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本能寺の変1582 【重史181】 250719 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史181】 「元親記」     250719

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 250719

【重史181】                    250719

①元親儀を、信長卿へ、或る人、さゝへ(妨害)申す、

②連々、天下のあだにも罷り成るべし、

③信長卿、御朱印の面、御違却有りて、

④予州・讃州、上表申し、

⑤阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし

                        「元親記」


 天正九年1581、後半。                 1581*****

 三好康長の讒言があった。
 「或る人」とは、三好康長のことだろう。

 おそらく、この様な事も、あった・・・・・。
 元親と康長の関係を考えれば、当然、そうなるだろう。

  然る処に、其の後、
  元親儀を、信長卿へ、
  或る人、さゝへ(妨害)申す、と聞き及び有り申す処に、
 
 三好康長は、阿波の三好(実休家)の元重臣。   →【人物】 そ第7話⑩
 長慶(大永二年1522~永禄七年1564)の叔父にあたる。

  天正三年1575 、信長に降った。
 この時、仲介したのが松井友閑。
 したがって、友閑とは太いパイプで繋がっている。
       →【重史182】 【重史183】 【重史184】 『信長公記』
 山城守。
 河内の半国守護。
 入道して、笑厳(笑岩)を号す。

 信長は、四国政策に、この康長を利用しようとしていた。 →そ第11⑩01
 四国、四ヶ国。
 入り口は、阿波。

 三好は、阿波の名家・名門。
 康長の願いは、同家の再興。
 信長は、その名を利用しようとしていた。

 今に始まったことにあらず。
 これは、天正三年以来のこと。  
 信長は、そのつもりで康長を赦免したのである。
  →【重史182】 【重史183】 【重史184】『信長公記』「天王寺屋会記」

 そして、その時が来た。

 「元親記」には、康長の言を聞き入れた、とあるが・・・・・。

  元親事、
  西国に並びなき弓取り、と申す、
  今の分に、切伐に於いては、連々、天下のあだにも罷り成るべし、
  阿州・讃州さへ、手に入れ申し候はゞ、
  淡州などへ手遣い仕るべき事、
  程は、御座有るまじきと申上、と云々、
                            (「元親記」)

 本願寺、退城。                     →そ第7話⑦
 状況が、変わった。
 信長は、先ず、足元を固めた。

 天正八年1580
 八月  本願寺、退城。                『信長公記』
 〃   信長、大和破城命令。            「多聞院日記」
 〃   信長、佐久間信盛を粛清。           『信長公記』
     畿内軍を解体する。
 九月  信長、大和指出命令。            「多聞院日記」 
 十月  光秀、指出の不正者を成敗。         「多聞院日記」
 十一月 家康、高天神城包囲。  
 十二月 元親、信長に伊予鶏献上。         「土佐国蠧簡集」  

 士気、きわめて軒昂。
 いよいよ、西国へ。
 正に、その様なタイミングだった、のである。

 信長は、動き出した。
 それが、四国だった。

 天正九年1581
 二月  信長、京都馬揃え。              『信長公記』
 三月  信長、和泉検地。               『信長公記』
 〃   信長、三好康長を阿波へ派す。       「讃岐国大日記」
 〃   家康、高天神城を落とす。           『信長公記』
 〃   武田勝頼、これを救援できず(弱体化)。     『信長公記』
     家臣らの信望を失うことになる。
 五月  信長、指出の不正により、和泉槇尾寺を焼払う。 『信長公記』
 六月  秀吉、鳥取城包囲。              『信長公記』
 八月  信長、安土馬揃え。              『信長公記』
 〃   光秀、中国出陣の準備をして待機。       『信長公記』 

 信長は、状況の変化に、速やかに対応した。
 本願寺の退城から、西国攻めへ。
 これが、三好康長の起用へと繋がった。

 なれど、元親は、速やかに反応できず。
 歩みが、遅いのである。
 四国制覇は、未だ、道半ば。
 結局は、時間切れ=間に合わず。
 取り残された。

 「元親記」は、信長が、約束を違えたと言っている。
 だが、それは、筋違いというもの。   

  信長卿、實(げ)にも(=その通り)とや、思(おぼ)しけん、
  其の後、御朱印の面、御違却有りて、

 土佐は、僻遠の彼方。      →ポ02② 本能寺への道 そ第78話⑨
 どうにもならぬ問題である。
 したがって、そこには、情報の受け止め方等に、微妙な温度差のような
 ものが生ずる。
 すなわち、ズレのようなものが・・・・・。

 元親は、生まれて来るのが遅すぎた。
 信長、天文三年1534の生れ。
 元親、天文八年1539の生れ。
 その差は、五年。
 これは、大きい。
 残念である。  

 信長には、十分な余裕があった。
 西国攻めの準備は、すでに、出来上がっていた。

 信長は、先を急いでいた。
 「天下布武」=「天下統一」へ向かって。

 「人間五十年」
 信長は、目的意識がきわめて強い。

 信長は、水軍を必要としていた。
 すなわち、瀬戸内海の制海権確保。
 そのための、四国北部=阿波・讃岐・伊予なのである。

 ところが、元親と歩調が合わず。
 元親は、信長のスピードに、ついて行くことが出来なかった。

 天正八年1580、閏三月。
 本願寺の光佐顕如が、信長に降伏した。         『信長公記』
 遅くとも、この時までに、元親の阿波統一が、成立していれば、済んだ話
 である。

 元親は、見通しを誤った。
 先を見る目が甘すぎた。

 これすなわち、「油断」。
 「己の問題」、である。

 それだけのこと。

 したがって、信長の「違却」などではない。

 「元親記」は、元親の死後、その功績を顕彰するために、旧臣の手に
 より、江戸時代初期に書かれた軍記物。
 元親に仕えた家臣が、主君のことを悪し様に書くはずはない。
 そのことを念頭に、ある程度、割引いて、参考にすべきである。
 創作・脚色が少なく、優れた史料とされている。

 信長にとって、元親の重要度は、大きく減少していた。
 あの時(天正六年)とは、大違いである。         →【重史180】

 となれば、当然、
 信長は、己の手で、・・・・・。
 と、いうことになる。

 信長は、元親の領地を土佐一国と阿波南半国に定めた。
 これまでの事を配慮したわけである。

  予州・讃州、上表申し、阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべしと、
  仰せられたり、
                            (「元親記」)

 だが、しかし、・・・・・。


 【引用】

 【参照】
 【重史179】                 ✓ 天正06 157801026
  ①惟任日向守に対する書状、披見せしめ候、
  ②阿州面(おもて)に在陣、尤(もっと)もに候、
  ③次に、字(あざな)の儀、信を遣はし候、
  ④即ち、信親、然るべく候、
                          「土佐国蠧簡集」

 【重史180】                 ✓ 天正06 157801026
  ①御奏者は、明智殿なり、
  ②明智殿御内、齋藤内蔵助は、元親卿には小舅になるなり、
  ③則ち、信と云う御字を給わる、
  ④これに依り、信親と云しなり、
  ⑤此の由緒を以って、
  ⑥四国の儀は、元親、手柄次第に、切り取り候へと、
  ⑦御朱印頂戴したり、
                             「元親記」



 ⇒ 次へつづく

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