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本能寺の変1582 【光秀という男】 結論 №6-094 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【光秀という男】 結論       №6-094

はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
【五大要因】  
1 時代の風潮 1 2 3
2 光秀の実像 1 2 3 4 5 6
3 光秀の苦悩 1 2 3 4 5
4 武田の滅亡 1 2 3
5 信長の油断 1 勝利の余韻
         「事態急変」
         2 四国出陣
         3 足蹴事件
         4 中国出陣
         「時は今」
さる程に、不慮の題目出来候て、
【注目ポイント】 目次
【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正

【光秀という男】 結論               №6-094

 【光秀という男】

目次

1/7  ①~㉖ 光秀の実像=真の姿。「要因」の一つ。   【注ポ01】
2/7  ①~③ 光秀には、細川藤孝に仕えた時期があった。
3/7  ④~⑥ 光秀は、出来る男。信長の気心をよく知っていた。
4/7  ⑦~⑨ 新参者。出来る男。信長の性格・気性を知悉していた。
        忠義心が希薄。自立心が強かった。     【注ポ02】
5/7  ⑩~⑱ 典型的な戦国武将。手段 殺戮 自立心 猜疑心 執念 兵法。
        光秀の本性。典型的な戦国武将。「変」の根底。
                             【注ポ03】
6/7  ⑲~㉒ 光秀は、出来る男。信長の性癖をよく知っていた。
        信長は、誇り高い男。逆らってはならぬ。要因。
                             【注ポ04】
7/7  ㉓~㉖ 典型的な戦国武将。出来る男。明智の再興。なれど・・
                             【注ポ05】

結論

1~4/x 目  変の一因
5~8/x 目  京都馬揃え
9~14/x 目  ヴァリニャーノ来訪
15~17/x 目 安土夜祭り
18~19/x 目 スペインの野望
20~21/x 目 信長の「さらなる夢」
22~25/x 目 逆風     

1/x 目 【注ポ06】
2/x 目 3/x 目 4/x 目 5/x 目 6/x 目 7/x 目 8/x
9/x 目 10/x 目 11/x 目 12/x 目 13/x 目 14/x 目 15/x
16/x 目 17/x 目 18/x 目 19/x 目 20/x 目 21/x 目 22/x
23/x 目 24/x 目 25/x 目目 24/x 目 25/x 目

史料
【重史241】 1/2 2/2 【重史001】 【重史101】 【重史006】
【重史007】 【重史008】 【重史098】 【重史172】 【重史173】
【重史181】 【重史190】 【重史174】

概略 20/x
関連史料 1京都馬揃え 2ヴァリニャーノ来訪 3安土夜祭り
     4スペインの野望 5信長の「さらなる夢」 6光秀の思い
     
【重史140】 【重史141】 【重史142】

1/X

信長は、典型的な戦国武将。         →【信長という男】 目次
猜疑心が強く、用心深い。
「隙」を見せぬ男。
粘り強く、執念深い。

光秀も、これに同じ。             →【光秀という男】 5/7
典型的な戦国武将。

猜疑心が強く、注意深く、用心深い。
同、「隙」を見せぬ男。
そして、粘り強く、執念深い。

二人は、「同じ穴の狢」。           →【光秀という男】 5/7
「打てば響く」
周波数が合った。

光秀は、出来る男。              →【光秀という男】 3/7
キレ者である。
優れた能力の持主だった。

光秀は、洞察力に優れていた。
         →【光秀という男】 4/7
光秀は、信長の性格・気性を知りつくしていた。
信長の心の内を読み取ることが出来た。

信長は、合理主義者。            →【信長という男】 目次
有能な家臣を求めていた。

信長は、大いに気に入った。
これを抜擢・登用した。

正に、「水を得た魚」。
以後、光秀は、出世街道を驀進する。

【注ポ06】
信長の夢は、「天下布武」。
         →【信長という男】 目次

光秀の夢は、「明智の再興」。

二人の志向は、合致した。
この頃は、利害が一致していた。

すなわち、互いに、利用し、利用される間柄。
二人は、利害で結ばれた関係にあった。

つまり、
互いに、深く、信頼し合って結ばれた関係ではなかった、ということ。

利害が、一致している間は、良好な関係がつづくが、
それが、崩れれば、破綻する、きわめて、脆い関係にあった、
ということである。

時は、戦国時代。
相互不信の時代である。

それは、やがて、現実のものになる・・・・・。

要注意!!
信長と光秀。
以上、二人の個性の根本が、「本能寺の変」の要因の一つとなった。

2/X

光秀は、新参者。               →【光秀という男】 4/7 
信長とともにあった十五年。
織田家中では、特異な存在だった。

光秀は、度々、主君を替えている。       →【光秀という男】 4/7 
元々、忠義心が希薄な人物だった。

 土岐氏→牢人→藤孝→義昭→信長

そして、最終的には、その信長をも裏切ることになる。
それが、天正十年1582六月二日、「本能寺の変」。

光秀は、自立心が強かった。
裏を返せば、そういうことになる。

このこともまた、「本能寺の変」の一因となった。
すなわち、光秀の個性に関する部分。
要注意!!

3/X

光秀は、典型的な戦国武将。          →【光秀という男】 5/7 
目的のためには、手段を選ばぬ男。
大量殺戮を厭わない。

光秀は、兵法に通じていた。          →【光秀という男】 7/7
七十二の方法。

光秀は、信長の懐中深くに入り込んでいた。  【光秀という男】 3/7 6/7

光秀は、信長を瞞着した。
           →【光秀という男】 7/7

斯くして、明智の再興は成った。        →【光秀という男】 7/7
「大願成就」
元亀二年1571、比叡山の大学(延暦寺)の全収入。
天正八年1580、丹波、丹後二ヵ国の国主。

