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本能寺の変1582 【四国】 十 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【四国問題】 天正十年1582

はじめに ←目次 
【重要史料】  【重史一覧】
 
【四国問題】    目次 【四国問題 概要】   十
 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
 【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
 
【信長という男】 1/5 2/5 3/5 4/5 5/5 結論 【重史146】
 【5月26日】 【5月27日】 【5月28日】 【5月29日】 ←
重要 ◎目次 
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】
 【信長の人物像】 6 7 8 9 10 【重史146】
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 250922 251001 251011

【四国問題】 天正十年1582

 目次

一月十一日 【重史174】           ✓ 天正10 158200111
信長は、元親に朱印状を送った。

信長は、己の命に従わぬ者を容赦しない。
「阿波南郡半国」を取り止めた。
元親には、「土佐一国」のみとした。


  ①空然(石谷光政) 人々御中
  ②尚々、御朱印の趣も、元親御ため、然るべく候、
  ③始末、然るべく様に、万事、御異見、尤もに、存じ候、
                           「石谷家文書」

 【参照】
    【重史181】 阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし
    【重史213】 阿・讃の儀、三好山城守、弥、仰せつけられ候、
    【重史012】 其外両国の儀、信長、淡州に至って出馬の刻~
    【重史042】 ~うしきの城・仁宇南方、残らず明け退き申し候、

二月一日 【重史046】            公 天正10 158200201
木曾義昌が裏切った(武田→織田)。

二月三日 【重史046】            公 天正10 158200203
信長は、出陣命令を下した。
「甲斐へ」
攻め口は、四つ。

信忠を総大将とする先陣部隊が出発した。

  ①二月朔日、信州、木曾義政御身方の色を立てられ候
  ②二月二日、武田四郎父子・典厩(武田信豊)、木曽謀叛の由承り、
  ③二月三日、信長公、諸口に出勢すべきの旨、仰せ出だされ、
  ④二月三日、三位中将信忠・森勝蔵・団平八、先陣として、
                           『信長公記』

二月九日 【重史047】           公 天正10 158200209
信長は、甲斐出陣にあたり、十一ヶ条の条書を発した(①~⑪)

三好康長は、四国へ出陣すること。
光秀は、出陣すること。


  ①二月九日、信長公、信濃国に至りて御動座なさるべきについて、
  ②三好山城守、四国へ出陣すべきの事。
  ③惟任日向守、出陣の用意すべき事。
                            『信長公記』

三月五日 【重史034】           公 天正10 158200305
信長は、安土を発った。

  三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。
                            『信長公記』

三月十一日 【重史170】           公 天正10 15600311
武田勝頼の最期。

  ①三月十一日、武田四郎父子、簾中、一門、
  ②こがつこ(駒飼)の山中へ引籠らるゝの由、
  ③三月十一日、巳の刻、各、相伴、討死なり。
  ④四郎父子の頸、滝川左近かたより、三位中将信忠卿へ、
  ⑤関可平次・桑原助六両人にもたせ、信長公へ御進上候。
                            『信長公記』

3月17日 【重史018】           ✓ 天正10 158200317
信長は、己の勢威の強大さに驚いた。

  ①穴山、忠節を抽んずべきの条、朱印をなし、
  ②去る十一日四郎父子を討ち捕り、首到来候、
  ③典厩(信豊)の事、是も首到来、
  ④四郎の弟仁科五郎、是も首到来候、
  ⑤甲州の歴々の者ども、大略首を刎ね候、
  ⑥尾濃の浪人、土岐美濃守(頼芸)を始め、岩倉・犬山等、
  ⑦卅日・四十日際(きわ)に、一偏に属するの事、
   我ながら驚き入る計りに候、
                          「武家事紀」1/2

信長は、絶対的な武力を手に入れた。    →そ第74話② ◎第66話 66
「戦わずして、勝つ」
これが、武田効果

信長は、絶大な自信=確信を持った。    →そ第74話② ◎第66話 66
「天下布武」は、成る。

光秀は、武田の滅びゆく姿をその目で見ていた。 →◎第115話  第115話
それ故、知っている。
信長の心の内を。

中国の事。
急に、慌ただしくなって来た。
   
安芸の毛利。
これとて、武田に同じ。
二の舞となる。
さ程、時間はかかるまい。
「天下布武」は、成る。

ならば、・・・・・。

 【参照】3光秀と光慶 (2)光秀の年齢 4光秀、最大の敵
     そ第74話② 武田効果 

 【参照】10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣 ◎第66話 66
     信長は、わずか一月で四ヶ国を手に入れた。
     「長篠効果」「本願寺効果」「武田効果」

 【参照】14 信長の甲斐侵攻 5潮目の変化 ◎第115話  第115話

 〃 〃 【重史019】            ✓ 天正10 158200317
信長の強大さは、瞬く間に、諸国に知れ渡った。
抗えば、滅す。
「あの武田が、・・・・・」
中国 毛利は、戦慄した。
四国 長宗我部、これに同じ。

  ⑧相州氏政、駿河へ在陣にて、一廉(ひとかど)馳走候、
  ⑨甲斐・信濃の事、城介を残し置き申し付くべき候、
  ⑩路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、
  ⑪京都・五畿内、並に、羽柴藤吉郎方迄、残らず相触るべく候、
                          「武家事紀」2/2

光秀は、現役の戦国武将。
⑩老足(老人)では、ない。
光秀の生年は、大永四1524±四年ぐらい。
光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。

 【参照】3光秀と光慶 (2)光秀の年齢 5結論 そ第77話
 【参照】11光秀の年齢 5結論 ◎第77話

4月21日 【重史035】          公 天正10 158200421
信長は、安土に凱旋した。
途中、各所で、大勢の家臣らの出迎えをうけた。

  ①四月廿一日、濃州岐阜より安土へ御帰陣のところに、
  ②ろくの渡りにて、御座船飾り、
  ③捶井(垂井)に御屋形立ておき、
  ④今洲(今須)に御茶屋立てて、
  ⑤柏原に御茶屋拵らへ、
  ⑥佐和山に御茶屋立て、
  ⑦山崎に御茶屋立ておき、
  ⑧京都・堺・五畿内、隣国の各(おのおの)、はるばる罷り下り、
  ⑨御陣御見舞の面々、門前市をなす事に候。
  ⑩路次中、色々進物、員(かず)を知らず上覧に備へ、
  ⑪誠に、御威光有りがたき御代なり。
  ⑫四月廿一日、安土に御帰陣。
                           『信長公記』

さながら、雲の上を歩むが如し。
心地いい。
勝利の余韻が、まだ、尾を引いていた。

安土城は、新緑の中に聳え立つ。

4月24日 【重史036】          ✓ 天正10 158200424
そもそも、中国出陣は、「来る秋」のはずだった。
なれど、信長は、待ちきれず・・・・・。

  ①中国進発の事、来秋たるべきの処、
  ②小早川、備前児嶋より敗北せしめ、備中高山に楯籠るの間、
  ③羽柴藤吉郎、出陣せしめ取巻くの由、注進候、
  ④重ねて、一左右次第、出勢すべく候、
  ⑤猶、惟任日向守、申すべく候也、
                           「細川家文書」

秀吉の役目は、毛利の本軍を誘き出すこと。
早速、注進あった。

小早川隆景の軍勢が、近くの高山に着陣。
秀吉、これと対峙。

吉川元春、未だ、現れず。
毛利輝元、同。

信長は、動かず。
「引きつけよ」
出陣のタイミングを窺っていた。

次の報せを待つ。

中国出陣の日は、近い。
信長は、光秀と細川藤孝に、出陣の準備を命じた。

石谷頼辰は、土佐へ向かっていた。
おそらく、未だ、到着していない。

光秀の心中や、如何に・・・・・。
光秀は、信長の、当初の言を受けて、それに合わせて、行動していた。
「中国進発の事、来秋たるべきの処」

光秀は、出来る男。
キレ者である。
もちろん、十分な余裕を持って。

ところが、事態急変。
大幅に、早まることに。
おそらく、二ヶ月程も・・・・・。

となれば、頼辰は、間に合わぬ・・・・・。

5月7日 【重史012】           ✓ 天正10 158200507
信長は、三男信孝に、四国への出陣を命じた。

  ①今度、四国に至って差し下すに就きての条々、
  ②讃岐国の儀、一円、其方に申し付くべき事、
  ③阿波国の儀、一円、三好山城守 (康長) に申し付くべき事、
  ④其外両国の儀、信長、淡州に至って出馬の刻、
  ⑤万端、山城守に対し、君臣父母の思いをなし、
  ⑥天正十年五月七日  ( 朱 印 ) 三七郎殿 
                       「寺尾菊子氏所蔵文書」

