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本能寺の変1582 【光秀という男】 結論 4/8 №6-031 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【光秀という男】 結論 4/8     №6-031

はじめに ←目次 【記事一覧】 
【五大要因】
 
1時代の風潮 2二人の個性 3光秀の苦悩 4武田の滅亡 5信長の油断  
【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
 【四国問題】    目次 【四国問題 概要】   十
 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
 【京都馬揃え
 【重史191】 【重史200】 【重史201】 【重史242】 【重史243】
 【さらなる夢】 【重史140】 【重史141】 【重史142】
 【足蹴事件】 目次 1/3 2/3 3/3 【重史040】 【重史041】
 【信長という男】 目次
 1/5  2/5  3/5  4/5  5/5  結論  【重史146】
 【光秀という男】 目次
 1/7  2/7  3/7  4/7  5/7  6/7  7/7
 結論 目 1/82/83/84/8 目 5/x 目 6/x 目 7/x 目 8/x 目
 【重史241】 1/2 2/2 【重史001】 【重史101】
 【時は今・・・】 目次
 0521 目 0526  0527  0528 目 0529
重要 ◎目次 
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 3光秀と光慶  (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】
 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【光秀という男】 結論 4/8             №6-031

天正八年1580、「本願寺、退城」 。
戦いが終われば、粛清が始まる。  →【粛清 佐久間信盛】 【重史163】

信長は、合理主義者。       →【粛清 佐久間信盛】 【重史168】
無駄を嫌う。
「役に立つのか、立たぬのか」
その様な目で、重臣たちを見ていた。

佐久間信盛は、大坂攻めの総指揮。 →【粛清 佐久間信盛】 【重史010】
織田家の重臣筆頭者。  
大身であり、家中最大の軍事力を有していた。

信長は、忍耐強く、執念深い。   →【粛清 佐久間信盛】 【重史167】
根に持つタイプ。
後で、必ず、蒸し返す。


信長は、信盛をよく見ていた。   →【粛清 佐久間信盛】 【重史238】
元亀三年1572、「三方ヶ原の合戦」。
天正元年1573、「朝倉破軍の刻(きざみ)」。

そして、事件が起きた。      →【粛清 佐久間信盛】 【重史010】
信長は、重臣と雖も容赦しない。 
信盛を「追放」
すなわち、「粛清」=排除。

信長は、粛清の人。        →【粛清 佐久間信盛】 【重史163】
不意を衝く。
恐ろしい男なのである。

  
信盛は、非業の最期を遂げた。   →【粛清 佐久間信盛】 【重史010】
十津川の湯にて、死す。      →【粛清 佐久間信盛】 【重史173】

織田家中に戦慄が走った。
特に、重臣たち。
「見せしめ」・・・・・。
そう、思ったに違いない。

光秀は、大きな衝撃を受けた。
「明日は、我が身」、である。

すなわち、
光秀には、粛清への恐怖心があった。
と、いうことになる。

のみならず、秀吉にも、勝家にも・・・・・。
当然、そうなるであろう。

これに、さらに、諸因が積み重なって行く。

それらが、積もりに積もって、
光秀は、苦悩する。

そして、
ついには、極限状態に追い込まれる。

だが、
光秀は、知っていた。
その解決方法を・・・・・。

なれど、・・・・・。

ところが、・・・・・。

光秀は、・・・・・。

それが、「本能寺の変」。

すなわち、
光秀の、粛清への恐怖心が、その一因となった、
と言える。



 ⇒ 次へつづく




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