なるほど、国持大名には成った。
「持たざる者」「持てる者」
「攻め」→「守り」

なれど・・・・・。

やがて、二人の志向に微妙なズレ(相違)が生じて来る。

そして、それが次第に成長して、
ついには、「本能寺の変」の一因となる。

4/x

天正八年1580、「本願寺、退城」 。
戦いが終われば、粛清が始まる。  →【粛清 佐久間信盛】 【重史163】

信長は、合理主義者。       →【粛清 佐久間信盛】 【重史168】
無駄を嫌う。
「役に立つのか、立たぬのか」
その様な目で、重臣たちを見ていた。

佐久間信盛は、大坂攻めの総指揮。 →【粛清 佐久間信盛】 【重史010】
織田家の重臣筆頭者。  
大身であり、家中最大の軍事力を有していた。

信長は、忍耐強く、執念深い。   →【粛清 佐久間信盛】 【重史167】
根に持つタイプ。
後で、必ず、蒸し返す。


信長は、信盛をよく見ていた。   →【粛清 佐久間信盛】 【重史238】
元亀三年1572、「三方ヶ原の合戦」。
天正元年1573、「朝倉破軍の刻(きざみ)」。

そして、事件が起きた。      →【粛清 佐久間信盛】 【重史010】
信長は、重臣と雖も容赦しない。 
信盛を「追放」
すなわち、「粛清」=排除。

信長は、粛清の人。        →【粛清 佐久間信盛】 【重史163】
不意を衝く。
恐ろしい男なのである。

  
信盛は、非業の最期を遂げた。   →【粛清 佐久間信盛】 【重史010】
十津川の湯にて、死す。      →【粛清 佐久間信盛】 【重史173】

織田家中に戦慄が走った。
特に、重臣たち。
「見せしめ」
・・・・・。
そう、思ったに違いない。

「明日は、我が身」

光秀は、大きな衝撃を受けた。

すなわち、
光秀には、粛清への恐怖心があった。
と、いうことになる。

のみならず、秀吉にも、勝家にも・・・・・。
当然、そうなるであろう。

これに、さらに、諸因が積み重なって行く。

それらが、積もりに積もって、
光秀は、苦悩する。

そして、
ついには、極限状態に追い込まれる。

だが、
光秀は、知っていた。
その解決方法を・・・・・。

なれど、・・・・・。

ところが、・・・・・。

光秀は、・・・・・。

それが、「本能寺の変」。

すなわち、
光秀の、粛清への恐怖心が、その一因となった、
と言える。

5/x

天正九年年1581、「京都馬揃え」 。              

信長は、これを光秀に命じた。

 正月廿三日、惟任日向守に仰せ付けられ、
 京都にて、御馬揃へなさるべきの間、
                      【重史191】『信長公記』

イエズス会の巡察師ヴァリニャーノが、上洛。
信長に、拝謁した。

 二月廿三日、きりしたん(切支丹)国より黒坊主参り候。 
 (中略)
 伴天連、召し列れ参り、御礼申し上ぐ。
                      【重史242】『信長公記』

この時、九州にいたルイス・フロイスも、これに同行している。
                      →【重史014】 【人物】

フロイスとの出会いについては、以下を参照。

【重史140】                   永禄12 156900313
  ①司祭が都に到着して三日を経、
  ②和田殿は、司祭が信長の許へ伺候する準備整えた。
  ③信長は、邸の奥に入っていて、音楽を聞いていた。
  ④信長は、贈物を見た後、ビロードの帽子だけを受理した。
  ⑤幾千里もの遠国から、はるばる日本に来た異国人たちを、
                             『日本史』

【重史141】                   永禄12 1569003**
  ①信長は、建築作業に従事しており、
  ②濠橋の上で待った。
  ③彼は、約二時間、ゆったりした気分で、彼と語らった。
  ④どれくらいの道のりがあるのか
  ⑤かくも遠隔の国から日本に渡ってきたのか
  ⑥信長は、仏僧の方を指さし、憤激して言った。
  ⑦予は、幾度も、彼らを殺害し、殲滅しようと思っていたが、
                             『日本史』

【重史142】 そ第11話㉙             永禄12 156900414
  ①通常二万五千人が働き、少ない時でも、一万五千人を数えた
  ②彼は多数の石像を倒し、頸に縄をつけて工事場に引かしめた。
  ③信長は、ほとんどつねに、座るために虎皮を腰に巻き、
  ④一兵士が、戯れに一貴婦人の顔を見ようとして、
  ⑤信長は、一同の面前で、手ずから彼の首を刎ねた。
  ⑥少なくとも、二、三年はかかると思われたものを、
  ⑦彼は、ほとんどすべてを七十日間で完成した。
                             『日本史』

信長は、きわめて、好意的だった。
ヴァリニャーノ一行を大いに歓待した。

フロイスは、この時の会見について、
「長時間種々のことについて語った」
「信長としては非常な好意であった」
「諸人皆驚いた」
と、本国に報告している。
        (天正九年四月十四日付「イエズス会日本年報」上124P)

信長は、東アジアにおける彼らの行動に大きな関心を示した。

そして、このことが、信長の「さらなる夢」へと繋がっていく。

6/x

「御馬揃の事」
その当日である。

それは、正親町天皇御叡覧のもとで始まった。

 二月廿八日、
 五畿内隣国の大名・小名・御家人を召し寄せられ、駿馬を集め、
 天下に於て、御馬揃へをなされ、
 聖王へ、御叡覧に備へられ訖んぬ。
                      【重史200】『信長公記』

正に、「晴れの舞台」。

 扨(さて)も、儀式の御結構(=内裏)、美々しき有様、
 筆にも、詞(ことば)にも、述べがたく、
 何れも、々々々(=観衆)、晴(はれ)ならずと云ふ事なし。
                      【重史200】『信長公記』

光秀は、先頭集団の三番手として登場した。
一番、丹羽長秀。
二番、蜂谷頼隆。
三番、明智光秀。

 三番、惟任日向守、幷(なら)びに大和・上山城衆。
                      【重史201】『信長公記』

四番、村井貞成。

信忠以下、織田家の一族衆が、これにつづく。
これで、序列がよくわかる。

  御連枝の御衆。

  中将信忠卿、馬乗八十騎、美濃衆・尾張衆。
  北畠中将信雄、馬乗三十騎、伊勢衆。
  織田上野守信兼、馬乗十騎。
  同三七信孝、馬乗十騎。
  同七兵衛信澄、馬乗十騎。
  同源五(長益=弟十男)。
  同又十郎(長利=弟十一男)。
  同勘七郎。
  同中根(信照=弟)。
  同竹干代(信氏=甥)。
  同周防。
  同孫十郎。
                      【重史201】『信長公記』

その後に、
近衛前久他公家衆、
細川信良他旧幕臣衆、
信長の馬廻・小姓衆、
と、つづき、

柴田勝家も、越前衆を率いて参加していた。

  越前衆。
  柴田修理亮・同伊賀(勝豊)・柴田三左衛門、
  不破河内守(光治)・前田又左衛門(利家)・金森五郎八(長近)・
  原彦次郎(政茂)。
                      【重史201】『信長公記』

秀吉は、これには、参加していない。
秀吉は、播磨(姫路)にいた。
信長の側近 長谷川秀一に送った書状(三月五日付)の中で、
「参加できず、残念である」、と言っている。