〈解釈〉
  ①四国出陣にあたって 心得
  ②讃岐は、一国すべて、信孝に与える。
  ③阿波は、一国すべて、三好康長に与える。
  ④伊予・土佐については、信長が淡路島に着いてから決める。
  ⑤信孝は、三好康長の養子=三好の後継者である。
  ⑥子を思う父の姿である。

信長は、信孝に、讃岐と阿波 二ヶ国を与えた。         ②③⑤
期待していたのだろう。

信長は、長宗我部元親の「阿波南郡半国」を取り止めた。       ③
「阿波国の儀、一円、三好山城守 (康長) に」とある。

 【参照】 【重史181】 阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし

土佐については、未定である。                  ④
これには、「元親」の名が記されていない。
保留=未決ということ。

元親の諾否、明らかならず。
ただただ、時間が経過するのみ。

信長は、忍耐強い。
なれど、・・・・・。
「危うい」
きわめて、流動的な状況になって来た。

間に合わねば、光秀の責任問題となる。
光秀は、元親の取次。
当然である。

となれば、・・・・・。
光秀は、信長の「信」を失う。
「出来る男」から、一転、「出来ぬ奴」へ。

すなわち、失脚。
明智は、没落する・・・・・。

光秀が、何よりも怖れること。

信長は、合理主義者。
無駄を嫌う。
その上、疑い深く、執念深い。

光秀は、「高齢」+「役に立たぬ」・・・・・。

なれど、直ぐにでは、ない。
「天下布武」=日本統一の成った後。
「さらなる夢」
それも、ある。
戦いは、終わらず。
使えるだけ、使った後。
・・・・・。

信長は、恐ろしい男。
不意を衝く。
「災いは、いつ来るのか、わからない」
信長に、口実を与えては、ならぬのである。

そもそも、光秀と元親の関係は、斎藤利三から始まった。

 【重史179】 天正06 1026
   ③次に、字(あざな)の儀、信を遣はし候、「土佐国蠧簡集」

 【重史180】 天正06 1026
   ②明智殿御内、齋藤内蔵助は、元親卿には小舅になるなり「元親記」

 【人物】
   斎藤利三     ◎第57話② →石谷頼辰
   石谷氏      ◎第57話② ◎第146話① ◎第146話②
   石谷光政     第143話 ◎第57話② 【重史174】
   石谷頼辰     第143話 ◎第57話② そ第11話㊴ そ第11話㊵                             

利三は、元親との問題に責任を痛感していた。
おそらく、そうだったと思う。

光秀は、利三を守らねばならなかった。
嫡男光慶は、まだ若い。
若すぎた。
利三は、明智の将来のために、欠くことの出来ぬ人物。
光秀にとって、家臣は「宝」なのである。

利三の年齢は、よくわからない。
だが、その娘 お福=後の春日の局(第三代将軍 徳川家光の乳母)の生年は、
天正七年1579とされる(「国史大辞典」) 。
したがって、山崎の合戦時=天正十年1582は、4歳。
また、この戦いに参戦した兄がいたらしい。
とすれば、少なくとも14~5歳年長。
これらのことから、大雑把であるが、利三の年齢は、40代前半ぐらい
だった、と考える。
如何、だろうか。

 【参照】3光秀と光慶
   そ第75話 光秀の老いと光慶 国替え
   そ第76話 最大の敵 光慶 後継問題

   そ第6話② 光秀は、大きな悩みを抱えていた。
   そ第7話① 1光秀は、高齢だった。
   そ第7話② 2嫡男光慶は、若すぎた。
   そ第7話③  他に光慶が登場する場面 史料
         3光秀は、明智の将来に不安を感じていた。
          1時代の風潮
          2信長の猜疑心
          3粛清 の怖れ  光秀は、粛清を怖れていた。

光秀は、追い込まれた。
心の内は、焦燥感の中。
なれど、表には出さず。
平静を装う。

頼みの綱は、石谷頼辰。
土佐は、僻遠の彼方。
今頃は、・・・・・。
早い帰還を祈るのみ。

 【参照】【四国問題】  5月17日
     そ第78話⑨ そ第11⑩02 ◎第147話② 第147話

5月11日 【重史225】          公 天正10 158200511
信孝は、四国渡海の準備に入った。
「阿波国、神戸三七御拝領の事」

 ①四国阿波国、神戸三七信孝へ参らせられ候につきて、
 ②五月十一日、住吉に至りて御参陣。
 ③四国へ渡海の舟ども、仰せ付けられ、其の御用意、半に候。
                           『信長公記』

信孝は、阿波・讃岐 二ヶ国の新たな国主となる。

 【参照】【重史012】②讃岐国の儀、一円、其方に申し付くべき事、

信長は、未だ、土佐の国主(くにぬし)を決めていない。
「信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事」
淡路島にて、決める、と言っている。

元親を取り巻く状況は、悪化の一途を辿っていた。 
故に、間に合ったとしても、「土佐一国」。
それ以上は、有り得ない。

 【参照】ポ02② ポ02③ 【重史012】 

信長は、誇り高い男。
己の命に従わぬ者には、容赦しない。

 【参照】【信長の人物像】 信03

元親は、土佐を失う可能性すらあった。
間に合わなければ、さらなる減封。
最悪、「没収」も有り得た。
信長は、元親の名を記せず。
となれば、国主は、余人。
そういうこと、である。

信長は、待った。
「なれど、遅い」
遅すぎた。

 【参照】ポ02③ 【重史012】

石谷頼辰は、未だ、帰らず。
このままでは、失敗。
光秀は、信長の「信」を失う。
・・・・・。 

信長は、何も言わず。
容赦なく、時は流れて行く。

信長は、執念深い。
このことを、決して、忘れない。

 【参照】【信長の人物像】 信03

5月12日 1/7 【重史052】         公 天正10 158200512
                  1/7 2/7 3/7 4/7 5/7 6/7 7/7
この日が、信長の誕生日である。
フロイスは、六月二日(本能寺の変)の十九日前と言っている。
五月は、小の月(二十九日まで)。
逆算すれば、そうなる。

 ①彼の生まれた五月の日に
 ②己の神体を拝むことを命じた。
 ③信長がかくの如く驕慢となり、
 ④祭りを行った後十九日を経て、
 ⑤その体は塵となり灰となって地に帰し、
 ⑥その霊魂は地獄に葬られた‥‥(略)。
                      「イエズス会日本年報」

信長は、天文三年1534の生れ。
この年、四十九歳。

来たる年、五十歳になる・・・・・。

 〃 〃 2/7 【重史169】
「人間五十年、下天の内をくら(比)ぶれば」        
 
信長は、幸若舞を好んだ。
特に、「敦盛」の、この一節。      

  ①人間五十年、
  ②下天の内をくら(比)ぶれば、
  ③夢幻の如くなり、
  ④一度生を得て、滅せぬ者の有るべきか、
                            『信長公記』

余程、気に入ったのだろう。
『信長公記』には、二度出てくる。
ともに、首巻。              →【信長の人物像】 信05

信長は、目的意識の強い男。
この「五十年」を強く意識していた。

そのことが、信長に先を「急」がせた。

信長は、時間と戦っていた。
前を見れば、後ろは見えず。

信長は、急いだ。 
否、急ぎすぎた。

それが、「焦り」となり、
そこに、「隙」が生じた。
 
これすなわち、「油断」。
「五十年」→「急がねばならぬ」→「焦り」→「隙」=「油断」

光秀は、これを見逃さず。
そこを衝いた。

信長、一歩及ばず。
立ち上る煙とともに、天空の彼方へ。
戦国の世は、無情なり。

それが本能寺の変である。

そして、・・・・・。

 〃 〃 3/7 【重史008】
信長には、「さらなる夢」があった。

フロイスは、このことを確りと書き留めている。

  ①一大艦隊を編成してシナを征服し、    「イエズス会日本年報」
  ②一大艦隊を編成して、シナを武力で征服し、       『日本史』

世界は、大航海時代。
当時、イエズス会は、積極的に、中国=明(1368~1644)へ、
布教を拡大しようとしていた。
背景には、ポルトガルの野望があった。

信長の目は、海外を見ていた。
信長は、フロイスら、イエズス会の宣教師たちから大きな刺激を受けた。
激動する世界の情勢等々。
様々な知識を得た。
そして、覚醒。
「明」
信長の思いは、東シナ海の向こう側にあった。

