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本能寺の変1582 【 重史 018 】 250923 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【 重史 018】「武家事紀」    250923

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 250611 250923 

【 重史 018】 ◎第115話             250923

①穴山、忠節を抽んずべきの条、朱印をなし、

②去る十一日四郎父子を討ち捕り、首到来候、

③典厩(信豊)の事、是も首到来、

④四郎の弟仁科五郎、是も首到来候、

⑤甲州の歴々の者ども、大略、首を刎ね候、

⑥尾濃の浪人、土岐美濃守(頼芸)を始め、岩倉・犬山等、

⑦卅日・四十日際(きわ)に、一偏に属するの事、
 我ながら驚き入る計りに候、

                       「武家事紀」


 天正十年1582、三月十七日。             158200317

 信長は、松井友閑へ戦勝を伝えた (①~⑦/⑪) 。

 ①穴山梅雪は、内通していた。

  此の表のこと、最前、穴山、忠節を抽んずべきの条、朱印をなし、
  信長、信州に至って出馬の刻(きざみ)、色を立つべきの由、
  路次・日限を相計り、堅く申し聞かすところ、
  早々、風聞せしめ、穴山足弱(あしよわ=女・子供・ろうじん)等、
  甲斐府中より、彼等が館へ引き越し候ひき、

 ②「勝頼の首」、到来。

  四郎、諏訪に居陣せしめ候間、則ち、甲州の構へ引き退き候、
  其外、彼の国の者ども、我も々々と忠節すべきの覚悟に付きて、
  右の構にも相堪えず、山中へ北(にげ)隠れ候を、
  小山田以下心を合せ、
  滝川左近人数をも、去る十一日四郎父子を討ち捕り、首到来候、
             →関連 ◎第112話  第112話 『信長公記』

 ③「武田典厩の首」、同。

  典厩(信豊)の事、西上野近辺の小諸城に楯籠り候、
  是も出羽守忠節として、切り首到来、其首を飯田城に懸け置き候間、
  飛脚見候て物語るべく候、

 ④「仁科信盛の首」、同。

  四郎の弟仁科五郎も高遠城相抱え候を打ち果し、是も首到来候、

 ⑤その他、歴々の者ども。

  甲州の歴々の者ども、大略、首を刎ね候、
  又、降人に出で候族(やから)、数知らず候、
  是は、生害させ候者、数多く候、
  自然、助け置く輩(ともがら)も之れあるべし、

 ⑥土岐頼芸他。

  亦(また)、尾濃の浪人、土岐美濃守を始め、岩倉・犬山等、
  小屋に蟄居候、
  是は、それ々々に、相計(はから)い候、

  佐々木承禎の子次郎并(ならび)に若狭の武田五郎、
  是も小屋に蟄居候を、搦め取り、腹を切らせ候、

 ⑦「我ながら驚き入る計りに候」

  北は越後境、東はうすいが峠・川中島等、信州中に一所も残らず、
  侘言せしめ、落着候、

  西上野、同前に候、

  此の如く、卅日・四十日際(きわ)に、一偏に属するの事、
  我ながら驚き入る計りに候、
          (「武家事紀」「織田信長文書の研究」①~⑦/⑪)

                     →【 重史 019】(⑧~⑪/⑪)

        →関連 【重史170】 ◎第112話
        ④四郎父子の頸、滝川左近かたより、三位中将信忠卿へ、
        ⑤関可平次・桑原助六両人にもたせ、信長公へ御進上候。
                            『信長公記』


 【引用】◎第115話 第115話
     ◎第71話 第71話 そ第74話② ◎第74話 第74話



 ⇒ 次へつづく

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