 08** 戦いが終われば、粛清が始まる。        【重史163】

    斯くして、佐久間信盛の粛清は完了した。    【重史172】

    用が済めば、粛清される。
    役に立たねば、粛清される。
    邪魔になれば、粛清される。

    光秀の脳裏から、このことが離れない。

信長は、阿波派兵を計画していた。
先ずは、状況確認。

 1124 元親は、秀吉とも接触していた。        【重史185】

    信長は、三好康長を讃岐(阿波)へ派兵しようとしていた。
                           【重史187】

    信長は、西方へ制海権を拡大しようとしていた。
    秀吉は、淡路島の野口長宗(水軍衆)を調略した。
    元親は、淡路島に野心を抱いていた。
    秀吉は、このことを信長へ。
    信長は、元親の野心を知っていた。       【重史188】

    元親と秀吉の間を、斎藤利三が仲介していた。  【重史189】

 1225 信長と元親の関係は、まだ、良好だった。
                    【重史186】「土佐国蠧簡集」

この年、光秀に、特に、目立った活躍はない。



 ⇒ 次へつづく


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