【参照】 【重史202】             ✓ 天正09 158100305
  ①今度、御馬揃の儀、夥敷(おびただしく)、相聞え申し候事、
  ②参上せしめず候段、無念に存ずる計(ばか)りに候、
  ③爰元、(姫路城の)普請等、漸(ようや)く出来候、
                            「富田文書」

7/x

やがて、信長の行列がやって来た。           →【重史243】

先手は、弓衆。
「二手に分けて、二段に参り候なり」

つづいて、信長の乗馬。
一番~六番。
信長は、無類の馬好きだった。

次、坊主衆。
武井夕庵(せきあん)・楠木正虎・長雲軒妙相・松井友閑らの吏僚。
皆、法体である。

その次、曲彔(きょくろく)持ち四人。
伴天連から献上された椅子。

その後に、小姓衆。                  →【重史244】
太刀持ち・長刀持ち等が続いた。

そして、信長が現れた。

  御馬大黒に召され、惣御人数廿七人。

  御行縢、地を金に虎の府(斑)を繍(ぬいとり)に、
  御鞍重(くらかさね)、御あをり、御手綱、腹帯、尾袋まで同前。
  紅の総房の鞦(しりがい)*1に、やうらく(瓔珞)*2を付けさせられ、

  *1 鞦(しりがい) 馬の鞍を安定させるために尾の下を通す帯紐。
  *2 やうらく(瓔珞) 飾り物

この時の、信長の装いである 。

御眉にて、ほうこう(頬当)めされ。
頭に、とうかむり(唐冠)。
首の後ろに、花を挿し。
小袖は、紅梅に白。

ここで、細川忠興の名が出てくる。
信長は、忠興のことをよく知っていた。
同の将来は、明るい。

肩衣は、べにどんす(紅緞子)。
袴、同。
腰に、ぼたんの作り花をさし。
白熊(はぐま=ヤクの尾毛)の腰蓑をつけ。
沓(くつ=履物)は、猩々皮(しょうじょうひ=ワインレッド)。

信長は、大勢の観衆を大いに魅了した。

  (信長の)花やかなる御出立(いでたち)・御馬場入りの儀式、
  さながら、住吉明神の御影向(ようごう=神仏が来臨すること)も、
  かくやと、心もそゞろに、
  各(おのおの)、神感(=神が感応すること)をなし奉り訖(おわ)んぬ。
                      【重史244】(『信長公記』)

8/x

近隣諸国の大小名も、参加した。          →【重史245】
彼らの出で立ちもまた、華やかなものだった。
        
馬揃えは、辰の刻から未の刻(8時頃~14時頃)まで行われた。

中でも、信長の三人の息子たちは、特に、華やかさが際立った。
                           →【重史246】      
信忠(嫡男)、弘治三年1557の生まれ、この年25歳。
信雄(二男)、永禄元年1558 〃    〃 24歳。
信孝(三男)、同年       〃    〃 24歳。

信長は、大衆に絶大な人気があった。          →【重史246】

「天下安泰」
人々は、世の平和を実感していた。
すべては、信長のおかげ。

  貴賤群集の輩(ともがら)、かゝる目出たき御代に合ひ、
  天下安泰にして、
  黎民(れいみん=庶民)、烟戸(かまど)さ(鎖)ゝず、
  生前の思ひ出、有りがたき次第にて、上古・末代の見物なり。
                      【重史246】(『信長公記』)

正親町天皇は、大そう御喜びになられた。
「十二人の御勅使を以て」、「忝くも、御綸言(りんげん)」。

信長の功績は、きわめて大きい。
「信長の御面目」、「勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず」。

信長は、本能寺に帰った。
「晩に及び、御馬を納められ」、「本能寺に至つて御帰宅」。

めでたし、めでたし。
「千秋万歳、珍重々々」
                      【重史246】(『信長公記』)

9/x

フロイスの見た「京都馬揃え」。            →【重史247】 
その著書『日本史』には、次のように書かれている。

「武将、七百人」
「群集、二十万人」
「絢爛(けんらん)豪華」
「天皇、御叡覧」

信長は、ヴァリニャーノ一行のため桟敷(さじき)を用意した。
「高台から見物できる」
「よく設備された立派な場所」
すなわち、貴賓席。
信長の厚遇ぶりがよくわかる。

「ビロードの椅子」

信長は、これを大いに気に入った。

「一度馬から降りて椅子に座って見せ」

信長は、誇り高い男。          →【信長という男】 目次 2/5
己が天下の支配者であることを、広く世に知らしめた。

10/x

信長が、安土へ帰った。                →【重史248】

ヴァリニャーノは、その後を追った。
信長のことを、もっとよく知りたかった。

ヴァリニャーノの見た安土。
安土は、日本でもっとも気品がある市(まち)。
安土は、清潔で美しい市(まち)。
安土の人口は、六千人。

安土は、信長の性格が見事に反映された市(まち)だった。

11/x

信長は、ヴァリニャーノの来着を待っていた。      →【重史249】
信長は、この年(天正九年)、四十八歳。
まだ若い。
体中に、気力・体力が漲っていた。

本願寺を屈服させた今。                →【重史222】
「天下布武」は、大きく前進した。

手の届く距離に近づいた。

信長には、大きな余裕があった。
時間的にも、精神的にも、軍事的にも、経済的にも・・・・・。

信長は、その後のことを考えた。
当然、そうなるであろう。

信長は、東アジアの情勢に大きな関心をもっていた。
正に、「興味津々」。
世界は、大航海時代(15世紀半ば~17世紀半ば)の真っ只中にあった。

なかでも、「シナ」について。
当時の中国は、明(1368~1644)の時代。

信長は、ヴァリニャーノ一行を安土城に招待した。    →【重史249】
「城を見せたいと言って」
色々と、話を聞きたいのである。

安土には、イエズス会の修道院があった。
「修道院にいるすべての司祭、修道士、同宿たち」
全員連れて来い、と言っている。

信長は、彼らを大いに歓待した。
「下にも置かぬように」
特別待遇である。

信長は、安土城のすべてをきわめて丁重に案内した。
「初めは外から、ついで内部からも」
「案内するために多くの使者をよこし」

信長は、彼らに最大限の敬意を表した。  
「自らも三度にわたって姿を見せ」
彼らの反応を、己の目で、直に、確認したかったのだろう。

信長は、誇り高い男。          →【信長という男】 目次 2/5彼らの感想=評価を気に懸けた。            →【重史249】 
「司祭と会談し」
「種々質問を行い」
「賞賛するのを聞いて」
「満足の意を示した」
それが、彼らの本国へ伝えられるのだから。

