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本能寺の変1582 【重史183】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史183】 「天王寺屋会記」

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史183】

①同卯月十二日朝、友閑 長谷川宗仁

②一、小長板ニふとん・しがらき、二ツ置く、

                     「天王寺屋会記」


 天正三年1575、四月十二日。             157500412

 信長は、住吉にいた。          →【重史182】『信長公記』
 以下、信長の足取り。 
 
   
四月六日   京より、出陣。
          八幡着。
   〃 七日   若江着。
   〃 八日   高屋城を攻めた。
          信長は、駒ケ谷山に陣取った。
   〃 十二日  信長は、住吉に陣を移した。

 松井友閑は、堺にいた。                 →【人物】
 同日、朝。
 こちらは、堺。

 友閑が動いた。
 天王寺屋 津田宗及を訪ねた。         →【人物】 そ第11話⑯
 長谷川宗仁も一緒である。                →【人物】
 
  同卯月十二日朝、      友閑 長谷川宗仁
  一、小長板ニふとん・しがらき、二ツ置く、
  一、床ニ船子(絵)、掛けて、
     上の台 天目、たなニ、
     てうず間ニしやうじあけ申し候、
    仕立 魚+孚(海豚イルカ)鱠(なます)、中椀ニ、 白鳥の汁、
       にあわび、 かまぼこ一板、 でんがく、
    菓子 たかつき盆ニきひし(生菱)、あぶらもの、
                         (「天王寺屋会記」)

 恫喝の裏には、懐柔があった。
 「三好康長の一件」                 →【人物】
 おそらく、そのことだろう。 
 信長の、高屋城攻めについて等々・・・・・。

 夕閑は、堺の代官。                 →【人物】
 信長の重臣・側近・吏僚。
 宮内卿法印。
 生没年不詳。
 高齢者である。
 おそらく、六十代の初めぐらいか・・・・・。
 堺の代官に任じられたのは、もう少し前なのではないだろうか。

 この七年後。
 天正十年1582三月、甲斐に出陣した信長から友閑へ送られた書状
 には、
 「路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、罷り越すべからず候」
 と、ある。               →【重史019】「武家事紀」
 この時は、すでに、七十代に突入していたものと思われる。

 宗及は、堺の商人・茶人。          →【人物】 そ第11話⑯
 三好から信長に乗り換えた①~⑤。

 時代が、大きく変化していた。

 ①永禄十一年1568
  二月 宗及は、三好氏にすり寄っていた。
                →「天王寺屋会記」自 二月二十六日条
  九月 信長が上洛。                →『信長公記』
     堺は、抗戦派と和平派に分かれた。
     宗及は、和平派だった。
     今井宗久も、これに同じ。
     その宗久が、信長に祗候した。        →『信長公記』
     宗及は、先を越される格好になった。

 ②永禄十二年1569
  抗戦派が優勢だった。
  堺衆は、三好方へ与した。   →「天王寺屋会記」他 一月十一日条

  信長は、堺へ軍勢を派した。
  これを制圧。
  この時、宗及が上使衆をもてなしている。
  信長への接近の始まりである。
                 →「天王寺屋会記」自 二月十一日条

 ③元亀三年1572
  分岐点に、なった年である。
  引き潮の如し。
  三好の勢力が後退した。
  入れ替わりに、織田の勢力が入って来た。

 ④天正元年1573
  七月  義昭追放。
      世の中が変わった。
      信長の時代が始まった。
  十一月 妙覚寺の茶会に参列。
               →「天王寺屋会記」他 十一月二十三日条
 
  十二月 信長の家臣たちとの交流も始まった。
      「塙九郎左衛門・河じり与兵・やなた出羽守」
                 →「天王寺屋会記」自 十二月二日条
      松井友閑、来訪。   →「天王寺屋会記」自 十二月五日条
      これが、会記における友閑の初見である。

 ⑤天正二年1574
  信長の茶会に、頻繁に顔を出している 。    →「天王寺屋会記」他
  正月 岐阜城。
  二月  〃
  三月 相国寺。
   〃  宇治。
  四月 相国寺。
     この時、千宗易と二人、蘭著待を賜った。

 長谷川宗仁は、京都の商人。
 茶人であり絵師でもあった。 
 天文八年1539の生れ。
 次第に、信長の家臣化していったようである。
 松井友閑とは、親しい関係にあった。
 同じく、津田宗及とも。
 
 都人ゆえだろうか。
 「頸の配達人」
 信長の命である。
 天正元年八月、朝倉義景の首級を京へ運び獄門にかけた (『信長公記』) 。
 天正十年三月、武田勝頼    〃    〃       〃   。

 すなわち、信長の家臣二人が天王寺屋を訪れたわけである。
 そして、主君信長は、住吉にいる。

 夕閑は、津田宗及と親しい関係にあった。
 友閑もまた、茶人。
 役目の上からも、また個人的にも。

 宗及は、三好康長の知己・茶友。     →【人物】 そ第11話⑯

 友閑は、当然、そのことを知っていた。
 長谷川宗仁、同。

 津田宗及は、急ぎ、河内高屋城へ・・・・・。
 おそらく、裏では、その様なことがあったのではないだろうか。
 信長は、敢えて、力攻めをしなかったのだから。


 【引用】

 【参照】【重史182】天正03 157500406
  ①四月六日、信長、京都より直ちに南方へ御馬を出だされ、
  ②四月八日、三好笑岩(康長)楯籠る高屋へ取り懸け、
  ③四月十四日、大坂へ取り寄り、作毛を悉く薙ぎ捨て、
  ④御人数、十万余騎のつもりなり。
  ⑤都鄙の貴賤、皆耳目を驚かすばかりなり。
                            『信長公記』



 ⇒ 次へつづく

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