見出し画像

本能寺の変1582 【重史184】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史184】 『信長公記』

はじめに ←目次  ←【 重要史料 】 【全】 【 重史一覧 】 【四国】 ←  
重要 ◎目次 
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史184】

①高屋に楯籠る三好笑岩、

②友閑を以て、御侘言(わびごと)、御赦免候ひしなり。

                       『信長公記』


 天正三年1575、四月十六日。             157500416

 信長は、遠里小野に陣取った。
 自身、耕作薙ぎを行なう。
 
  四月十六日、遠里小野へ信長御陣取り。
  近辺の耕作、信長御自身、薙させられ、
                           (『信長公記』)

 信長は、新堀城に目をつけた。
 大阪市住吉区長居東1丁目。
 本陣から、北東へ僅か一キロほど。
 取るに足らない小城である。
 康長の高屋城と連携していたのだろう。
 三好の残党が立て籠もっていた。
 守将は、十河因幡と香西越後。
 孤立無援。
 兵数不明。
 おそらく、五、六百程度か。
 
  堺の近所に新堀と申す出城拵(こしら)へ、
  十河因幡守・香西越後、大将として楯籠る。

 同十七日
 信長は、新堀城を包囲した。
 
  四月十七日、御馬寄せられ、取巻き、攻めさせられ、

 同十九日
 信長は、新堀城を攻め落とした。
 
  四月十九日、夜に入り、
  諸手、諸(もみ)合ひ、
  火矢を射ち入れ、塡(うめ)草を入れ、攻めさせられ、
  大手・搦手(からめて)へ切つて出づ。

  然而(しかるに)、香西越後、生捕(いけどり)に罷りなり。
  縄に懸かり、眼をすがめ、口をゆがめ、御前へ参り候。

  夜中には候へども、香西と御見知り候て、
  日比(ひごろ)届かざる(不届きな)働き、仰せ聞かせられ、誅させられ候。

  討ち捕る頸の注文。
  香西越後・十河因幡・十河越中・十河左馬允・三木五郎大夫・
  藤岡五郎兵衛・東村大和・東村備後。
  此の外、究竟(くつきよう)の侍、百七十余討死。
                           (『信長公記』)

 香西越後は、三好方の人物である。             【人物】
 生年不詳。
 元亀元年1570、信長が三好三人衆を野田・福島に攻めた時。
 三好政勝とともに、信長に投降した (『信長公記』) 。
 したがって、信長は、越後守の顔をよく知っていた。
 しかし、同三年、信長を裏切り、再び背いた。
 その後、義昭に与し、本願寺と結ぶ。

 これを見て、・・・・・。

 高屋城の三好康長が降伏した。
 松井友閑の介添えによる。

 信長は、三好康長を赦した。
 全ては、筋書き通り。
 
  高屋に楯籠る三好笑岩、
  友閑を以て、御侘言(わびごと)、御赦免候ひしなり。
                           (『信長公記』)

 それには、理由(わけ)があった。

 一、本願寺対策。
 一、四国対策。
 一、武田対策。

 三好康長は、利用価値の高い男。
 
 天正元年十一月、三好義継、自害。
 信長は、三好宗家=三好長慶家を滅ぼした。

 同年十二月、和睦拒否。
 信長は、三好長治を赦さない。
 阿波の三好家=三好義賢(実休)家を滅亡へと追い込んでいた。
 
 「刃むかう者は、容赦せず」
 「なれど、三好の血脈は残す」

 すなわち、
 本流=「三好宗家」・「阿波の三好家」を消去し、
 血の濃い支流=三好康長をそれに代える。

 三好氏は、四国の名門・名家。
 本願寺との結びつきも強い。

 ならば、・・・・・。
 「役に立つ」

 信長の深慮遠謀。
 「何れ」、・・・・。
 その時のための三好康長。

 そう、考えたのだろう。

 これが、信長の筋目。
 流儀であった。

 ここに、注目!!