12/x

イエズス会は、シナ全土へ布教を拡大しようとしていた。

イエズス会は、シナの本拠地をマカオに置いた。
現代中国の澳門特別行政区。
明代は、ポルトガル人の居留地だった。

ヴァリニャーノがマカオに赴任した。  ↓略歴
三年前のこと。
先に述べた「ビロードの椅子」は、そこで入手したものである。
                         →9/x 【重史247】

そして、その翌年に、来日。  ↓略歴
二年前である。

したがって、・・・・・。

ヴァリニャーノは、、シナの事情に精通していた。
おそらく、そのことが話題の一つになっただろう。

信長は、シナについて、もっと、詳しく知りたかった。
好奇心の旺盛な男である。
当然、そうなるであろう。

「長時間」                           →5/x
「種々のことについて語った」 
「司祭と会談し」                         →11/x
「種々質問を行い」

となれば、・・・・・。

彼らこそ、貴重な情報源。
以後、頻繁な交流がつづく。

【参考】
以下、ヴァリニャーノの略歴を示す (「日本巡察記」) 。

 1539(天文八年) イタリアに生まれる。
           信長より、五つ若い。
 1566      イエズス会に入会。
 1573      東インド巡察師に任命される。
 1574      ポルトガルのリスボンより、インドのゴアに到着。
 1577      ポルトガル領マラッカ(マレーシア)に入る。
 1578(天正六年) ポルトガルの居留地マカオ(中国)に到着。
 1579(天正七年)  日本に到着 (第一次日本巡察) 。
 1582(天正十年) 天正遣欧少年使節団に付き添い、マカオ・マラッカ
           を経由して、ゴアに帰還。
           ここで、使節団と別れた。
 1590(天正十八年) 帰国する使節団に同行して、再び、来日 (第二次日
            本巡察)

 1591(天正十九年) 秀吉に謁見。
 1592(天正二十年) マカオに帰着。
            この時、書記として、フロイスを伴っていた。
            なお、彼は、三年後に日本に帰っている。
                         →『日本史』Ⅰ326P            
 1594(文禄三年)  マラッカを訪れた。
 1955(文禄四年)  ゴアに到着。
 1597(慶長二年)  マラッカを経由してマカオに帰還。
 1598(慶長三年)  最後の来日 (第三日本巡察)
            他の修道会との対立問題を緩和させるため。
 1603(慶長八年)  マカオに帰る。
 1606(慶長十一年) 病のため、同地で没す。
             享年66歳。

13/x

ヴァリニャーノは、安土にセミナリオ(神学校)を開校した。 →【重史250】
「ビジタドールは・・・セミナリヨをここに置くことを希望し」

学校長は、オルガンティーノ。        →【人物】 「日本巡察記」
「パードレ オルガンティーノが・・・集めた少年武士二十五、六人が」

セミナリオは、九州有馬にもあった。
現 長崎県南島原市南有馬町。
キリシタン大名有馬晴信の領地。

彼らの日本人観。
神学校の学生(少年武士)について。
「性質良く、才識あり、高雅にして言語洗練され」
「何事にも優れてゐる」

信長は、イエズス会の強力なスポンサー。
「信長は、聖堂を非常に壮麗宏大なるものとすることを希望して」

信長は、何度も、ヴァリニャーノと語り合った。
「数回、パードレと語った」
信長の傾注していく様子が、よくわかる。

全ては、信長のおかげ。
ヴァリニャーノは、そう思っていた。
「この聖堂ができたらば、当城のキリシタンは増加するであろう」
                      (「イエズス会日本年報」)

信長と彼らの関係は、きわめて良好なものだった。

14/x

ヴァリニャーノは、安土に一ヶ月ほど滞在した。     →【重史251】
「当所に約一ヵ月間滞在し」

ヴァリニャーノは、信長に、領内での布教を願い出た。
「この地方のキリシタンを巡視する許可を信長に請うた」

信長は、それを許可した。
むしろ、歓迎している。
「全領内希望の場所に、説教師を派遣することを許し」
「彼の大いに喜ぶところであると言った」
                      (「イエズス会日本年報」)

信長には、ヴァリニャーノと語り合う時間が十分にあった。
そういうことになる。

信長は、ヴァリニャーノから大きな刺激をうけた。
激動する世界。
新たな知識・情報。
等々。

信長は、覚醒した。
おそらく、この頃だろう。

信長の心の中に、「さらなる夢」が芽生えた。
「明」
信長の思いは、東シナ海の向こう側にあった。

ヴァリニャーノは、これを見逃さない。

フロイスも、当然、そのことを知っている。
彼の著述(「年報」『日本史』)を見れば、そのことがよくわかる。

イエズス会にとっては、好都合。
彼らは、そう考えた。

これについては、後述する。

光秀、また、然り。                      →21/x
信長は、オープン。
光秀が、これを知らぬわけがない。

信長の側には、光秀の妹御ツマキ(妻木)が仕えていた。      →21/x
信長のお気に入りである。           →【 重史 007 】250817
光秀の、貴重な情報源でもあった。

光秀には、余裕があった。                   →21/x
この時は、である。
「まだまだ、先のこと」
そう、思っていた。

以上。
話が長くなった。

これが、天正九年1581一月~四月の状況である。
5/x 6/x 7/x 8/x 9/x 10/x 11/x 12/x 13/x 14/x

【重要コメント】 001

要注意!!

これで、ようやく、繋がった。
「京都馬揃え」 → 「ヴァリニャーノ」「シナ」 → 信長の「さらなる夢」

イエズス会の巡察士ヴァリニャーノとの出会いを切っ掛けにして、
信長の「さらなる夢」は、その具体化に向かって、活動を開始した。

そのことが、
「志向の相違」を生み出す主要原因の一つとなり、
    →【五大要因】

次第に、
「光秀の苦悩」を構成する要因の一つに成長する。
    →【五大要因】

そして、
これに、諸因が重なり合って、

光秀は、極限状態に追い込まれて行く。

15/x

天正九年1581、七月**。

ヴァリニャーノは、畿内での布教を終え、再び、安土に帰った。
「パードレがキリシタンの巡視を終わって帰った時」   【重史252】

信長は、ヴァリニャーノに対して格別な好意を示した。
「信長は従前より大なる好意を表した」
異例の好遇だった。
特に、以下一~三に注目。

一、信長は、ヴァリニャーノに気に入りの屏風を贈った。
「好意の一つは、信長が屏風と称し」
「信長は大いに満足してこれを珍重した」

信長は、内裏からの申し出を断った。
「信長は知らざる風をなし、これを贈ることを欲しなかった」

信長は、ヴァリニャーノに親愛の情を示した。
「パードレが帰国せんとするを聞いて」
「親愛の印として」
「帰国の際携へ帰らせんと思ひ」
「パードレがコレジョ(神学校)を絵に描かする希望があらうかと考へ」
「己の屏風を送付する」
「満足すれば留め置くべく、然らざれば送り返せ」