これが、信長の志向である。
①「シナを征服し」
②「シナを武力で征服し」
と、ある。

結局、信長の拡大政策は、止まず。
戦いは、まだまだ、つづく。

そういうこと、である。

なれど、・・・・・。

光秀は、高齢。                     →そ第7話①
嫡男光慶は、若すぎた。                 →そ第7話②光秀は、五十九±四歳ぐらい。               →そ第77話
光慶は、13歳。              →そ第7話② 【重史014】
まだ、元服前である。

光秀は、明智の将来が不安だった。   →3光秀と光慶 (3)光秀の嫡男
五年後。
光秀は、六十四±四歳ぐらい。
光慶は、18歳。

その時、
果たして、己は、生きているのだろうか。
光慶は、まだまだ未熟。
・・・・・。
これでは、死んでも死にきれぬ。

だが、・・・・・。

信長は、きわめて壮健。
信忠は、申し分なき後継者。

信長は、四十九歳。
信忠は、二十六歳。                   →【 人物 】

五年後。
信長は、五十四歳。
バリバリの現役。
信忠は、三十一歳。
正に、いよいよ、これから、という時期。

織田家は、安泰。
盤石の体制となっているであろう。

そればかりに、あらず・・・・・。

 〃 〃 4/7 【重史146】
これが、信長である (①~⑲) 。

  ①中くらいの背丈で、華奢な体軀であり・・・声は快調で、
  ②極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、
  ③名誉心に富み、正義において厳格であった。
   自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。
  ④幾つかのことでは人間味と慈愛を示した。
  ⑤彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。
  ⑥はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、
   非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。
  ⑦彼はわずかしか・・・家臣の忠言に従わず、
   一同からきわめて畏敬されていた。
  ⑧酒を飲まず、食を節し、
  ⑨人々は彼に絶対君主に対するように服従した。
  ⑩彼は、戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。
  ⑪彼は、善き理性と明晰な判断力を有し、
  ⑫神および仏のいっさいの礼拝、尊崇・・・の軽蔑者であった。
   霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。
  ⑬彼は自邸においてきわめて清潔であり、
  ⑭自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、
  ⑮対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、
  ⑯ごく卑賤の家来とも親しく話をした。
  ⑰愛好したのは・・・茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩・・・相撲
  ⑱何ぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。
  ⑲彼は少しく憂鬱な面影を有し・・・はなはだ大胆不敵で、
   万事において人々は彼の言葉に服従した。
                             『日本史』

②信長は、典型的な戦国武将。 ⑥⑩⑪⑰⑲
 「力こそ正義」
 軍事力の強化に、余念がなかった。

③信長は、誇り高い男。
 口答えなど、以ての外である。

⑤信長は、目的意識が強い。 ⑦⑪⑲
 
時間と戦っていた。

⑦信長は、信念の人。 ⑤⑪⑲
 
カリスマ性があった。

⑨信長は、絶対専制君主。 ③⑦

⑩信長は、忍耐強い。 ⑤⑦⑪
 粘り強く、執念深い。
 いつまでも、忘れない。

⑪信長は、理性的であり判断力に優れていた。⑭⑮⑱
 フロイスが、そう言っている。
 正に、つけ入る「隙」のない男。
 歴史上、空前絶後の人物だった。

⑭信長は、完璧主義者。 ⑤⑦⑩⑪

⑮信長は、冗漫を嫌った。 ⑤⑦⑪⑭
 性急・せっかちである。

⑱信長は、猜疑心が強く、用心深い。 ②⑤⑥⑪⑰⑲
 「隙」を見せぬ男なのである。

⑲信長は、人の心を引きつけた。 ⑦⑪
 カリスマ性があった。

信長は、合理主義者。⑮ ⑤⑦⑪⑭            →そ第7話⑥
無駄を嫌う。

「用が済めば」、捨てられる。
「役に立たねば」、捨てられる。

・・・・・。

 〃 〃 5/7 【重史240】
信長は、重臣といえども、容赦しない。
佐久間信盛を粛清した。

  1 父子、五ケ年在城の内に、善悪の働きこれなきの段、
  2 此の心持の推量、大坂大敵と存じ、武篇(武辺)にも構へず、
  3 丹波国、日向守が働き、天下の面目をほどこし候。
    次に、羽柴藤吉郎(秀吉)、数ヶ国比類なし。
  4 柴田修理亮、右の働き聞及び、一国を存知ながら、
  5  武篇道ふがひなきにおいては、
  6  やす田(保田安政)の儀、
  7  信長家中にては、進退各別に候か。
  8  小河(緒川)・かり屋(刈谷)、跡職申し付け候ところ、
  9  山崎申し付け候に、
  10 先々(先代)より、自分に拘(かか)へ置き候者どもに、
  11 先年、朝倉破軍の刻(きざみ)、
  12 甚九郎、覚悟の条々、書き並べ候へば、
  13 大まはしに、つもり候へば(大略を言えば)、
  14 与力を専(もっぱら)とし、
  15 右衛門与カ・被官等に至るまで、斟酌(遠慮)候の事、
  16 信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、
  17 先年、遠江へ人数を遣(つかは)し候刻(きざみ)、
  18 此の上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪ぎ、
  19 父子かしらをこそげ、高野の栖(すまい)を遂げ、
  抑(そもそ)も、天下を申しつくる信長に、
  口答申す輩(ともがら)、前代に始り候条、
                            『信長公記』

石山本願寺、退城。                  →【重史222】
その時の様子である。

  八月二日、未の刻(14時頃)、
  雑賀・淡路島より数百艘の迎へ船をよせ、
  近年、相拘(かか)へ候端城の者を初めとして、
  右往左往に、縁々を心懸け、
  海上と陸と、蛛の子をちらすが如く、ちり々々に別れ候。
                  (『信長公記』天正八年八月二日条) 

戦いが終われば、粛清が始まる。            →【重史163】
これが、戦国の世。

佐久間信盛を見よ!!                  →そ第7話⑥
信盛は、大坂攻めの総指揮官。
織田家の重臣筆頭者。  
大身であり、家中最大の軍事力を有していた。

粛清は、ある日、突然、訪れる。
信盛は、全く、予期していなかった。

信長は、最後まで、佐久間信盛を赦さなかった。
哀れな末路であった。           →【重史146】 【重史172】

信長は、絶対専制君主。            →【重史146】③ 信03
己が天下の支配者であることを強く意識していた。

信長は、誇り高い男。             →【重史146】③ 信03 
己に口答えする家臣を、決して、赦さない。

信長は、忍耐強く、執念深い。       →【重史146】⑩⑪⑰ 信10
根に持つタイプ。
後で、必ず、蒸し返す。

信長は、不意を衝く。
常套手段である。

・・・・・。

光秀は、信長の気性・性格等を知悉していた。
だからこそ、今がある。

光秀は、怖れていた。

  飛鳥尽きて、良弓蔵(かく)る、
  狡兎(こうと=うさぎ)死して、走狗(そうく=犬)烹(煮)らる、
                 →【重史009】(「史記」越王勾践世家)

用が済めば、粛清される。
役に立たねば、粛清される。
邪魔になれば、粛清される。

明日は、我が身。

・・・・・。

このことが、脳裏から、離れない。

 〃 〃 6/7                 ✓ 天正10 1582005**
信長は、大衆に強い人気があった。
「日本の人心を収攬し」「一般人民の心を収攬した」、とある。

  【重史235】
  ①信長が戦争においては怖(おそ)るるところなく、
  ②心寛(ひろ)く武略と生来の智慮を有するにより、
  ③常に日本の人心を収攬し、
  ④短き年月の間に五十余ヵ国をその支配の下に置き、
  ⑤日本の富と貴重なる物は悉(ことごと)く彼の所有に帰した。
  ⑥彼は益々その勢力と名声を現はさんため、
                       「イエズス会日本年報」

  【重史237】
  ①安土山・・・に・・・非常に立派なる城と宮殿とを建築した。
  ②主なる領主に妻子と共に同所に居住・・・することを命じた。
  ③都より安土山まで・・・に平坦な道を造り、両側に木を植え、
  ④絶えず戦争のあったこの諸国を・・・漸次平和に帰せしめた。
  ⑤高い税を・・・一切免除し・・・一般人民の心を収攬した。
                       「イエズス会日本年報」

 〃 〃 7/7 【重史236】          ✓ 天正10 1582005**
信長は、傲慢になっていた。
フロイスが、証人である。
余程、強い印象を受けたのだろう。
「傲慢」「驕慢」を多用している。

