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本能寺の変1582 【重史153】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史153】 「古証文」 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【重史153】 そ第11⑩01

①爾来(じらい=以来)、申し承らず候、

②仍って、阿刕(あしゅう=阿州)表の儀に就きて、

③信長より、朱印を以って、申され候、

                        「古証文」


 天正八年1580、六月十四日。
             158000614

  三好康長は、三好の新当主。
  
信長が、その様に仕立て上げた。
  同十四日
  以下は、十二日付信長書状【重史152】に対する三好康長の副状で
  ある。
  「信長より、朱印を以って、申され候」、とある。
  すなわち、上意(信長の命)。

  三好の新当主(康長)から、長宗我部元親への、挨拶状である。
  「これからは、仲良くしよう」
  と、いうこと。                    
  
   爾来(じらい=以来)、申し承らず候、
   仍って、阿刕(あしゅう=阿州)表の儀に就きて、
   信長より、朱印を以って、申され候、

   向後は、別して、御入眼(=成就)、快然たるべき趣、
   相心得申すべき旨に候、

   隨って、同名式部少輔の事、一円若輩に候、
   殊更、近年忩劇(そうげき=合戦)に就きて、無力の仕立候条、
   諸事、御指南、希う所に候、

   弥(いよいよ)、御肝煎(きもいり)、我等に於ても珍重たるべく候、
   恐々謹言、
             三好山城守
    六月十四日      康慶(花押)
     香宗我部安芸守殿
             御宿所
                 (「古証文」「織田信長文書の研究」)

  最早、三好は、敵にあらず。
  信長は、長宗我部元親に、天下統一のために、三好康長とともに、
  力を合わせて、尽力せよ、と、命じている。

  元親の夢は、潰えた。
  承諾は、それを意味する。
  だが、しかし、
  拒否すれば、・・・・・。


 【引用】 そ第11⑩01 ◎第50話④ 第50話


 【参照】【四国問題】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582



 ⇒ 次へつづく

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