信長は、ヴァリニャーノを尊敬していた。
「パードレは非常に屏風を喜んだ」
「信長は大いに満足し」
「パードレに対する愛の大いなること」
「屏風は彼が非常に珍重するもの」
「内裏が求めても断った」
「パードレを尊敬することを日本全国に知らしむる」

これが、信長がヴァリニャーノに好意を有する証拠である。
「パードレに好意を有する証拠」
「己の喜ぶものを割愛してパードレに与ふる」
「かくの如き好意をパードレに示した」
                 【重史252】「イエズス会日本年報」

16/x

二、信長は、ヴァリニャーノに経済的援助を約束した。  →【重史253】
「つぎにパードレに示した好意は」
「窮乏を感ずることがあった場合には」
「必ず補助をするであらう」

ヴァリニャーノは、控えめに、これを受け入れた。
「返答について協議し」
「何も求めず」
「殿下の好意によって早く実行さるることを期待する」

信長は、大いに喜んだ。
「返答を大いに喜んで」
「援助することを約束し」
                 【重史253】(「イエズス会日本年報」)

17/x

三、信長は、ヴァリニャーノのために「夜祭り」を執り行った。
「第三の好意は我等に夜の祭を観せたこと」       →【重史254】
「パードレのために行ったもの」

ヴァリニャーノ、別れの挨拶。
「パードレが暇乞のために行った際」

信長、ヴァリニャーノを「夜祭り」に招待。
「望みがあればこれを観せよう」

ヴァリニャーノ、十日延期。
「十日間滞在の余儀なきに至った」

惜別の夜。
これが、安土の「夜祭り」である。

「武士はその家で恒例の火を焚き提灯を吊すことを止め」
「城の塔に各種の色の提灯を飾らせ」
「街路の両側に、手に松明(たいまつ)を持った多数の人を整列させ」
「昼の如く大いに明るく」

信長は、ヴァリニャーノから多大な影響を受けた。
二月~七月=ヴァリニャーノの上洛~安土の夜祭り。
信長は、濃密な時を過ごした。

「信長はわがカザの門を通過した」
「ビジタドール(ヴァリニャーノ)は他のパードレ達と共に門に出で」
「信長は暫く留って彼等と話し」
「祝祭を見て楽しんだか、何と思ったかと尋ね」

信長は、ヴァリニャーノに大きな親愛の情を示した。
「大なる親愛と歓喜を示して」

信長は、ヴァリニャーノに出発の許可を与えた。
「パードレに出発の許可を与へた」

                 【重史254】(「イエズス会日本年報」)

信長は、ヴァリニャーノに強烈な印象を残した。
これより帰路へ。

なお、
信長の「夜祭り」については、『信長公記』にも同様の記述がある。
信長は、安土城を挑灯(ちょうちん)で飾り立てた。

「七月十五日」
「安土御殿主(天主)、 幷(ならび)に惣見寺に」
「挑灯、余多(あまた)つらせられ」
「御馬廻の人々、新道、江の中に舟をうかべ」、
「手々(てんで)に、続松(たいまつ)とぼ(灯)し申され」
「山下かゞやき、水に移(映)りて」
「言語同断、面白き有様、見物群集に候なり」
                      【重史255】(『信長公記』)

18/x

ここで、東アジアを取り巻く国際情勢と「イエズス会」の動向にについて。

1580年1月。                   →【重史256】
スペイン、ポルトガルを併合。

 一五八〇年一月、ポルトガル国王ドン・エンリーケの死に伴い、
 スペイン国王フェリペ二世が三万の軍勢を率いてポルトガルの首府リスボ
 ンに入り、他の王位継承の候補者達をしりぞけて、
 一五八一年四月ポルトガル国王に即位し、
 以後一六四〇年のポルトガル独立に至るまで、
 六〇年間ポルトガルはスペインに併合されることになる。

スペイン、ポルトガルの領土については干渉せず。

 ポルトガル領インド、即ち東インドに於けるポルトガルの利権に対して
 は、スペイン国王は一切干渉しない旨の約束を最初に行っている。
               (「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎著) 

1581年2月~7月。(陰暦)
ヴァリニャーノ、信長との出会い~安土の「夜祭り」・別れ。

5/x ヴァリニャーノが、上洛。信長に、拝謁した。
6/x 「御馬揃の事」、その当日である。
7/x そして、信長が現れた。
8/x 正親町天皇は、大そう御喜びになられた。
9/x フロイスの見た「京都馬揃え」。
10/x ヴァリニャーノの見た安土
11/x 信長は、ヴァリニャーノ一行を安土城に招待した。
12/x ヴァリニャーノは、、シナの事情に精通していた。
13/x ヴァリニャーノは、安土にセミナリオ(神学校)を開校した。
14/x ヴァリニャーノは、安土に一ヶ月ほど滞在した。
   信長は、覚醒した。「さらなる夢」が芽生えた。
15/x 一、信長は、ヴァリニャーノに気に入りの屏風を贈った。
16/x 二、信長は、ヴァリニャーノに経済的援助を約束した。
17/x 三、信長は、ヴァリニャーノのために「夜祭り」を執り行った。

1582年6月。(陰暦) 
「本能寺の変」
信長、死す。

その半年後。
1582年12月。
この時、ヴァリニャーノはマカオにいた。
天正遣欧少年使節団の一行を伴っていた。       →12/x 【人物】

ヴァリニャーノは、スペインのフィリピン総督に以下の書簡を送った。
スペイン国王は、フィリペ2世 (在位1556~98) 。
フィリピン総督は、ドン・ゴンサロ・ロンキーリ・デ・ペニャロサ。

スペインは、東アジア各地を征服しようとしていた。   →【重史256】
イエズス会の布教活動は、これら征服事業と同時並行で行われた。

 これら東洋に於ける征服事業により、現在いろいろな地域に於いて、
 陛下(スペイン国王)に対し、多くのそして大きな門戸が開かれており、
 主への奉仕及び多数の人々の改宗に役立つところ大である。

