本能寺の変1582 【四国問題】 十 250922 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【四国問題】 天正十年1582 250922
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 250922
天正十年1582 250922
一月十一日 【重史174】 ✓ 天正10 158200111
信長は、元親に朱印状を送った。
信長は、己の命に従わぬ者を容赦しない。
「阿波南郡半国」を取り止めた。
元親には、「土佐一国」のみとした。
①空然(石谷光政) 人々御中
②尚々、御朱印の趣も、元親御ため、然るべく候、
③始末、然るべく様に、万事、御異見、尤もに、存じ候、
「石谷家文書」
【参照】
【重史181】 阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし
【重史213】 阿・讃の儀、三好山城守、弥、仰せつけられ候、
【重史012】 其外両国の儀、信長、淡州に至って出馬の刻~
【重史042】 ~うしきの城・仁宇南方、残らず明け退き申し候、
二月一日 【重史046】
木曾義昌が裏切った(武田→織田)。 『信長公記』
二月三日 【重史046】
信忠が、甲斐へ出陣した(先発)。 『信長公記』
二月九日 【重史047】 公 天正10 158200209
信長は、甲斐出陣にあたり、十一ヶ条の条書を発した(①~⑪) 。
三好康長は、四国へ出陣すること。
光秀は、出陣すること。
①二月九日、信長公、信濃国に至りて御動座なさるべきについて、
②三好山城守、四国へ出陣すべきの事。
③惟任日向守、出陣の用意すべき事。
『信長公記』
三月五日 【重史034】 公 天正10 158200305
信長は、安土を発った。
三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。
『信長公記』
三月十一日 【重史170】
武田勝頼の最期。 『信長公記』
三月十七日 【重史018】 【重史019】
我ながら驚き入る計りに候、 「武家事紀」
四月二十一日 【重史035】 公 天正10 158200421
信長は、安土に凱旋した。
四月廿一日、安土に御帰陣。
『信長公記』
四月二十四日 【重史036】 ✓ 天正10 158200421
そもそも、中国出陣は、「来る秋」のはずだった。
①中国進発の事、来秋たるべきの処、
②重ねて、一左右次第、出勢すべく候、
③猶、惟任日向守、申すべく候也、
「細川家文書」
五月七日 【重史012】 ✓ 天正10 158200507
信長は、三男信孝に、四国への出陣を命じた。
①今度、四国に至って差し下すに就きての条々、
②讃岐国の儀、一円、其方に申し付くべき事、
③阿波国の儀、一円、三好山城守 (康長) に申し付くべき事、
④其外両国の儀、信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事、
⑤万端、山城守に対し、君臣父母の思いをなし、
「寺尾菊子氏所蔵文書」
五月十一日
信孝は、住吉に参着し、四国渡海の準備に入った。 『信長公記』
五月十五日 【重史037】 【重史038】 【重史039】
家康、安土に参上。 『信長公記』
五月中頃 【重史040】 ✓ 天正10 1582005**
「足蹴事件」1/2
①その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。
②これらの催し事の準備について、
③信長は、ある密室において、明智と語っていた
④反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、
⑤信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にした
『日本史』
五月中頃 【重史041】 ✓ 天正10 1582005**
「足蹴事件」2/2
①明智は、何らかの根拠フンダメントを作ろうと欲した
②過度の利欲と野心が募りに募り、
③それが天下の主になることを、彼に望ませるまでになった
④企てた陰謀を果たす適当な時期を、ひたすら窺っていた
『日本史』
同じ頃 【重史020】 【重史021】
中国備中へ、羽柴筑前守相働き、
①今度、間近く寄り合ひ侯事、天の与ふるところに侯間、
②中国の歴々討ち果たし、
③九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、
④ (惟任日向守) 先陣として、出勢すべきの旨、
『信長公記』
五月十七日 【重史030】
坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。 『信長公記』
五月二十日
信長は、高雲寺御殿で家康を饗応した。 『信長公記』
五月二十一日
家康公・穴山梅雪、奈良堺御見物の事 『信長公記』
五月二十一日 【重史042】 ✓ 天正10 158200521
元親は、信長の命を受け入れた。
①尚々、頼辰へ、残らず申し達し候上は、
②今度、御請け、兎角、今に到り、延引候段、
③▢御朱印に応じ、此の如き次第を以って、
④不慮、成し下し候はん事、了簡に及ばず候、
⑤海部・大西*両城の儀は、相、抱え候はて叶わず候、
⑥是れは、阿・讃競望のためには、一向にあらず候、
⑦東州、平均に属し奉り、御馬を納められ、
⑧何事も何事も、頼辰、仰せ談じらるべく候、
「石谷家文書」
五月二十六日 【重史030】
坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。 『信長公記』
五月二十七日 【重史028】
一両日中に、御上洛の旨候間、是に、相待ち申し候、 「小畠文書」
〃 〃 【重史031】1/2
①廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣。 『信長公記』
五月二十八日 【 重史 005 】 そ第78話⑫
時は今、あめか下なる五月哉 光秀
水上まさる、庭の夏山 行祐
花落つる、池の流れをせき留めて 紹巴
(中略)
色もか(香)も、ゑひ(酔い)をすゝむる花の下 心前
国々は、猶、長閑なる時 光慶
「続群書類従」
〃 〃 【重史031】2/2
②廿八日、西坊にて連歌興行。
③ときは今、あめが下知る五月哉
④五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。
『信長公記』
〃 〃 【重史032】
ときは今、あめかしたしる五月かな、 「惟任退治記」
五月二十九日 【重史033】
①五月廿九日、信長公、御上洛。
②御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。
③今度は、御伴これなし。
『信長公記』
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