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本能寺の変1582 【重史173】 250817 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史173】 「多聞院日記」    250817

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 250817 

【重史173】                    250817

①佐久間(信盛)、十津川の湯にて、死ぬにつき、

②惟任日向守、郡山城普請見舞として、

                      「多聞院日記」


 天正九年1581、八月十九日。
            158100819

 佐久間信盛、十津川の湯にて、死す。
 奈良県の最南端、吉野郡十津川村の湯泉地温泉とされる。
 紀伊熊野との国境近く、山奥の湯治場である。
 療養のため、滞在していたのだろう。
 
 これが、織田家筆頭家老の成れの果て。
 哀れな死に様だった。

 なお、同村武蔵に、信盛の墓所があるという。

  十九日、
  一、佐久間(信盛)、十津川の湯にて、死ぬにつき、

    高野の宿坊の庫(くら)の物、請け取るべきの由、
    信長より、仰せつけられ、上使、指し上せらるゝのところ、
    悉(ことごと)く 以って討ち殺しおわんぬと云々、

    これにより、諸国の高野聖とらえらる、
    近日、手遣ひあるべきの由、沙汰に及ぶと云々、
    則ち、来たる廿三日、陣ふれ(触)、これ在りと云々、
    高野滅亡、時刻到来か、

 光秀は、奈良にいた。
 筒井順慶の居城、郡山城の普請を検分するためである。
 順慶は、光秀の与力。
 その指揮下にあった。

  一、惟任日向守、郡山城普請見舞として、
    今朝、早々、成身院まで越しおわんぬ、

    十新、是へ来しおわんぬ、
    成(成身院)にて、一献これ在り、

    頓(やが)て、郡山へ同道しおわんぬ、
    人数、百計(ばか)り歟と云々、
                          (「多聞院日記」)

 光秀は、信盛の死を知った。
 信盛の姿が、目に浮かぶ。

 用が済めば、粛清される。               【重史172】
 役に立たねば、粛清される。
 邪魔になれば、粛清される。
 
 信長は、典型的な戦国武将。
 猜疑心が強く、用心深い。

 光秀も、これに同じ。
 疑い深く、用心深い。

 光秀は、出来る男。
 キレ者である。
 信長の性格を知り尽くしていた。

 先が、見えた。

 光秀は、信長を信用していない。

 光秀は、粛清を怖れていた。
 今、直ぐに、ではない。
 なれど、・・・・・。
 何れ、必ず、・・・・・。

 「油断」しては、ならぬ。
 「油断」しては、ならぬ。
 己に、言い聞かせた。

 光秀のピークは、過ぎた。
 年齢・・・・・。
 そういうこと、なのだろうか・・・・・。
 何か、これまでの、キレの様なものが無いように感じられる。

 光秀は、閑職に近い状態に置かれていた。
 秀吉の活躍に比べれば、そう、見えるのだが・・・・・。

 信長は、水軍力を強化しようとしていた。
 毛利攻めを考えれば、当然、そうなる。

 信長は、三好康長を阿波・讃岐へ送り込んだ。
 すなわち、四国問題について、
 信長が、直接、関与する、
 =元親の、四国統一作戦が、潰えた、
 と、いうことである。 

 光秀は、長宗我部への思い入れが強すぎた。
 石谷頼辰・斎藤利三は、元親の義兄。

 信長は、秀吉に、淡路島・阿波・讃岐・伊予への介入を許可した。
 秀吉は、信長の意向を、先取りするような形で動いていた。
 二人の関係は、きわめて良好である。

 これすなわち、三好康長の支援。
 そういうことに、なる。
 これに、松井友閑・津田宗及が加わった・・・・・。

 光秀は、秀吉に、大きく差をつけられた。
 光秀が、立ち止まっている間に、秀吉が、大逆転したわけである。  


 【引用】【重史007】

 【参照】【四国問題】
    
天正八年1580
    天正九年1581
    天正十年1582



 ⇒ 次へつづく

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