 これら征服事業は、霊的な面ばかりでなく、
 それに劣らず陛下の王国の世俗的な進展にとって益する。

スペインの最大の目的は、シナを征服することだった。

 そしてそれらの征服事業の内、最大のものの一つは、
 閣下(フィリピン総督)のすぐ近くのこのシナを征服することである。

ヴァリニャーノは、スペインの征服事業に加担していた。

 私がこの地でえた経験を基に、その件のため判るいくつかの重要な事柄に
 ついて、
 閣下と相談することが出来れば大変嬉しく思う。

イエズス会は、スペインに従属していた。

 私がこのことを閣下に書(き)送るのを望んだのは、
 イエズス会が主や陛下(スペイン国王)に対して忠誠を尽くすべきところか
 ら、
 凡(すべ)てに於いて、
 より大なる主の光栄と陛下への奉仕を願うが故である。
                      1582年12月14日付
         【重史256】「フィリピン総督宛ヴァリニャーノ書簡」
               (「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎著)

19/x

ヴァリニャーノは、日本についても論じている。     →【重史257】

 日本のキリスト教界については、閣下に書(き)送るべきことが沢山有る。
 何故なら私は日本に三年近く滞在して、今年当地(マカオ)に戻って来た
 からである。

日本への布教は、最も重要な事業の一つである。

 私は閣下(フィリピン総督)に対し、霊魂の改宗に関しては、
 日本布教は、神の教会の中で最も重要な事業の一つである旨、断言する
 ことが出来る。

ヴァリニャーノの日本人観。

 何故なら、国民は非常に高貴且つ有能にして、理性によく従うからであ
 る。

日本は、征服事業の対象外。
不向きな国である。


 尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。

理由は、二つ。

一、日本の国土。
  不毛で貧しい。


 何故なら、
 日本は、私がこれまで見て来た中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、
 求めるべきものは何もなく、

一、日本の軍事力。
  きわめて、強力。
  征服不可能である。

 また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練をつんでいるので、
 征服が可能な国土ではないからである。

日本は、利用すべき国。
重要なパートナーである。


 しかしながら、シナに於いて陛下(フィリペ2世)が行いたいと思っている
 ことのために、
 日本は時とともに、非常に益することになるであろう。

 それ故日本の地を極めて重視する必要がある。
                      1582年12月14日付
               「フィリピン総督宛ヴァリニャーノ書簡」
          【重史257】(「キリシタン時代の研究」高瀬弘一郎著)

ヴァリニャーノの心の中には、信長がいた。
天正九年1581、二月出会い~七月別れ。

すなわち、
信長の存在が抑止力になった。
つけ入る「隙」を与えなかった。
そういうことになる。

天正十年1582、六月。
信長没後、その路線は、→秀吉→家康へ。

結果、日本は、侵略されず。
その様な見方もできよう。

20/x

5/x~19/x 概略
信長の「さらなる夢」に関わる部分。

5/x
 天正九年年1581、「京都馬揃え」 。
 信長は、これを光秀に命じた。

 ヴァリニャーノが、上洛。
 信長に、拝謁した。

6/x
 「御馬揃の事」
 その当日である。
 それは、正親町天皇御叡覧のもとで始まった。
 光秀は、先頭集団の三番手として登場した。

7/x
 そして、信長が現れた。
 この時の、信長の装いである。

8/x
 馬揃えは、辰の刻から未の刻(8時頃~14時頃)まで行われた。
 正親町天皇は、大そう御喜びになられた。
 「天下安泰」
 信長は、大衆に絶大な人気があった。

9/x
 フロイスの見た「京都馬揃え」。
 信長は、ヴァリニャーノ一行のため桟敷(さじき)を用意した。
 
10/x
 信長が、安土へ帰った。
 ヴァリニャーノは、その後を追った。
 ヴァリニャーノの見た安土。

11/x
 本願寺を屈服させた今。
 「天下布武」は、大きく前進した。
 信長には、余裕があった。

 信長は、その後のことを考えた。
 信長は、東アジアの情勢に大きな関心をもっていた。
 なかでも、「シナ」について。
 信長は、ヴァリニャーノ一行を安土城に招待した。

12/x
 イエズス会は、シナの本拠地をマカオに置いた。
 ヴァリニャーノがマカオに赴任した。
 その翌年、来日。
 ヴァリニャーノは、「シナ」の事情に精通していた。
 信長は、「シナ」のことを、もっと知りたかった。

 ヴァリニャーノの略歴

13/x
 ヴァリニャーノは、安土にセミナリオ(神学校)を開校した。
 信長は、イエズス会の強力なスポンサー。
 信長は、幾度も、ヴァリニャーノと語り合った。

14/x
 ヴァリニャーノは、安土に一ヶ月ほど滞在した。
 ヴァリニャーノは、信長に、領内での布教(巡視)を願い出た。
 信長は、それを許可した。

 信長には、ヴァリニャーノと語り合う時間が十分にあった。
 信長は、ヴァリニャーノから大きな刺激をうけた。
 そして、覚醒。
 信長の心の中に、「さらなる夢」が芽生えた。

15/x
 ヴァリニャーノは、布教(巡視)を終え、再び、安土に帰った。
 信長は、ヴァリニャーノに対して格別な好意を示した。

 一、信長は、ヴァリニャーノに気に入りの屏風を贈った。

16/x
 二、信長は、ヴァリニャーノに経済的援助を約束した。

17/x
 三、信長は、ヴァリニャーノのために「夜祭り」を執り行った。

 信長は、ヴァリニャーノに大きな親愛の情を示した。
 信長は、ヴァリニャーノに出発の許可を与えた。
 信長は、ヴァリニャーノに強烈な印象を残した。

18/x
 東アジアを取り巻く国際情勢と「イエズス会」の動向にについて。

 1580年1月。
 スペイン、ポルトガルを併合。

 但し、領土については干渉せず。

 1582年12月。
 ヴァリニャーノはマカオにいた。
 ヴァリニャーノは、スペインのフィリピン総督に書簡を送った。

 スペインは、東アジア各地を征服しようとしていた。
 イエズス会の布教活動とこれら征服事業は、同時並行で行われた。
 スペインの最大の目的は、シナを征服することだった。
 ヴァリニャーノは、スペインの征服事業に加担していた。
 イエズス会は、スペインに従属していた。


19/x
 ヴァリニャーノは、日本についても論じている。

 日本への布教は、最も重要な事業の一つである。
 ヴァリニャーノの日本人観。
 高貴・有能・理性。

 日本は、征服事業の対象外。
 不向きな国である。
 理由は、二つ。

 一、日本の国土。
   不毛で貧しい。

 一、日本の軍事力。
   きわめて、強力。
   征服不可能である。


 日本は、利用すべき国。
 重要なパートナーである。

 ヴァリニャーノの心の中には、信長がいた。
 信長の存在が抑止力になった。
 結果、日本は、侵略されず。

21/x

信長の「さらなる夢」は、次第に、熟成されて行く。       →14/x
時間の経過・状況の変化とともに、少しづつ、少しづつ・・・・・。

信長は、きわめて目的意識の強い男。     →【信長という男】 目次
己の「夢」は、必ず、実現する。
「天下布武」は、手に届く距離にあった。

となれば、
それを成し遂げた後・・・・・。

信長は、この年、四十八歳。              →【重史052】
天正九年1581。

まだ、若い。
正に、男盛り。
気力・体力が漲っていた。

信長は、きわめて健康だった。       →【信長という男】 目次
「中背・瘦せ型・快調な声」                   2/5
「酒を飲まない」                        3/5
「清潔な人」                          4/5

