本能寺の変1582 【重史173】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史173】 「多聞院日記」
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
←【五大要因】 中 小
←1 時代の風潮 1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
3尾張
←2 光秀の実像 1信長という男
2光秀という男
3光秀と光慶 1光秀の素性 2光秀の年齢 3嫡男光慶
4先祖の教訓
5大量殺戮
6信長の弱点
←3 光秀の苦悩 1粛清の怖れ
2志向の相違
3光秀の老い
4四国問題
5自立への道
←4 武田の滅亡 1甲斐遠征
2勝頼の首
3武田効果
←5 信長の油断 「事態急変」
1 勝利の余韻 4月21日 24日
2 四国出陣
3 足蹴事件
4 中国出陣
5 時は今、・・・・・。
←さる程に、不慮の題目出来候て、
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 250817 260321
【重史173】
①佐久間(信盛)、十津川の湯にて、死ぬにつき、
②高野の宿坊の庫(くら)の物、請け取るべきの由、
③悉(ことごと)く 以って討ち殺しおわんぬと云々、
④これにより、諸国の高野聖とらえらる、
⑤高野滅亡、時刻到来か、
⑥惟任日向守、郡山城普請見舞として、
「多聞院日記」
天正九年1581、八月十九日。 158100819
本能寺の変の前年である。
佐久間信盛、十津川の湯にて、死す。
奈良県の最南端、吉野郡十津川村の湯泉地温泉とされる。
紀伊熊野との国境近く、山奥の湯治場である。
療養のため、滞在していたのだろう。
これが、織田家筆頭家老の成れの果て。
哀れな死に様だった。
なお、同村武蔵に、信盛の墓所があるという。
十九日、
一、佐久間(信盛)、十津川の湯にて、死ぬにつき、
高野の宿坊の庫(くら)の物、請け取るべきの由、
信長より、仰せつけられ、上使、指し上せらるゝのところ、
悉(ことごと)く 以って討ち殺しおわんぬと云々、
これにより、諸国の高野聖とらえらる、
近日、手遣ひあるべきの由、沙汰に及ぶと云々、
則ち、来たる廿三日、陣ふれ(触)、これ在りと云々、
高野滅亡、時刻到来か、
この日、光秀は、奈良にいた。
筒井順慶の居城、郡山城の普請を検分するためである。
順慶は、光秀の与力。
その指揮下にあった。
一、惟任日向守、郡山城普請見舞として、
今朝、早々、成身院まで越しおわんぬ、
十新、是へ来しおわんぬ、
成(成身院)にて、一献これ在り、
頓(やが)て、郡山へ同道しおわんぬ、
人数、百計(ばか)り歟と云々、
(「多聞院日記」)
光秀は、そこで、信盛の死を知った。
信盛の姿が、目に浮かぶ。
用が済めば、粛清される。 【重史172】
役に立たねば、粛清される。
邪魔になれば、粛清される。
光秀は、出来る男。
キレ者である。
先が、見えた。
光秀は、典型的な戦国武将。
猜疑心が強く、用心深い。
光秀は、信長を信用していない。
光秀は、粛清を怖れていた。
今、直ぐに、ではない。
なれど、・・・・・。
何れ、必ず、・・・・・。
「油断」しては、ならぬ。
「油断」しては、ならぬ。
己に、言い聞かせた。
廿一日、
今暁、惟任帰られおわんぬ、
殊に儀なく、珍重々々、
【重史007】(「多聞院日記」)
風向きが、変わった。
凶事が、つづく。
光秀は、妻木氏を失った。
この、きわめて、重要な時期に、・・・・・。
「一段のキヨシなり」、とある。
信長のお気に入りだった。
光秀の落胆、大きい。
去る七日・八日の比(ころ)歟(か)、
惟任の妹の御ツマキ死におわんぬ、
信長、一段のキヨシなり、
向州、比類なく、力を落とすなり、
【重史007】(「多聞院日記」)
光秀は、大きなダメージを受けた。
その損失は、計り知れない。
【引用】【重史007】
⇒ 次へつづく