 これと、同様のことが、
 この七年後、天正十年1582。
 武田に対しても、為されている。
 すなわち、
 武田勝頼の自害、
 穴山梅雪の赦免・取り立て。
 信長は、武田の血脈を残した。

 ということは、・・・・・。
 毛利も、これに同じ。
 おそらく、武田の二の舞いになっていた・・・・・。
 そして、その血脈は、残した・・・・・。

 だが、その直前に、本能寺の変が起きた。
 毛利は、光秀のおかげで、命拾いすることができたのである。

 信長は、破壊者にあらず。
 保守的な部分を併せ持ちつつ。
 新たな時代を創造する男なのである。

 また、
 この頃、武田の動きが活発だった。

 信長は、誇り高い男。           →【信長の人物像】 信03
 前年、天正二年1574。
 二度の負け戦。
 二月、東美濃、明智城。                『信長公記』
 六月、遠江、高天神城。                『信長公記』
 このことが、あった。

 信長は、勝頼の南進を警戒していた。
 次は、「三河」・・・・・。
 そう、狙いを定めていたものと思う。

 武田勝頼、出陣す。
 この年、天正三年1575。
 三月下旬頃  武田の先遣隊、三河に進出。
 四月十二日  信玄の三回忌法要。
 〃 中頃   勝頼、出陣。        

 徳川家康から、信長へ。
 逐一、連絡が入っていた。

 信長は、兵力を温存しておかねばなかなかった。
 武田との決戦に備えて。

 その様なタイミングだったのである。

 斯くして、
 信長は、畿内から三好の勢力を払拭した。
 そして、河内一国を手に入れた。
 否、そればかりにあらず。
 和泉も支配下に置いた(「柴田勝家宛信長朱印状」四月二十二日付)。

 信長は、塙直政(原田)に河内の破城を命じた。       →【人物】
 すなわち、直政に、河内の軍事指揮権を与えた。
 
  塙九郎左衛門に仰せ付けられ、
  河内国中、高屋の城を初めとして、悉く破却。
                           (『信長公記』)

 信長は、石山本願寺を孤立させようとしていた。
 包囲体制の構築。
 北に、荒木村重。
 南に、塙直政。
 東に、光秀と細川藤孝。
 西は、海。

 信長には、自信があった。

  大坂一城落去、幾程もあるべからず。
                           (『信長公記』)

 同二十一日
 信長は、京に凱旋した。
 
  四月廿一日、京都に至つて御馬を納められ、天下諸色を仰せ付けらる。
                           (『信長公記』)

 これで、後顧の憂いがなくなった。

 となれば、・・・・・。

 武田勝頼、三河へ。
 四月二十一日 勝頼、三河作手で先遣隊と合流。

 同二十一日
 こちらは、堺。
 松井友閑・長谷川宗仁・津田宗及、三人が顔を合わせた。
 何を話したのだろうか・・・・・。
 
  同四月廿三日、 もずや新太郎会      友閑 長谷川宗仁 宗及
  床に九重の大壺、
  はいかつぎの天目、台なし、
                         (「天王寺屋会記」)

 武田勝頼、長篠へ。
 五月一日   勝頼、長篠城包囲。
 〃 二十一日 長篠の戦い。


 【引用】

 【参照】
 【重史182】 天正03 157500406
  ①四月六日、信長、京都より直ちに南方へ御馬を出だされ、
  ②四月八日、三好笑岩(康長)楯籠る高屋へ取り懸け、
  ③四月十四日、大坂へ取り寄り、作毛を悉く薙ぎ捨て、
  ④御人数、十万余騎のつもりなり。
  ⑤都鄙の貴賤、皆耳目を驚かすばかりなり。
                            『信長公記』

 【重史183】 天正03 157500412
  ①同卯月十二日朝、友閑 長谷川宗仁
  ②一、小長板ニふとん・しがらき、二ツ置く、
                          「天王寺屋会記」



 ⇒ 次へつづく

いいなと思ったら応援しよう!