  ①彼(信長)は日本の王侯大身を悉(ことごと)く軽蔑した
  ②我等(イエズス会の宣教師)に対しては常に好意を示し、
  ③彼(信長)は数回説教を聴き、
  ④傲慢であるためデウスの御恵を受くることができなかった。
  ⑤謙遜することなく、かへって益々傲慢となり、
  ⑥ネブカドネザル(新バビロニアの王)の驕慢に倣ひ、
                       「イエズス会日本年報」

   【参照】【重史052】
       「かくの如く驕慢となり」
                      
(「イエズス会日本年報」)

5月15日 【重史226】          公 天正10 158200515
徳川家康が、安土に到着した。
信長は、これを大いに歓待した。
宿所は、大宝坊。

  ①駿河・遠江両国、家康公へ進らせらる。
  ②其の御礼として、徳川家康公幷びに穴山梅雪、今度、上国候。
  ③五月十四日、ばんばまで、家康公・穴山梅雪、御出でなり。
  ④同日に、三位中将信忠卿、御上洛なされ、ばんば御立ち寄り、
  ⑤五月十五日、家康公、安土に至りて御参着。
  ⑥御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、
  ⑦十五日より十七日まで、三日の御事なり。
                           『信長公記』

接待役は、明智光秀。
この日から十七日までのこと。

五月中頃 「足蹴事件」 目次         ✓ 天正10 1582005**
1/3 【重史040】

ここで、事件が起きた。

「密室」、とある。

  ①三河の国主(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために
   饗宴を催すことを決め、
  ②その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。
  ③これらの催し事の準備について、
  ④信長は、ある密室において、明智と語っていた
  ⑤元来、逆上しやすく、
  ⑥反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、
  ⑦彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、
  ⑧信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にした
                             『日本史』

信長は、絶対専制君主。                →【重史146】
きわめて、誇り高い男。

信長は、逆上しやすく、
自らの命令に対して、反対意見を言われることに堪えられない性格だった。このことを、他の、誰よりも、よく、知っていたのが光秀だった。


佐久間信盛を見よ!!                 →【重史240】
「朝倉破軍の刻」
信盛は、それを軽んじたが故に、粛清された 。

だが、光秀は、甘かった。
否、そうする他、術はなかった。
おそらくは、土佐 長宗我部の一件・・・・・。

それが、「油断」。
と、いうことなのだろう。

  人々が語るところによれば、
  彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、

その一言が、信長の逆鱗に触れた。

  信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたとい
  うことである。
                            (『日本史』)

フロイスは、イエズス会の宣教師。      →【人物】 【重史014】
信長の身近に、同会の関係者がいたらしい。
おそらくは、黒奴「弥助」・・・・・ (「松平家忠日記」) 。  
弥助は、「本能寺の変」を生き延びた。
捕縛され、京の南蛮寺へ。
           →「イエズス会日本年報」天正十年十月二十日付

2/3 【重史041】

しかし、この事件が、世間に知られることは、なかった。

  ①それは密かになされたことであり、二人だけの間の出来事であった
  ②後々まで民衆の噂に残ることはなかった
  ③明智は、何らかの根拠フンダメントを作ろうと欲した
  ④過度の利欲と野心が募りに募り、
  ⑤それが天下の主になることを、彼に望ませるまでになった
  ⑥企てた陰謀を果たす適当な時期を、ひたすら窺っていた
                             『日本史』

フロイスは、このように見ていた (1~4) 。

1この事件が、「本能寺の変」のきっかけになった。

  あるいはこのことから、
  明智は、何らかの根拠フンダメントを作ろうと欲したかも知れぬし、

2光秀は、野心家。

3光秀は、天下を欲していた。

  あるいは〔おそらくこの方がより確実だと思われるが〕、
  その過度の利欲と野心が募りに募り、ついには、それが天下の主になる
  ことを、彼に望ませるまでになったのかもしれない。

4光秀は、計画的だった。
 誰にも、胸中を明かさず。
 ベストタイミングを窺っていた。

  ともかく、彼はそれを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果たす適当な
  時期を、ひたすら窺っていたのである。
                            (『日本史』)

3/3

光秀は、信長を怖れていた。             →5月12日 5/7

信長は、典型的な戦国武将。             →5月12日 4/7
猜疑心が強い。

信長は、執念深い。               →5月12日 4/7 5/7
根に持つタイプ。
後で、必ず、蒸し返す。

信長は、絶対専制君主。
天下の支配者であることを強く意識していた。

信長は、誇り高い男。 
口答えする家臣を、決して、赦さない。

信長は、合理主義者。                →5月12日 4/7
無駄を嫌う。

信長は、不意を衝く。                →5月12日 5/7
粛清は、ある日、突然、訪れる。
「常套手段」
恐ろしい男なのである。

佐久間信盛を見よ!!                →5月12日 5/7
信盛は、大坂攻めの総指揮官。
織田家の重臣筆頭者。  
大身であり、家中最大の軍事力を有していた。

信長は、重臣といえども、容赦せず。
信盛を粛清した(天正八年1580、八月)。

光秀は、信長の気性・性格を知悉していた。       →5月12日 5/7
それ故、今がある。

「狡兎死して、走狗烹(煮)らる」 

用が済めば、粛清される。
役に立たねば、粛清される。
邪魔になれば、粛清される。


戦いが終われば、粛清が始まる。
明日は、我が身。

このことが、脳裏から、離れない。
・・・・・。

そこに、「足蹴事件」が起きたのである。        「足蹴事件」1/3
信長は、傲慢になっていた。       5月12日 7/7 【重史236】
ついに、本性を現した。
=「隙」を見せた。
これすなわち、「油断」。
・・・・・。

信長は、合理主義者。
この時は、光秀を赦した。
光秀は、役に立つ男。
「中国出陣」
「さらなる夢」
・・・・・。

佐久間信盛との違いである。

光秀は、出来る男。
キレ者である。

この瞬間を見逃さない。

光秀は、信長の心底を見た。
否、確認した=見極めた。
そういうことになる。

そして、・・・・・。

光秀の心は、信長から、離れた。
おそらく、このタイミングだろう。

ならば、・・・・・。
その前に、・・・・・。

この事件が、「本能寺の変」の一因になった。     →「足蹴事件」2/3
わずか、その十数日前の出来事。

光秀は、計画的だった。
誰にも、胸中を明かさず。
そのタイミングを窺っていた。

全ては、明智のため。
光慶のため。
子らのため。
生き残るために。

信長は、天下人。
光秀は、その信長を討った。
結果、天下が転がり込んで来た。
それだけのことである。

従って、
光秀は、天下を望んだが故に、謀叛を起こしたわけではない。

天正八年~十年の動きを見れば、その事がよくわかる。
光秀は、そのための準備を一切していない。
また、己の年齢・後継者 光慶のこと、家中の体制等を考慮すれば、時間的にも、物理的にも、無理があると思う。

五月中頃 【重史227】            ✓ 天正10 1582005**
備中高松城

秀吉は、備中高松城を水攻めにしていた。
「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるゝ事」

  ①中国備中へ、羽柴筑前守相働き、
  ②高松へ取り詰め、水攻めに申しつけられ候。
  ③芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。
  ④今度、間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候間、
  ⑤中国の歴々討ち果たし、
  ⑥九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、
  ⑦ 惟任日向守・長岡・・・、 先陣として、出勢すべきの旨、
                           『信長公記』

そこに、毛利の本軍が現れた。
「芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり」
秀吉より、信長へ。
注進あり。

信長は、この好機を逃さない。
「今度、間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候」
即座に、決断した。

信長の脳裏には、武田の最期。       →3月17日 【重史018】
勝頼の首。
「武田効果」

 卅日・四十日際(きわ)に、一偏に属するの事、
 我ながら驚き入る計りに候、
                            「武家事紀」

「戦わずして、勝つ」
信長は、絶対的な武力を手に入れた。

信長は、毛利を滅ぼすつもりだった。
武田の二の舞。
内側から、崩れる。
「中国の歴々討ち果たし」
さすれば、
「天下布武」=日本統一は、成る。

信長は、そう思っていた・・・・・。

信長は、さらに、九州を平定しようとしていた。
最早、盾つく者など、誰もいない。
「九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨」

光秀は、このことを知っていた。
ならば、
出陣の前・・・・・。
上洛の時・・・・・。

信長は、光秀に、中国出陣を命じた。
「惟任日向守・長岡・・・、先陣として、出勢すべきの旨」

5月17日 【重史029】           公 天正10 158200517 訣別の日。
饗応役、解任。
光秀は、中国出陣のため、坂本城に帰った。
この日が、信長との最後の日となる。 

