本能寺の変1852 その一因 2(3)光秀の嫡男 そ第5話② 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
その一因 2光秀と光慶 (3)光秀の嫡男 そ第5話②
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2光秀と光慶
(1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 ←
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
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(3)光秀の嫡男 そ第5話②
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1信長の後継者 そ第5話① そ第5話② そ第5話③
1信長の後継者 甲斐遠征2 条々
信長の本陣は、その後を追う。
それについて、条々。
信長は、十一ヶ条の条書を発した。
二月九日、
信長公、信濃国に至りて御動座なさるべきについて、
条々 御書出
大和の筒井順慶、出陣すべし。
但し、高野山への兵は残すこと。
また、吉野の警固を油断せぬこと。
一、信長出馬に付いては、
大和の人数出張の儀、筒井召し連れ罷り立つべきの条、
内々、其の用意然るべく侯。
但し、高野、手寄の輩少し相残し、吉野、警固すべきの旨、
申しつくべきの事。
丹後の細川藤孝、これは警固のため残し置く。
但し、子の忠興は、出陣すべし。
与力の一色満信、同。
一、永岡兵部大輔の儀、与一郎、同一色五郎、罷り立ち、
父、彼国に警固すべき事。
信長は、藤孝の嫡男忠興に目を懸けていた。 →【 人物 】
細川忠興は、永禄六年1563の生れ。
この年、二十歳。
藤孝の後継者。
もう、一人前。
立派な若武者である。
天正五年1577、十五歳の時。
忠興は、離反した松永久秀との戦いで、弟昌興とともに、手柄を上げ、
信長から、自筆の感状を賜っている「細川家文書」。
これこそ、信長の好むところ。
以来、信長は、特に、目を懸けていた。
これについては、後述する。
信長は、光秀に出陣を命じた。
筒井・細川と同じく、後発軍である。
両氏は、ともに、光秀の与力。
その指揮下にあった。
一、惟任日向守、出陣の用意すべき事。
【重史047】(『信長公記』)
このことから、
光秀は、甲斐遠征が出来る年齢だった。
おそらく、1000kmを超えるだろう。
長期に亘る大遠征となる。
気力、知力、体力。
光秀には、それが十分に出来た。
まだまだ、現役。
引退するような年齢では、ない。
と、いうことである。
となれば、
光秀の年齢は、六十代前半以下。
当時の人々の寿命を考えれば、このあたりが上限になるのではないだろ
うか。
そう、考える。
【参照】そ第69話 そ小69 テ第69話 ◎第69話 第69話
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