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本能寺の変1582 【重史179】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史179】 「土佐国蠧簡集」

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史179】 ◎第50話①

①惟任日向守に対する書状、披見せしめ候、

②阿州面(おもて)に在陣、尤(もっと)もに候、

③次に、字(あざな)の儀、信を遣はし候、

④即ち、信親、然るべく候、

                     「土佐国蠧簡集」


 天正六年1578、十月二十六。             157801026
 
 長宗我部元親は、信長と誼を通じた。

 これを仲介したのが、明智光秀である。

 この時、元親は、阿波を攻めていた。

 信長は、これを承認した。

  惟任日向守に対する書状、披見せしめ候、
  仍(よ)って、阿州面(おもて)に在陣、尤(もっと)もに候、
  弥(いよいよ)、忠節を抽んでらるべきの事、簡要に候、

 信長は、元親の嫡男弥三郎に「信」の一字を与えた。

  次に、字(あざな)の儀、信を遣はし候、 
  即ち、信親、然るべく候、
  猶(なお)、惟任申すべく候也、
  謹言

  十月廿六日           信長
   長宗我部弥三郎(信親)殿
             (「土佐国蠧簡集」「織田信長文書の研究」)

 阿波の三好は、共通の敵。
 当時、信長は、大坂石山本願寺を攻めていた。
 阿波の三好氏は、その本願寺に与す。
 これすなわち、共通の敵。

 信長は、長宗我部元親を味方につけた。
 そういうことになる。

 信長は、機嫌がいい。
 「三好の背後を衝く」
 満足していた。
 光秀の手柄である。

 信長は、光秀を元親の取次とした。
 「猶、惟任申すべく候也」、とある。

 本願寺の勢力が、最強だった時期。
 戦いは、先行きが見えず。
 長期戦なると思われた。

 信長には、余裕がなかった。
 正に、「渡りに船」。
 好都合であった。 

 長宗我部元親は、四国制覇を目指していた。
 阿波のみならず、伊予・讃岐にも触手を伸ばしていた。
 「易々とは、終わらぬ」
 信長と本願寺の戦いは、長引くものと思っていた。
 「ならば、その間に・・・・・」
 おそらく、そう、思っていたのだろう。 

 両者の利害は、完全に一致した。
 これ以後、暫しの間、良好な関係がつづく。

 「明智の将来は、明るい」、はず、だった・・・・・。


 【引用】◎第50話① 第50話



 ⇒ 次へつづく

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