  五月十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、
                            『信長公記』

光秀の心は、重く沈んでいた。

一、「足蹴事件」                    1/3 2/3 3/3

  その一言が、信長の逆鱗に触れた。               1/3
  信長は、誇り高い男。                     3/3
  己に口答えする家臣を、決して、赦さない。
  この事件が、「本能寺の変」の一因になった。          2/3  

一、土佐 長宗我部の問題。          0111 0507 0511 0521

  間に合わねば、・・・・・。
  これすなわち、失敗。
  光秀の責任問題となる。

  【参照】天正九年1581 後半 【重史181】 【重史190】

一、光秀の年齢、嫡男光慶のこと。             0512 3/7

  光秀は、高齢。                    0512 3/7
  嫡男光慶は、若すぎた。

  光秀は、五十九±四歳ぐらい。
  光慶は、13歳。
  まだ、元服前である。

光秀は、明智の将来が不安だった。             0512 3/7
五年後。
「天下布武」=日本統一が成り、安定期に入った頃。
信長の、「さらなる夢」への挑戦が、始まる。
その時、
光秀は、六十四±四歳ぐらい。
光慶は、18歳。

果たして、己は、生きているのだろうか。
光慶は、まだまだ未熟。

これでは、死んでも死にきれぬ。
・・・・・。

光秀は、出来る男。 
キレ者である。
先を、見通していた。

光秀は、粛清を怖れていた。              「足蹴事件」3/3

信長は、典型的な戦国武将。
猜疑心が強い。

信長は、執念深い。
根に持つタイプ。
後で、必ず、蒸し返す。

信長は、絶対専制君主。
天下の支配者であることを強く意識していた。

信長は、誇り高い男。 
己に口答えする家臣を、決して、赦さない。

信長は、合理主義者。
無駄を嫌う。

信長は、重臣といえども、容赦しない。

佐久間信盛を見よ!! 
信盛は、大坂攻めの総指揮官。
織田家の重臣筆頭者。  
大身であり、家中最大の軍事力を有していた。

信長は、不意を衝く。
常套手段である。
粛清は、ある日、突然、訪れる。
恐ろしい男なのである。

光秀は、信長の気性・性格を知悉していた。       「足蹴事件」3/3
それ故、今がある。

「狡兎死して、走狗烹(煮)らる」 

用が済めば、粛清される。
役に立たねば、粛清される。
邪魔になれば、粛清される。

戦いが終われば、粛清が始まる。
明日は、我が身。

・・・・・。

このことが、脳裏から、離れない。

石谷頼辰、未だ帰らず。
「一縷の望み」
ただただ、待つのみ。
そうする他、手がなかった。

なれど、間に合えば、また、流れが変わる・・・・・。

土佐は、僻遠の彼方。
片道だけでも、一ヶ月ほど時間を要した。
頼辰の着日は、
おそらく、月末・・・・・。
否、六月初め・・・・・。

 【参照】そ第78話⑨ そ第11⑩02 ◎第147話② 第147話

信長は、必ず、上洛する。
「信長、淡州に至って出馬の刻」、とある。     0507 【重史012】
ならば、その前。
この月末・・・・・。
光秀は、そう見ていた。

光秀は、肚を決めた。
間に合わぬ時は、・・・・・。

なれど、・・・・・。

5月19日 【重史228】          公 天正10 158200519 信長は、家康のために能舞を興行した。
「幸若大夫・梅若大夫の事」

  ①五月十九日、安土御山惣見寺において、
  ②幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、
  ③丹波猿楽 梅若大夫に能をさせ、
  ④家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、
  ⑤御桟敷の内、近衛殿(前久)・信長公・家康公・穴山梅雪・
  ⑥世間の褒貶(ほうへん)あるべきやの御思慮を加へられ、
                           『信長公記』

信長は、中国出陣を控えている。       備中高松城 【重史227】
気が立っていた。 

梅若大夫を折檻。

信長は、誇り高い男。          5月12日 4/7 【重史146】
世間の評判を気にした。

信長の目の前に、大きな誘惑がチラついていた。
毛利の動きが気にかかる。
「今度、間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候」
「中国の歴々討ち果たし」
「九州まで一篇に仰せつけ」         備中高松城 【重史227】

そこに、「隙」が生まれた。
これで、
「天下布武」は、成る。
・・・・・。

光秀は、これを見逃さない。
光秀は、坂本にいる。
信長は、
「急いておる」
そう、思った。
・・・・・。

5月20日 【重史229】          公 天正10 158200520
信長は、家康に対し、最上級の誠意を示した。
高雲寺御殿にて、饗応。
信長は、自らが、御膳を運び入れた。

  ①五月廿日、徳川家康公御振舞の御仕立て仰せつけられ、
  ②御座敷は、高雲寺御殿、
  ③家康公・穴山梅雪・石河伯耆・酒井左衛門尉、外、家老の衆
  ④忝くも、信長公御自身、御膳を居えさせられ、
  ⑤家康公御伴衆、上下残さず、安土御山へ召し寄せられ、
                           『信長公記』

5月21日 1/2 【重史230】         公 天正10 158200521
(十日前)

家康、上洛 (安土→京へ) 。
「家康公・穴山梅雪、奈良・堺御見物の事」

  ①五月廿一日、家康公御上洛。
  ②京都・大坂・奈良・堺、御心静かに御見物なされ尤もの旨、
  ③案内人は、長谷川秀一。
  ④織田七兵衛・惟住五郎左衛門は、大坂にて、家康公の御振舞
                           『信長公記』

 〃 〃 【重史231】            ✓ 天正10 158200521
この時、信忠が、家康とともに上洛している。

  ①信長の長男(信忠)が都に到着し、
  ②彼とともに・・・三河の国主(徳川)家康・・・殿が来た。
                            『日本史』

 〃 〃 【重史232】            ✓ 天正10 158200521
信忠は、中国出陣を控えていた。
「勝頼の首」                      【重史170】
信忠は、先の武田攻めで、大きな手柄を上げていた。

中国出陣は、「天下布武」の総仕上げとなる大戦(いくさ)。
ならば、その前に・・・・・。
「今一度」
そう、思っていたのだろう。

  ①世子は、再び、全兵力を率ゐて日本の端まで行き、
  ②諸国を征服して、彼とその父とに帰服せしむるつもりである
                       「イエズス会日本年報」

 〃 〃 2/2 【重史042】          ✓ 天正10 158200521
元親は、信長の命を受け入れた。

  ①尚々、頼辰へ、残らず申し達し候上は、
  ②今度、御請け、兎角、今に到り、延引候段、
  ③▢御朱印に応じ、此の如き次第を以って、
  ④不慮、成し下し候はん事、了簡に及ばず候、
  ⑤海部・大西*両城の儀は、相、抱え候はて叶わず候、
  ⑥是れは、阿・讃競望のためには、一向にあらず候、
  ⑦東州、平均に属し奉り、御馬を納められ、
  ⑧何事も何事も、頼辰、仰せ談じらるべく候、
                           「石谷家文書」

石谷頼辰は、土佐にいた。
「武田滅亡」
結局、これが、決め手になった。
恐るべし、「武田効果」
で、ある。

だが、残念ながら、遅すぎた。
頼辰が、直ぐに、帰路についたとしても、到着するのは、一ヶ月後。
すなわち、六月二十日前後。

「本能寺の変」の変は、六月二日。

結果、頼辰は、間に合わず。
・・・・・。

元親の決断が、遅すぎた、ということ。
土佐は、僻遠の彼方。
不運としか、言いようがない。

その意味では、
このことが、光秀を極限へと追い込み、事件を誘発する一因となった、
とも言えよう。
残念である。

5月26日 (五日前)         目次 1/8~3/8 4/8~6/8 7/8~8/8
                    本文  1/8~3/8 4/8~6/8 7/8~8/8

1/8 【重史030】               公 天正10 158200526
光秀は、坂本から丹波亀山城へ移った。

  ①五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣のため、
  ②坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。 
                            『信長公記』

信長は、安土にいた。

信忠と家康は、京にいる。

信長は、「急いておる」。                    0519
光秀は、そう見ていた。

石谷頼辰、未だ、帰らず。
間に合わぬやもしれぬ。
なれど、・・・・・。

中国出陣は、六月一日。
信長は、
それまでに、上洛する・・・・・。
否、その後、上洛する・・・・・。
それが、わからない。
       
光秀は、実際、軍勢の一部を、先行して、出陣させている。  そ第78話⑩
すなわち、この日が、出陣日である。

 亀山より中国へは、三草越えを仕り候。
 爰(ここ)を引き返し、
                       ◎第1話 (『信長公記』)

