本能寺の変1582 【重史018】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史018】「武家事紀」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 250611 250923
【重史018】 ◎第115話
①穴山、忠節を抽んずべきの条、朱印をなし、
②去る十一日四郎父子を討ち捕り、首到来候、
③典厩(信豊)の事、是も首到来、
④四郎の弟仁科五郎、是も首到来候、
⑤甲州の歴々の者ども、大略、首を刎ね候、
⑥尾濃の浪人、土岐美濃守(頼芸)を始め、岩倉・犬山等、
⑦卅日・四十日際(きわ)に、一偏に属するの事、
我ながら驚き入る計りに候、
「武家事紀」
天正十年1582、三月十七日。 158200317
信長は、松井友閑へ戦勝を伝えた。1/2
①穴山梅雪は、内通していた。
此の表のこと、最前、穴山、忠節を抽んずべきの条、朱印をなし、
信長、信州に至って出馬の刻(きざみ)、色を立つべきの由、
路次・日限を相計り、堅く申し聞かすところ、
早々、風聞せしめ、穴山足弱(あしよわ=女・子供・ろうじん)等、
甲斐府中より、彼等が館へ引き越し候ひき、
②「勝頼の首」、到来。
四郎、諏訪に居陣せしめ候間、則ち、甲州の構へ引き退き候、
其外、彼の国の者ども、我も々々と忠節すべきの覚悟に付きて、
右の構にも相堪えず、山中へ北(にげ)隠れ候を、
小山田以下心を合せ、
滝川左近人数をも、去る十一日四郎父子を討ち捕り、首到来候、
→関連 ◎第112話 第112話 『信長公記』
③「武田典厩の首」、同。
典厩(信豊)の事、西上野近辺の小諸城に楯籠り候、
是も出羽守忠節として、切り首到来、其首を飯田城に懸け置き候間、
飛脚見候て物語るべく候、
④「仁科信盛の首」、同。
四郎の弟仁科五郎も高遠城相抱え候を打ち果し、是も首到来候、
⑤その他、歴々の者ども。
甲州の歴々の者ども、大略、首を刎ね候、
又、降人に出で候族(やから)、数知らず候、
是は、生害させ候者、数多く候、
自然、助け置く輩(ともがら)も之れあるべし、
⑥土岐頼芸他。
亦(また)、尾濃の浪人、土岐美濃守を始め、岩倉・犬山等、
小屋に蟄居候、
是は、それ々々に、相計(はから)い候、
佐々木承禎の子次郎并(ならび)に若狭の武田五郎、
是も小屋に蟄居候を、搦め取り、腹を切らせ候、
⑦「我ながら驚き入る計りに候」
北は越後境、東はうすいが峠・川中島等、信州中に一所も残らず、
侘言せしめ、落着候、
西上野、同前に候、
此の如く、卅日・四十日際(きわ)に、一偏に属するの事、
我ながら驚き入る計りに候、
(「武家事紀」「織田信長文書の研究」①~⑦/⑪)
→【 重史 019】(⑧~⑪/⑪)
→関連 【重史170】 ◎第112話
④四郎父子の頸、滝川左近かたより、三位中将信忠卿へ、
⑤関可平次・桑原助六両人にもたせ、信長公へ御進上候。
『信長公記』
【参照】◎第115話 第115話
◎第71話 第71話 そ第74話② ◎第74話 第74話
【参照】3光秀と光慶 (2)光秀の年齢 5結論 そ第77話
【参照】11光秀の年齢 5結論 ◎第77話
【参照】3光秀と光慶 (2)光秀の年齢 4光秀、最大の敵
そ第74話② 武田効果
【参照】10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣 ◎第66話 66
信長は、わずか一月で四ヶ国を手に入れた。
「長篠効果」「本願寺効果」「武田効果」
⇒ 次へつづく
