本能寺の変1852 その一因 2(3)光秀の嫡男 そ第7話① 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 2光秀と光慶 (3)光秀の嫡男 そ第7話①
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2光秀と光慶
(1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 ←
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
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(3)光秀の嫡男 そ第7話①
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1信長の後継者 そ第5話① そ第5話② そ第5話③
そ第6話①
2光秀の後継者 そ第6話②
そ第7話① そ第7話②
2光秀の後継者 1光秀は、高齢だった。
光秀の生年と年齢。
光秀は、大永四年1524±四年ぐらいの生れ。
この年(天正十年1582) 、五十九±四歳ぐらい。
高齢だった。
→ (2)光秀の年齢 そ第77話
光秀は、体力に不安を感じていた。
己の年齢。
そして、老い。
人生の終末について、考えねばならぬ時期に差し掛かっていた。
光秀は、かつて、大病を患ったことがあった。
今から、六年前。
天正四年1576、五月。
大坂攻めの真っ最中であった。
あいにく、梅雨の季節。
激戦がつづいた。
長陣である。
その陣中で。
劣悪な環境。
疲労の蓄積。
等々。
光秀は、病に倒れた。
光秀は、生死の境を彷徨(さまよ)った。
これまでの人生で、最大の危機であった。
しかし、名医曲直瀬(まなせ)道三の懸命な治療と、妻の献身的な看病に
より、奇跡的に持ち直した。
この時のことがあった。
光秀は、体力面について、多少なりとも、不安を感じていたのではなか
ろうか。
「永くは、生きられぬ」
そう、思っていたのかもしれない。
おそらく、それ程、頑強な肉体の持ち主ではなかったのだろう。
年齢の問題に、このことが重なった。
吉田兼見がその証人である。 →【 人物 】
兼見は、吉田神社の神主。
天文四年1535の生まれ。
細川藤孝の従弟。
年齢は、一つ下。
光秀と親交が深い人物である。
信長との交流もあった。
日記、「兼見卿記」を著した。
天正四年1576、五月。
重篤な状態だった。
光秀は、京に戻った。
兼見は、急を聞いて、駆けつけた。
廿三日、乙卯(きのとう)、
惟日、以ての外の所労に依り皈(帰)陣、在京なり、
罷り向かふ、
道三(曲直瀬)療治と云々、
【重史013】(「兼見卿記」)
医師は、曲直瀬道三。
これ以後、長い闘病生活が始まる。
曲直瀬道三について、フロイスは、次のように言っている。
日本の六十六ヵ国にいるすべての医師のうち、特に優れた三人の医師
が都にいた。
その三人のうち、道三と称する者が現在第一位を占めている。
この者は医術に秀でているのみならず、多くの他の稀有の才幹を兼備
しているところから、
日本の諸国主、ならびに諸侯たちから大いに重んぜられ、かつ敬われ
ている。
(『日本史』)
光秀の妻が祈祷を依頼した。
妻木氏と伝わる。
廿四日、丙辰(ひのえたつ)、
惟日祈念の事、女房衆より申し来たる、
撫物(なでもの=祈祷のための人形など)以下の事、
一書を以って、返答。
【重史013】(「兼見卿記」)
信長は、使者を派して光秀を見舞った。
光秀の身を、深く案じていたのである。
廿六日、戌午(つちのえうま)、
夜に入り、惟日女房衆より、大中寺(光秀の家臣)を以って、
祈念の事、申し来たる、
惟日御見廻りとして、左大将より、埴原(新右衛門)御使と云々、
【重史013】(「兼見卿記」)
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