残すところは、あと三日。                 そ第78話⑩
五月二十七日、二十八日、二十九日*。

 *五月は小の月。
  二十九日が月末である。

光秀は、この一事に全神経を集中させていた。       そ第78話⑩
黙して、語らず。
心の内を知るのは、己のみ。
容赦なく、時は、過ぎて行く。 

眠れぬ夜がつづく。
信長が、二十九日までに上洛しなければ、
光秀は、予定通り、中国へ向けて出発するつもりだった。

2/8
中国攻めは、「天下布武」の総仕上げ。
           そ第74話④
総指揮官は、あくまでも信長自身。
秀吉では、ない。

秀吉は、毛利本軍を誘き出すのがその役目。         そ第74話④
信長の華々しい勝利を御膳立てする係である。
織田軍の一翼を担う立場に過ぎない。

主役は、信長。
秀吉は、黒子。
黒子は、目立たぬように、目立たぬように、である。

信長は、猜疑心が強い。

秀吉は、そのことを怖れていた。
秀吉に、実子はいない。
信長の五男秀勝(於次丸)を養子にしていた。
秀吉の領地は、全て、織田家のもの、を強く演出したわけである。
つまり、私利私欲がないことの意思表明。
秀吉は、狡猾な男。
万事につき、抜け目がない
その点では、光秀の上を行った。

秀吉には、これ以上の手柄が不要だった。
播磨・但馬・備前・因幡・淡路島。
正に、日の出の勢い。
目覚ましい活躍である。

そして、毛利本軍を備中に誘き出した。
直ちに、安土へ注進。

ここからは、いよいよ、信長の出番である。

信長は、秀吉を救援するために、援軍を派すのではない。
秀吉は、備中。
毛利の本拠地は、安芸。 

安芸に攻め入るために、軍勢を派したのである。
攻め口は、複数ヶ所。
先の、甲斐攻めを見れば、そのことがよくわかる。     【重史046】

  二月三日、信長公、諸口に出勢すべきの旨、仰せ出だされ、
  駿河口より、家康公、
  関東口より、北条氏政、
  飛騨口より、金森五郎八大将として相働き、
  伊奈口、信長公・三位中将信忠卿、二手に分かつて、
  御乱入をなすべき旨、仰せ出だされ候なり。
                           (『信長公記』)

光秀は、信長の指揮下にあった。
別の一翼を担う立場である。
おそらく、毛利の本城、吉田郡山城を衝くための軍勢だったのでは
ないか・・・・・。
 
光秀は、秀吉の下につくのではない。
秀吉と同等の立場にあった。

これが史実。
このこと、明記しておく。
要注意!!
惑わされるべからず!!

従って、信長から、屈辱的な命を下だされたのではない。
むしろ、その逆である。
光秀は、手柄を上げる機会を与えられたのである。

おそらく、それが、国替えの口実(=褒美として)となった・・・・・。
となれば、甲斐攻めにおける、滝川一益と同様のポジション。
光秀は、そのことを察知していた、・・・・・。

3/8
光秀は、滝川一益の上野入国を思い起こした。
         そ第75話
武田を攻め滅ぼした後。
一益は、伊勢に帰陣せず。
そのまま、上野に入った。
一益は、信長の命に従った。
そうする他、術(すべ)がなかった 。

信長は、諏訪法華寺にて、滝川一益に上野一国と信濃二郡を与えた。

  三月廿三日、滝川左近召し寄せられ、
  上野国、幷(なら)びに、信州の内二郡下され候。  

信長は、一益に、名誉を与え、最後の花道をかざってやろうとした。
一益は、五十八歳。          →【人物】 ◎第70話 そ第70話
高齢だった。
間もなく、六十代に突入する 

  年罷り寄り、遠国へ遣はされ候事、
  痛みおぼしめされ候と雖(いえど)も、

  関東八州の御警固を申しつけ、老後の覚えに上野に在国仕り、
  東国の儀、御取次、彼れ是れ申しつくべきの旨、上意、

  忝くも御秘蔵のゑびか毛の御馬下され、
  此の御馬に乗り候て、入国仕り候へと、御諚。
  都鄙の面目、此の節なり。
                      【 重史 022】『信長公記』

だが、これは、表向きのこと。
正に、問答無用。
上意下達。
一益本人の意向は、闇の中。
・・・・・。 

光秀は、すぐ側でこれを見ていた。              そ第75話
「明日は我が身」、である。
忘れられぬ、光景だった. 

斯くして、一益の老後は、定まった。 
北伊勢から、東国へ。
上野一国・信濃の内二郡を拝領。
「国持大名」
大出世である。

信長は、猜疑心が強い。                   そ第75話
有力な重臣を遠隔地に配した。
名目は、諸大名の監視。
その実は、危険分子を遠ざけること、・・・・・。
これこそ、「一石二鳥」。  

否、一益は、追いやられた。
すなわち、左遷、・・・・・。
その様な見方をする研究者もいる。

光秀にも、国替えの可能性があった。
一益の一件を見れば、そのことがよく分かる。                               

近江志賀一郡・丹波一国を返上。
そして、西国の内、何処かの国へ。

タイミングとしては、毛利氏を滅亡させた後の論功行賞によって、
ということになるのだろう。

とすれば、・・・・・。
国替えもまた、その一因となり得る。
光秀が、それに不満を持っていればではあるが・・・・・。

4/8
その先に、信長の「さらなる夢」があった。          そ第75話
その(国替え)後のことである。

信長の目は、海外を見ていた。             5月12日 3/7

  信長は自ら行くことに決し、都に来り、
  同所より堺に赴くこととし、

  毛利を征服して、
  日本六十六ヵ国の領主となった後、
  一大艦隊を編成してシナを征服し、
  諸国をその子達に分ち与へんと計画した。
        【重史008】(「イエズス会日本年報」天正十年十月二十日)

信長は、歩みを止めず。                   そ第75話
次に、中国大遠征。
その次、九州平定戦。
その後のこともある。
丹波では、戦後の復興に三年を要した。
そして、「さらなる夢」へ。
信長は、歩みを止めず。

すなわち、天下統一後も、戦いは、つづく。
つまり、いつまで経っても、戦は、終わらない、のである。
光秀の心境や、如何に・・・・・。

5/8
光秀は、己の老いを自覚していた。              そ第75話
甲斐遠征において。
光秀は、改めて、実感させられた。
肉体の衰え。
「老い」
気がつけば、その様な年齢になっていた。        5月12日 3/7

光秀は、高齢。                     →そ第7話①
嫡男光慶は、若すぎた。                 →そ第7話②光秀は、五十九±四歳ぐらい。               →そ第77話
光慶は、13歳。              →そ第7話② 【重史014】
まだ、元服前である。

光秀は、信長より、先に、死ぬ。
その時まで、己は、生きているのだろうか、・・・・・。

運よく、生き永らえたとしても、
異国の地に、屍(かばね)を晒すことになる・・・・・。

否、もう、この世に、おらぬやもしれぬ・・・・・。

光秀は、信長より、年長。
したがって、早く、老い。
信長より、先に、死ぬ。

光秀は、明智の将来が不安だった。           5月12日 3/7
ならば、
光慶は、如何に・・・・・。
明智は、如何に・・・・・。
 
光秀にとって、このことが最大の悩みだった。
大きな不安の根源だった。

そして、さらに・・・・・。

6/8
信長は、不意を衝く。
佐久間信盛を見よ!!          5月12日 5/7 【重史240】
粛清は、ある日、突然、やって来る。

一度や二度ではない。
この様な例は、多々あった。

光秀は、信長の気性・性格を知悉していた。       「足蹴事件」3/3
それ故、今がある。

「狡兎死して、走狗烹(煮)らる」 

用が済めば、粛清される。
役に立たねば、粛清される。
邪魔になれば、粛清される。

戦いが終われば、粛清が始まる。
明日は、我が身。

・・・・・。

このことが、脳裏から、離れない。

光秀は、粛清を怖れていた。
信長は、恐ろしい男。

光秀には、「守るべき者」たちがいた。           そ第78話⑩
光慶の能力・器量は、まだまだ、未知数。
否、何よりも、若すぎる・・・・・。

その時、己は、もう、いない。

全ては、光慶のため。
子らのため。
明智のため。
・・・・・。

7/8
そこに、起きたのが「足蹴事件」である。
                  0517 「足蹴事件」 1/3 2/3 3/3 

信長は、絶対専制君主。                      3/3
天下の支配者であることを強く意識していた。

信長は、誇り高い男。 
己に口答えする家臣を、決して、赦さない。

 信長は、逆上しやすく、
 自らの命令に対して、反対意見を言われることに堪えられない性格だった
 ので、
                     1/3 【重史040】『日本史』

