本能寺の変1582 【重史172】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史172】 『信長公記』
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
←【五大要因】 中 小
←1 時代の風潮 1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
3尾張
←2 光秀の実像 1信長という男
2光秀という男
3光秀と光慶 1光秀の素性 2光秀の年齢 3嫡男光慶
4先祖の教訓
5大量殺戮
6信長の弱点
←3 光秀の苦悩 1粛清の怖れ
2志向の相違
3光秀の老い
4四国問題
5自立への道
←4 武田の滅亡 1甲斐遠征
2勝頼の首
3武田効果
←5 信長の油断 「事態急変」
1 勝利の余韻 4月21日 24日
2 四国出陣
3 足蹴事件
4 中国出陣
5 時は今、・・・・・。
←さる程に、不慮の題目出来候て、
←【注目ポイント】 目次
←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
←【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 260320
【重史172】
①抑(そもそ)も、天下を申しつくる信長に、
②口答申す輩(ともがら)、前代に始り候条、
③遠国へ退出すべき趣、仰せ出ださる。
④取る物も取り敢へず、高野山へ上(のぼ)られ候。
⑤高野を立ち出で、紀伊州熊野の奥、足に任せて逐電なり。
⑥己と草履を取るばかりにて、見る目も哀れなる有様なり。
『信長公記』
天正八年1580、八月**日。 1580008**
【重史163】 1 ~ 2 /19 【重史164】 3 ~ 4 /19 【重史165】 5 ~ 6 /19
【重史166】 7 ~10/19 【重史167】11~12/19 【重史168】13~15/19
【重史238】16~17/19 【重史239】 18~19/19 【重史172】 末尾
折檻状(①~⑲)の末尾部分である 。
信長は、己が天下の支配者であることを強く意識していた。
これすなわち、絶対専制君主。
信長は、天下人。
誇り高い男。 →信03 【重史146】③/⑲『日本史』
信長は、己に口答えする家臣を、決して、赦さない。
忍耐強く、執念深い。 →信10 【重史146】⑩/⑲『日本史』
根に持つタイプ。
後で、必ず、蒸し返す。
光秀は、信長の気性・性格等を知悉していた。
当然、これらのことも、よく知っていた。
なれど、・・・・・。
右、数年の内、一廉(ひとかど)の働きなき者、未練の子細、
今度、保田において思ひ当り候。
抑(そもそ)も、天下を申しつくる信長に、
口答申す輩(ともがら)、前代に始り候条、
爰(ここ)を以て、当末二ケ条(⑱⑲)を致すべし。
請けなきにおいては、二度、天下の赦免、これあるまじきものなり。
天正八年八月 日
(『信長公記』)
しかし、・・・・・。
邪魔に、なったのだろう。
信長は、とうとう、最後まで、佐久間信盛を赦さなかった。
哀れな末路であった。
此の如く、御自筆を以て遊ばし、
佐久間右衛門父子かたへ、
楠木長安・宮内卿法印・中野又兵衛、三人を以て、
遠国へ退出すべき趣、仰せ出ださる。
取る物も取り敢へず、高野山へ上(のぼ)られ候。
爰にも、叶ふべからざる旨(むね)、御諚に付いて、
高野を立ち出で、紀伊州熊野の奥、足に任せて逐電なり。
然る間、譜代の下人に見捨てられ、かちはだし(徒歩裸足)にて、
己と草履(ぞうり)を取るばかりにて、見る目も哀れなる有様なり。
(『信長公記』)
斯くして、佐久間信盛の粛清は、完了した。
用が済めば、粛清される。
役に立たねば、粛清される。
邪魔になれば、粛清される。
このことが、光秀の脳裏から、離れない。
【引用】
⇒ 次へつづく