「人間五十年」                    →【重史169】
信長は、幸若舞を好んだ。
特に、「敦盛」の、この一節。

  敦盛を一番より外は、御舞ひ候はず候。
 
  人間五十年、
  下天の内をくら(比)ぶれば、
  夢幻の如く也、
  一度生を得て、
  滅せぬ者の有るべきか、
                           (『信長公記』)

信長は、この「五十年」を強く意識していた。
心の奥底に、深く刻み込まれていた。
          →【四国問題】  5月12日 2/7 【重史169】

「滅せぬ者の有るべきか」
「死」は、誰にでも、必ず、訪れる。
信長とて、それは同じ。

信長は、時間を制約されていた。
=急がねばならなかった。

その様な年代だった、ということ。

「天下布武」に、あと五年・・・・・。
これまでの進行速度を見れば、その位になるのではないだろうか。
とすれば、五十三歳。

そして、
準備に、二年・・・・・。
これで、五十五歳。

「シナ」は、その先にあった。
「間に合う」
否、「間に合わす」・・・・・。

おそらく、この頃は、その位のスパンで考えていたものと思う。

すなわち、ギリギリのタイミングであった。

【重要コメント】002

要注意!!

光秀は、出来る男。              →【光秀という男】 4/7
キレ者である。
洞察力に優れていた。
信長の心の内を知りつくしていた。

したがって、
光秀は、当然、信長の「さらなる夢」を知っていた。       →14/x

また、
光秀の妹 妻木氏が、信長のすぐ側に仕えていた。   →【重史006】 14/x
光秀にとっては、貴重な情報源。

となれば、尚更である。
光秀が、これを知らぬわけがない。

信長が、「天下布武」を標榜して、早、十五年。     →【重史098】
ようやく、ここまで、辿り着いた。
「なれど、道は、遠い」
これまでに、要した時間・労力等を考えれば、当然、そうなるであろう。
「一寸先は、闇」
何が起きるかわからぬ時代。
光秀が、そう考えるのも不思議はなかろう。

それ故、
この時(天正九年1581)は、
光秀は、信長の「さらなる夢」について、まだ、それ程、深くは、考えていなかった。                          →14/x

これすなわち、「油断」。
結果としては、そういうことになる。

ここからである。
光秀に、逆風が吹き始めるのは・・・・・。

22/x

天正九年1581、秋。

これが、筆頭重臣の成れの果て。   →【粛清 佐久間信盛】 【重史173】
「佐久間(信盛)、十津川の湯にて、死ぬにつき」
哀れな死に様だった。

信長は、合理主義者。          →【信長という男】 目次 4/5
用が済めば、粛清される。      →【粛清 佐久間信盛】 【重史172】
役に立たねば、粛清される。
邪魔になれば、粛清される。

光秀の脳裏から、このことが離れない。
「明日は我が身」
緊張の日々がつづく。

光秀は、粛清を怖れていた。     →【粛清 佐久間信盛】 【重史172】
そのことが、強烈なプレッシャーとなっていた。

日を置かず・・・・・。

光秀の妹 妻木氏が死んだ。               →【重史007】

  去る七日・八日の比(ころ)歟(か)、
  惟任の妹の御ツマキ、死におわんぬ、
  信長、一段のキヨシなり、
  向州、比類なく、力を落とすなり、
            (「多聞院日記」天正九年1581八月二十一日)

妻木氏は、信長の側近くに仕える高位の女房衆。
「一段のキヨシなり」
信長の、お気に入りであった。

光秀の貴重な情報源であった。
光秀を支えた陰の功労者である。

光秀は、落胆した。
「比類なく、力を落とすなり」
衝撃の程がよくわかる。

光秀は、大きなダメージを受けた。
その損失は、計り知れない。

そのことが、光秀の足を引っ張ることになる。
この重要な時期に。
突然の、情報遮断。
「見えず」
「聞こえず」
これでは、信長の心の内がよくわからない。
これが、「本能寺の変」の十ヶ月前。

そうしている間に、・・・・・。
四国問題が、勃発した。

23/x

天正九年1581、後半。
三好康長から、讒言があったらしい。     →【重史181】「元親記」
おそらく、その様な事があったのだろう。【四国問題】    目次
「或る人」とは、康長のこと。    
元親との関係を考えれば、当然、そうなる。

  然る処に、其の後、
  元親儀を、信長卿へ、
  或る人、さゝへ(妨害)申す、と聞き及び有り申す処に、
 
三好康長は、阿波三好家の元重臣。             →【人物】
当主は、三好義賢(実休=永禄五年1562没)。         →【人物】
三好長慶(大永二年1522~永禄七年1564)の次弟である。    →【人物】
康長は、彼ら二人の叔父にあたる。

天正三年1575 、康長は信長に降った。
この時、仲介したのが松井友閑。             →【人物】
したがって、友閑とは太いパイプで繋がっている。
山城守。
河内の半国守護。
入道して、笑厳(笑岩)を号す。

 →【重史182】②三好笑岩(康長)楯籠る高屋へ取り懸け、『信長公記』
  【重史183】①同卯月十二日朝、友閑 長谷川宗仁「天王寺屋会記」
  【重史184】②友閑を以て、御侘言、御赦免候ひしなり。『信長公記』

信長は、この康長を四国政策に利用しようとしていた。   →そ第11⑩01
四国、四ヶ国。
その北東端が阿波。

三好は、阿波の名家・名門。
信長は、その名を利用しようとしていた。
今に始まったことにあらず。
信長は、そのつもりで康長を赦免したのである。

そして、その時が来た。
康長の願いは、同家の再興。
「元親記」には、信長が康長の言を聞き入れた、とある。

  元親事、
  西国に並びなき弓取り、と申す、
  今の分に、切伐に於いては、連々、天下のあだにも罷り成るべし、
  阿州・讃州さへ、手に入れ申し候はゞ、
  淡州などへ手遣い仕るべき事、
  程は、御座有るまじきと申上、と云々、
                            (「元親記」)