信長は、執念深い。                        3/3
根に持つタイプ。
後で、必ず、蒸し返す。

佐久間信盛を見よ!!          1/3 【重史240】『信長公記』
「朝倉破軍の刻」
信盛は、それを軽んじたが故に、粛清された 。

信長は、重臣といえども、容赦しない。               3/3

このことを、誰よりも、よく、知っているのが光秀だった。      1/3 

その一言が、信長の逆鱗に触れた。

 人々が語るところによれば、
 彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、

 信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にしたとい
 うことである。
                     1/3 【重史040】『日本史』

信長は、傲慢になっていた。       5月12日 7/7 【重史236】
ついに、本性を現した。
=「隙」を見せた。
これすなわち、「油断」。
・・・・・。

信長は、合理主義者。
この時は、光秀を赦した。

光秀は、役に立つ男。
「中国出陣」
「さらなる夢」
・・・・・。

佐久間信盛との違いである。

光秀は、出来る男。
キレ者である。

この瞬間を見逃さない。

光秀は、そこに、信長の心底を見た。
否、確認した=見極めた。
そういうことになる。

そして、・・・・・。

光秀の心が、信長から、離れた。
おそらく、このタイミングだろう。

ならば、・・・・・。
その前に、・・・・・。

光秀は、計画的だった。
誰にも、胸中を明かさず。
そのタイミングを窺う。
・・・・・。

この事件が、「本能寺の変」の一因になった。     「足蹴事件」 2/3
その、わずか十数日前の出来事。

信長は、天下人。
光秀は、その信長を討った。
結果、天下が転がり込んで来た。
それだけのことである。

従って、
光秀は、天下を望んだが故に、謀叛を起こしたわけではない。

天正八年~十年の動きを見れば、その事がよくわかる。
光秀は、そのための準備を一切していない。
また、己の年齢・後継者 光慶のこと、家中の体制等を考慮すれば、時間的にも、物理的にも、無理があると思う。

8/8
光秀は、待っていた。                      0517
「一縷の望み」
そうする他、打つ手がなかった。

間に合えば、・・・・・。
再び、流れが変わる。

光秀への評価は、さらに、高まり、
信長の「信」は、より一層、強化されることになる。

となれば、
これまでの諸問題は、一挙に解決。
明智の将来は、きわめて明るいものになる。

間に合わねば、・・・・・。
これすなわち、「失敗」。
光秀の責任問題となる。

光秀の評価は、ガタ落ち。
信長の「信」を失う。

斯くなれば、
最悪の状態。

たとえ、中国攻めで、手柄を上げたとしても・・・・・。
「信長の、さらなる夢」
明智は、異国の地で朽ち果てるか・・・・・。
「狡兎死して、走狗烹(煮)らる」
用が済めば、粛清されるか・・・・。

その、何れか、となり、
その時は、必ず、来る・・・・・。

土佐は、僻遠の彼方。                     0517
片道だけでも、一ヶ月ほど時間を要した。
頼辰の着日は、
おそらく、月末・・・・・。
否、六月初め・・・・・。

 【参照】そ第78話⑨ そ第11⑩02 ◎第147話② 第147話

頼辰は、間に合わず・・・・・。
その様相が、色濃くなっていた。
「明日まで」
おそらく、そう、思っていたのだろう。

光秀には、先が見えていた。           そ第75話 そ第78話⑩ 
(中国出陣→)国替えは、信長の「さらなる夢」への第一歩。
戦いは、終わらず。

これすなわち、明智の危機。           そ第75話 そ第78話⑩
その実行は、光秀の死後。
光慶の代。

明智の命運は、中国出陣によって定まる。
出陣すれば、明智は、・・・・・。

これでは、死んでも死に切れぬ。
・・・・・。

これを阻止するためには、中国攻めを取り止めにする他ない。
ならば、・・・・・。
それまでに、・・・・・。

これすなわち、「謀叛」。
・・・・・。

信長は、必ず、上洛する。                    0517
「信長、淡州に至って出馬の刻」、とある。     0507 【重史012】
その前に、必ず、・・・・・。

なれど、その日が、わからない・・・・。
出陣の日は、六月一日。
その「前」なのか、「後」なのか・・・・・。

信長は、「急いておる」。                 1/8 0519
信長は、「用心深い」。                 【重史146】

やはり、光秀出陣の後か・・・・・。

光秀は、最終局面に、追い詰められた。
残すところは、二十七日・二十八日・二十九日、あと三日。

光秀は、肚を決めた。                    0517
頼辰が、
「明日」
間に合えば、
予定通り、中国へ向け出陣する・・・・・。

斯くなれば、
光秀は、信長に対して、何一、問題を残さず、冥途へ旅立つことになり、
若い光慶の運と器量に、明智の将来を、すべて、託すことになる。
「立つ鳥跡を濁さず」、である。

間に合わなければ、
最後の手段、・・・・・。
それが、唯一、明智の生き残る道。

おそらく、光秀は、このような結論に辿り着いた・・・・・。

5月27日 (四日前)                  目次 1/3~3/3

1/3 【重史028】               ✓ 天正10 158200527
信長は、上洛を決めた。

「一両日中」、とある。
すなわち、二十七二日(今日)か、二十八日(明日)か、二十九日(明後日)か・・・・。

その旨を、京都所司代 村井貞勝へ伝えた。
宿所は、「本能寺」。

また、貞勝は、信長の広報担当官でもあった。
したがって、このことは、やがて、公家たちの知る所となる。
すなわち、信長の上洛情報は、オープンだった。

信忠は、信長の上洛を知った 
情報源は、村井貞勝か・・・・・。

信忠は、京で、信長を待っていた。 
           【重史028】 

  ①家康は、明日、大坂・堺に罷り下られ候、
  ②中国表、近々、御馬出さるべきの由候条、
  ③我々、堺見物の儀、先ず、遠慮致し候、
  ④一両日中に、御上洛の旨候間、是に、相待ち申し候、
                           「小畠文書」

①家康は、明日(二十八日)、大坂・堺へ下向する。
 信忠は、京に残る。

②信長は、「近々」、中国へ出陣する。
 近日中・・・・・。
 否、数日中・・・・・。
 その日が、近づいていた。  
 何やら、急に、慌ただしくなって来た。

③信忠は、それより前に、出陣するつもりだった。
 「堺見物」などしている場合はない、ということ。
 時代の流れが、一段と、速さを増す。

④信長は、「一両日中」に上洛する。
 秀吉から、新たな注進があったのだろう。
 事態は、いよいよ、差し迫って来た。

2/3 【重史233】               公 天正10 158200527
光秀は、丹波亀山城にいた。
万事につき、抜かりのない男。
情報ルートは、少なくとも、二ヶ所あった。
安土屋敷と京屋敷。
光秀は、信長の行動を、的確かつ詳細に把握していた。

また、光秀は、村井貞勝との関係も深い。
天正三年1575頃までは、光秀も、貞勝とともに、京都奉行の重責を担っていた。
以後、光秀は、武将として、丹波攻略に専念する。
貞勝は、吏僚として、「天下所司代」の役目に〃〃。
なお、山城の国人等は、引き続き、光秀の支配下にあった。
このことは、貞勝の背景に、光秀という強い後楯(軍事力)があったことを意味する。
すなわち、当時の、都の平穏と繁栄は、光秀・貞勝、二人の協力によって支えられていた、とも言えよう。
両者の関係は、良好だった。
したがって、京都所司代からのルートも、十分、考えられる。

光秀は、戦勝を祈願するため愛宕山に参詣した。

  ①次の日、廿七日に、亀山より、愛宕山へ仏詣。
  ②一宿参籠致し、
  ③惟任日向守、心持御座候や、
  ④二度三度まで鬮(くじ)を取りたる由、申し候。
                     【重史233】『信長公記』

