本能寺の変1582 【重史181】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史181】 「元親記」
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
←【五大要因】 中 小
←1 時代の風潮 1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
3尾張
←2 光秀の実像 1信長という男
2光秀という男
3光秀と光慶 1光秀の素性 2光秀の年齢 3嫡男光慶
4先祖の教訓
5大量殺戮
6信長の弱点
←3 光秀の苦悩 1粛清の怖れ
2志向の相違
3光秀の老い
4四国問題
5自立への道
←4 武田の滅亡 1甲斐遠征
2勝頼の首
3武田効果
←5 信長の油断 「事態急変」
1 勝利の余韻 4月21日 24日
2 四国出陣 5月7日 1/2 2/2 11日
3 足蹴事件
4 中国出陣
5 時は今、・・・・・。
←さる程に、不慮の題目出来候て、
←【注目ポイント】 目次
←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
←【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 250719 260324
【重史181】
①元親儀を、信長卿へ、或る人、さゝへ(妨害)申す、
②連々、天下のあだにも罷り成るべし、
③信長卿、御朱印の面、御違却有りて、
④予州・讃州、上表申し、
⑤阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし
「元親記」
天正九年1581、後半。 1581*****
「三好康長の讒言があった」、という。
「或る人」=三好康長・・・・・。
その様な「噂」が、流布していたらしい。
元親と康長の関係から来るものなのだろう。
然る処に、其の後、
元親儀を、信長卿へ、
或る人、さゝへ(妨害)申す、と聞き及び有り申す処に、
三好康長は、阿波三好家の元重臣。 →【人物】
当主は、三好義賢(実休)。 →【人物】
長慶(大永二年1522~永禄七年1564)の次弟。 →【人物】
康長は、彼らの叔父にあたる。
天正三年1575 、信長に降った。
この時、仲介したのが松井友閑。
したがって、友閑とは太いパイプで繋がっている。
山城守。
河内の半国守護。
入道して、笑厳(笑岩)を号す。
→【重史182】②三好笑岩(康長)楯籠る高屋へ取り懸け、『信長公記』
【重史183】①同卯月十二日朝、友閑 長谷川宗仁「天王寺屋会記」
【重史184】②友閑を以て、御侘言、御赦免候ひしなり。『信長公記』
信長は、この康長を四国政策に利用しようとしていた。 →そ第11⑩01
四国、四ヶ国。
東の入り口は、阿波。
三好は、阿波の名家・名門。
康長の願いは、同家の再興。
信長は、その名を利用しようとした。
今に始まったことにあらず。
信長は、そのつもりで康長を赦免したのである。
そして、その時が来た。
「元親記」には、康長の讒言を聞き入れた、とある。
が、・・・・・。
元親事、
西国に並びなき弓取り、と申す、
今の分に、切伐に於いては、連々、天下のあだにも罷り成るべし、
阿州・讃州さへ、手に入れ申し候はゞ、
淡州などへ手遣い仕るべき事、
程は、御座有るまじきと申上、と云々、
(「元親記」)
本願寺、退城。 →そ第7話⑦
状況が、変わった。
信長は、先ず、足元を固めた。
天正八年1580
八月 本願寺、退城。 『信長公記』
〃 信長、大和破城命令。 「多聞院日記」
〃 信長、佐久間信盛を粛清。 『信長公記』
畿内軍を解体する。
九月 信長、大和指出命令。 「多聞院日記」
十月 光秀、指出の不正者を成敗。 「多聞院日記」
十一月 家康、高天神城包囲。
十二月 元親、信長に伊予鶏献上。 「土佐国蠧簡集」
士気、きわめて軒昂。
いよいよ、西国へ。
正に、その様なタイミングだった。
信長は、動き出した。
それが、四国だった。
天正九年1581
二月 信長、京都馬揃え。 『信長公記』
三月 信長、和泉検地。 『信長公記』
〃 信長、三好康長を阿波へ派す。 「讃岐国大日記」
〃 家康、高天神城を落とす。 『信長公記』
〃 武田勝頼、これを救援できず(弱体化)。 『信長公記』
家臣らの信望を失うことになる。
五月 信長、指出の不正により、和泉槇尾寺を焼払う。 『信長公記』
六月 秀吉、鳥取城包囲。 『信長公記』
八月 信長、安土馬揃え。 『信長公記』
〃 光秀、中国出陣の準備をして待機。 『信長公記』
信長は、状況の変化に速やかに対応した。
本願寺の退城から、西国攻めへ。
これが、三好康長の起用へと繋がった。
長宗我部元親は、これに反応できず。 →【人物】
歩みが、遅いのである。
四国制覇は、未だ、道半ば。
結局は、時間切れ=間に合わず。
取り残された。
「元親記」は、信長が、約束を違えたと言っている。
だが、それは、筋違いというもの。
信長卿、實(げ)にも(=その通り)とや、思(おぼ)しけん、
其の後、御朱印の面、御違却有りて、
「元親記」は、元親の死後、その功績を顕彰するために、旧臣の手によ
り、書かれた軍記物。
江戸時代初期の作という。
元親に仕えた家臣が、主君のことを悪し様に書くはずはない。
そのことを念頭に、ある程度、割引いて、参考にすべきである。
創作・脚色が少なく、優れた史料とされている。
土佐は、僻遠の彼方。 →ポ02② 本能寺への道 そ第78話⑨
どうにもならぬ問題である。
したがって、そこには、時間・受け止め方等、微妙な差が生ずる。
すなわち、ズレのようなものが・・・・・。
元親は、生まれて来るのが遅すぎた。 →【人物】
信長、天文三年1534の生れ。
元親、天文八年1539の生れ。
その差は、五年。
これは、大きい。
残念である。
「人間五十年」 →【重史169】
信長は、目的意識が強い男。 →【信長という男】 目次
「天下布武」=「天下統一」。
信長は、先を急いでいた。
西国攻めには、水軍が必要だった。
すなわち、瀬戸内海の制海権確保。
そのための、四国北部=阿波・讃岐・伊予なのである。
ところが、元親と歩調が合わず。
元親は、信長のスピードに、ついて行くことが出来なかった。
遅くとも、本願寺退城の時までに、元親の阿波統一が、成立していれば、
済んだ話である。
元親は、見通しを誤った。
先を見る目が甘すぎた。
これすなわち、「油断」。
「己の問題」、である。
それだけのこと。
元親の重要度は、大きく減少していた。
あの時(天正六年)とは、大違いである。
→【重史180】
③則ち、信と云う御字を給わる、
⑥四国の儀は、元親、手柄次第に、切り取り候へと、
「元親記」
となれば、
信長としては、当然、己の手で、・・・・・。
と、いうことになる。
信長は、直接、四国攻略に乗り出した。
信長は、元親の領地を土佐一国と阿波南半国に定めた。
これまでの事を配慮したわけである。
予州・讃州、上表申し、阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべしと、
仰せられたり、
(「元親記」)
したがって、
信長の「違却」などでは、ない。
だが、しかし、元親は、・・・・・。
【参照】【四国問題】 天正八年1580 天正九年1581
【重史180】 ✓ 天正06 157801026
①御奏者は、明智殿なり、
②明智殿御内、齋藤内蔵助は、元親卿には小舅になるなり、
③則ち、信と云う御字を給わる、
④これに依り、信親と云しなり、
⑤此の由緒を以って、
⑥四国の儀は、元親、手柄次第に、切り取り候へと、
⑦御朱印頂戴したり、
「元親記」
⇒ 次へつづく
