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本能寺の変1582 【重史200】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史200】 『信長公記』

はじめに ←目次 【記事一覧】 
【五大要因】
 
1時代の風潮 2二人の個性 3光秀の苦悩 4武田の滅亡 5信長の油断  
【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
 【四国問題】    目次 【四国問題 概要】   十
 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
 【足蹴事件】 目次 1/3 2/3 3/3 【重史040】 【重史041】
 【信長という男】 目次
 1/5 2/5 3/5 4/5 5/5 結論  【重史146】
 【光秀という男】 目次
 1/7 2/7 3/7 4/7 5/7 6/7 7/7
 結論 目 1/82/83/84/8 目 5/8 目 6/8 目 7/8 目 8/8 目
 【重史241】 1/2 2/2 【重史001】 【重史101】
 【時は今・・・】 目次
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重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 3光秀と光慶  (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】
 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 260129 

【重史200】

①二月廿八日、

②五畿内隣国の大名・小名・御家人を召し寄せられ、

③天下に於て、御馬揃へをなされ、

④聖王へ、御叡覧に備へられ訖んぬ。

⑤儀式の御結構、美々しき有様、筆にも、詞にも、述べがたく、

⑥下京本能寺を、信長、辰の刻(8時頃)に出でさせられ、

                     『信長公記』1/6


 天正九年1581、二月二十八日。           158100228

 「御馬揃への事」
 当日の様子である (1~6) 。

  御馬揃へ、
  二月廿八日、
  五畿内隣国の大名・小名・御家人を召し寄せられ、
  駿馬を集め、
  天下に於て、御馬揃へをなされ、

 正親町天皇が、御覧になられた。
 
  聖王へ、御叡覧に備へられ訖んぬ。
 
  上京、内裏の東に、北より南へ八町に馬場をやり、
  馬場中に、竪(たて)に、高さ八尺に柱を毛氈(もうせん)を以てつゝませ、
  埒(らち==柵)をゆ(結)はせらる。

 正に、「晴れの舞台」。

  抑(そもそ)も、
  禁中東門御築地(ついじ)の外に、行宮(あんぐう)を立てさせられ候事、
  借染(かりそめ)とは申しながら、

  金銀を鏤(ちりば)め、
  清涼殿より、帝・雲客・卿相・殿上人、
  衣香、当りを撥(はら)ひ、四方に薫じ、
  其の数(おお)さも花やかなる御粧(よそおい)にて、御出であり。
 
  摂家・清花の御衆、歴々、甍(いらか)を並べ、
  皇居の四面を守護し申され、
  左右に、御桟敷(さじき)を打たせられ、

  扨(さて)も、儀式の御結構(=内裏)、美々しき有様、
  筆にも、詞(ことば)にも、述べがたく、

  何れも々々々(=観衆)、晴(はれ)ならずと云ふ事なし。

 信長が、本能寺を出発した。
 
  下京本能寺を、信長、辰の刻(8時頃)に出でさせられ、
  室町通りに御上(のぼ)りなされ、一条を東へ。
                          『信長公記』1/6


 【引用】【光秀という男】 目次 結論 目
     【四国問題】 天正八年 天正九年 天正十年 目次



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