光秀は、山上から、京の都を見下ろすつもりだった・・・・・。
「本能寺」

おそらく、光秀は、そのつもりだった・・・・・。
だが、残念ながら、この日の天気がよくわからない。
したがって、山上からの視界については、定かならず。

おそらく、この日だろう。

光秀は、「信長が上洛する」、との報せをうけた。      0527 1/3

ならば、いつ・・・・・。

「明日」か、「明後日」のうちに。             0527 1/3
すなわち、五月二十八日・二十九日のいずれかに・・・・・。

光秀の出陣日は、六月一日。                0526 1/8
「やはり」、・・・・・。
光秀の予想は、ズバリ、的中した。

なれど、・・・・・。
「油断」しては、ならぬ。
光秀は、己に、そう言い聞かせた。

光秀は、典型的な戦国武将。
疑い深く、用心深い。
果たして、来るのか、来ないのか。
「一寸先は、闇」
その時になってみなければ、わからない。

これが、最後の難関だった

光秀は、待つ。
・・・・・。

3/3
信長の目の前に、大きな誘惑がチラついていた。
         →0519
毛利の動きが気にかかる。
「今度、間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候」
「中国の歴々討ち果たし」
「九州まで一篇に仰せつけ」         備中高松城 【重史227】

信長は、その誘惑に負けた。
結果として、そういうことになる。

信長の脳裏には、武田の最期。 →備中高松城 3月17日 【重史018】
信長は、毛利を滅ぼすつもりだった。           →備中高松城
さらに、九州をも平定しようとしていた。

これで、「天下布武」は、成る。
そう、考えていた。

そこに、「隙」が生まれた。                  →0519

光秀は、これを見逃さない。
信長は、「急いておる」。                   →0519

のみならず、・・・・・。

信忠は、京にいる。                   →0527 1/3
しかも、少人数で。

家康は、明日(二十八日)、大坂へ。             →0527 1/3

そして、・・・・・。

信長は、上洛する。                 →0527 1/3 2/3
おそらく、これもまた、少人数で・・・・・。

となれば、・・・・・。

信長・信忠、父子二人が揃うことになる。
これ程の好機・・・・・。

否、待て。
まだ、早い・・・・・。

事は、光秀の思惑通りに進行していた。
否、それ以上・・・・・。

さらに、・・・・・。

秀吉は、備中高松で毛利と対峙中。            →備中高松城
「芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり」
したがって、おいそれとは、動けない。

光秀は、そう、判断した。

石谷頼辰は、終に、間に合わなかった。
残念である。
「是非も無し」
光秀は、諦める他なかった。

となれば、・・・・・。

残された道は、ただ一つ。
それが、明智の生き残る道。

光秀は、己の迷いをフッ切った。
斯くなれば、もう、悩むことなどは、ない。

光秀は、この一事に己の全てを集中する。
連歌会前日。
愛宕山にて。

光秀は、嫡男光慶を同道していた。





五月二十八日 【重史234】         公 天正10 158200528
(三日前)

光秀は、愛宕山西坊にて連歌会を催した。

  ①廿八日、西坊にて連歌興行。
  ②ときは今、あめが下知る五月哉
  ③五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。
                           『信長公記』


 〃 〃 【重史005】           ✓ 天正10 158200528
今は、雨の降る五月である。
「時」、あめ「雨」、「下なる」。
これが、正しい。
そう、考える。

  
①時は今、あめか下なる五月かな、 光秀
  ②国々は、猶、長閑なる時、    光慶
                           「続群書類従」

光秀は、出来る男。
キレ者である。

光秀は、典型的な戦国武将。
注意深く、用心深い。

それ故、信長に抜擢された。

そのような男が、このタイミングで、これほどの大事・秘事を、それも、
外部の人間に、しかも複数人に、話さねばならぬ理由(わけ)がない。
冷静に考えれば、わかることである。

秀吉は、狡猾な男。
抜け目がない。
これを、上手に、すり替えた。
とき「土岐」、あめ「天」、したしる「下知る」。
こじ付けである。
「捏造」
己の野望をカモフラージュした。

何しろ、天下・国家を揺るがす大事件。
多くの人々が、これに騙された。
「歴史は、勝者によってつくられる」、である。

そして、その様な状態が、秀吉の時代から、江戸時代へ、さらに、明治・大正・昭和・平成を経て、現在までつづいている。

真実は、一つ。
覚醒すべし!!

 〃 〃 【重史032】           ✓ 天正10 158200528
これが、全ての元凶となった。

  ①惟任(光秀)、・・・備中に下らずして、密かに謀反をた工む、
  ②年来の逆意、識察する所なり、
  ③ときは今、あめかしたしる五月かな、
  ④今、これを思惟すれば、則ち、誠に、謀反の先兆なり、
  ⑤天正十年六月朔日、夜半より、
                          「惟任退治記」

秀吉は、実に、素早かった。
本能寺の変 六月二日。
山崎の合戦 同十三日。
その、直後。
十月には、すでに、この書が、世の出ていたという。

「惟任退治記」は、創作物。
信長亡き後の、秀吉の行動を、美化・正当化するために書かれた宣伝本。
フィクション部分が多い。
今風に言えば、政府発表の公文書の如きもの。
瞬く間に、世に広まった。
 
秀吉は、歴史を捏造した。
秀吉は、これを利用して、言葉巧みに、大衆を丸め込んだ。
狡猾で、抜け目のない男である。

秀吉は、光秀が、己の心中を、事前に、外部の人間に漏らした、
と言っている。

秀吉は、光秀を利用した。
「死人に口なし」
光秀は、冥途の彼方へ。

秀吉は、天下を狙っていた。
「明々白々」
やがて、織田家を乗っ取った。
これもまた、「下剋上」。
その様な時代だった。

同、二十八日 
家康が、大坂へ向かった。        →五月二十七日【重史028】
信忠は、京に残った。


五月二十九日 【重史033】         公 天正10 158200529
(二日前)

信長が、上洛した。

  ①五月廿九日、信長公、御上洛。
  ②御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。
  ③直ちに、中国へ御発向なさるべきの間、
  ④今度は、御伴これなし。
                            『信長公記』

 従うのは、小姓衆のみ。

 信長は、中国へ出陣するつもりだった。
 信長は、軍勢を京に入れず。
 安土に残した。

 信長は、家康に配慮した。
 家康は、暗殺を怖れていた (『日本史』「本城惣右衛門覚書」) 。 

 信長は、自身を警固する軍勢を伴っていなかった。

 信長は、「油断」した。
 「一世一代の不覚」
 結果として、そうなる。

 光秀は、信長の性格をよく知っている。
 斯くなることを予測していた。 

 光秀は、道中で目にした。
 駿河・遠江・三河は、家康の領地。
 甲斐からの帰路、そこを、通った時のこと。
 信長は、供廻りを最小限にした。

 ①『信長公記』 天正十年1582、三月二十八・二十九日条。
 ②『信長公記』 天正十年1582、四月十六日条。

 これ、すなわち、「配慮」。
 家康を信用しているという、意思表示。

 今度(こたび)も、それに同じ。 

 時は、戦国時代。
 生と死は、紙一重。
 油断=死。
 「相互不信」の時代だった。

 そして、家康が、少人数で安土を訪れた。
 これもまた、信長を信用しているの証。

 否、そうせねばならなかった。
 何しろ、信長は、猜疑心の強い男。
 疑われれば、潰される・・・・・。
 恐ろしい時代だった。

 そして、再び、信長の番となる。
 信長は、これに、応えねばならなかった。

 となれば、・・・・・。
 「都には、軍勢を入れぬ」
 否、「入れるわけには、いかぬ」のである。

 光秀は、聡明な男。
 そう、見ていた。

 斯くなれば、
 「丸裸」・・・・・。

 そして、正に、その通りになった。



 ⇒ 次へつづく



信長は、甲斐の武田を滅ぼした。      →三月十一日【重史170】
「勝頼の首」

信長は、己の勢威の強大さに驚いた。    →三月十七日【重史018】
「我ながら驚き入る計りに候」
絶対的な武力を手に入れた。
「戦わずして、勝つ」
これが、武田効果。

信長は、絶大な自信を得た。
ならば・・・・・。
「天下布武」は、成る。

光秀は、このことを知っている。
信長に身近にあり、同じ目線で、甲斐征伐の一部始終を具に見ていた。

信長は、一回りも、二回りも、強大になった。
「変わった」
光秀は、実感していた。

なれど、信長とて、所詮は人の子、神の子などではない。
武田を滅亡させたことが、逆に、信長の「油断」を生み、光秀に「隙」を
与えることになる。
   →3光秀と光慶 (2)光秀の年齢 4光秀、最大の敵 そ第74話②



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