が、・・・・・。

本願寺、退城。                    →そ第7話⑦
これで、状況が変わった。

信長は、先ず、足元を固めた。

 天正八年1580
 八月  本願寺、退城。                『信長公記』
 〃   信長、大和破城命令。            「多聞院日記」
 〃   信長、佐久間信盛を粛清。           『信長公記』
     畿内軍を解体する。
 九月  信長、大和指出命令。            「多聞院日記」 
 十月  光秀、指出の不正者を成敗。         「多聞院日記」
 十一月 家康、高天神城包囲。  
 十二月 元親、信長に伊予鶏献上。         「土佐国蠧簡集」  

士気、きわめて軒昂。
いよいよ、西国へ。
正に、その様なタイミングだった、のである。

そして、動き出した。
それが、四国だった。


 天正九年1581
 二月  信長、京都馬揃え。              『信長公記』
 三月  信長、和泉検地。               『信長公記』
 〃   信長、三好康長を阿波へ派す。       「讃岐国大日記」
 〃   家康、高天神城を落とす。           『信長公記』
 〃   武田勝頼、これを救援できず(弱体化)。     『信長公記』
     家臣らの信望を失うことになる。
 五月  信長、指出の不正により、和泉槇尾寺を焼払う。 『信長公記』
 六月  秀吉、鳥取城包囲。              『信長公記』
 八月  信長、安土馬揃え。              『信長公記』
 〃   光秀、中国出陣の準備をして待機。       『信長公記』
 
信長は、状況の変化に速やかに対応した。
本願寺の退城から、西国攻めへ。
これが、三好康長の起用へと繋がった。

長宗我部元親は、これに反応できず。           →【人物】
歩みが、遅いのである。

四国制覇は、未だ、道半ば。
結局は、時間切れ=間に合わず。
取り残された。

「元親記」は、信長が、約束を違えたと言っている。
だが、それは、筋違いというもの。
   
  信長卿、實(げ)にも(=その通り)とや、思(おぼ)しけん、
  其の後、御朱印の面、御違却有りて、

土佐は、僻遠の彼方。       →ポ02② 本能寺への道 そ第78話⑨
したがって、そこには、情報の受け止め方等に、微妙な温度差のようなものが生ずる。
ズレのようなもの。
どうにもならぬ問題。
全ては、元親次第である。

元親は、生まれて来るのが遅すぎた。           →【人物】
信長、天文三年1534の生れ。
元親、天文八年1539の生れ。
その差は、五年。
これは、大きい。
残念である。 
 
信長には、十分な余裕があった。
西国攻めの準備は、すでに、出来上がっていた。

信長は、目的意識の強い男。
         →【信長という男】 目次
「人間五十年」                    →【重史169】
先を急いでいた。
「天下布武」
大きく、前進した。

そして、その先には、
信長の「さらなる夢」が・・・・・。

信長は、水軍が必要だった。
すなわち、瀬戸内海の制海権確保。
そのための、四国北部=阿波・讃岐・伊予なのである。

ところが、歩調が合わず。
元親は、信長のスピードに、ついて行くことが出来なかった。
阿波統一が、本願寺の降伏(天正八年1580 閏三月)前に、成立していれば、
済んだ話である。

元親は、見通しを誤った。
先を見る目が甘すぎた。
これすなわち、「油断」。
「己の問題」、である。

それだけのこと。

したがって、信長の「違却」などではない。

「元親記」は、元親の死後、その功績を顕彰するために、旧臣の手により
書かれた軍記物。

江戸時代初期の作という。 
元親に仕えた家臣が、主君のことを悪し様に書くはずはない。
そのことを念頭に、ある程度、割引いて、参考にすべきである。
創作・脚色が少なく、優れた史料とされている。

となれば、・・・・・。
信長としては、当然、「己の手で」ということになる。
 
信長にとって、元親の重要度は、大きく減少していた。

あの時(天正六年1578)とは、大違いである。
 
 →【重史180】「元親記」
    ③則ち、信と云う御字を給わる、
    ⑥四国の儀は、元親、手柄次第に、切り取り候へと、

信長は、元親の領地を土佐一国と阿波南半国に定めた。
土佐+阿波南半国。
これまでの事を配慮(+分)したわけである。

  予州・讃州、上表申し、阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべしと、
  仰せられたり、
                            (「元親記」)
だが、しかし、・・・・・。

24/x

元親は、信長の命を受けつけず。            →【重史190】
これを拒否した。

  元親、四国御儀は、
  某(それがし)が手柄を以って、切り取り申す事に候、

  更に、信長卿、御恩義たるべきに非ず、
  存の外なる仰せ、驚き入り申すとて、

  一圓、御請け申されず、

光秀は、再び、使者=石谷頼辰を派した。
斎藤利三   弟 光秀の窓口               →【人物】
石谷頼辰   兄 光政の娘婿               →【人物】   
石谷光政   義父 元親の窓口              →【人物】 
長宗我部元親 義兄弟 光政の娘婿             →【人物】 

  又、重ねて、明智殿より、
  齋藤内蔵助(利三)兄 石谷兵部少輔(頼辰)を御使者に下されたり、

元親は、聞く耳を持たず。
頼辰の説得は、徒労に終わった。

  是れにも、御返事、申し切らるゝなり、
                            (「元親記」)

元親は、急速に、支配地を拡大していた。
これすなわち、兵力強化。
武力=兵数=領土拡大。

大勢の家臣たちが、見ている。
その手前が、あった。
下手に動けば、家中が動揺する。

流動的な時代。
「一寸先は、闇」
何が起きるかわからぬ時代。

元親は、典型的な戦国武将。
強かな男である。

信長の命に逆らう姿勢を見せた。
そういうことになる。

光秀は、出来る男。
キレ者である。
洞察力に優れていた。

信長の性格・気性を知りつくしていた。
    →【光秀という男】
    目次 3/7  4/7  6/7  7/7  【重史241】『日本史』

信長は、専制絶対君主。
己が、天下の支配者であることを強く意識していた。

  人の取扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。
  彼は、日本のすべての王侯を軽蔑し、
  下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。
  そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。
      →【信長という男】 目次 3/5  【重史146】『日本史』

信長は、誇り高い男。

  名誉心に富み、正義において厳格であった。
  彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。
      →【信長という男】 目次 2/5  【重史146】『日本史』

決して、「逆らってはならぬ」のである。

  彼の嗜好や希望に関しては、
  いささかもこれに逆らうことがないよう心掛け、
      →【光秀という男】 目次 6/7  【重史241】『日本史』

難しい状況になって来た・・・・・。

斯くして、天正九年1581は、波乱含みの内に暮れる。



    現在進行中!!




 ⇒ 次へつづく




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