本能寺の変1582 【重史242】 『信長公記』 №6-033 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史242】 『信長公記』 №6-033
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信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史242】 №6-033
①二月十九日、北畠中将信雄卿・中将信忠卿、御上洛。
②二月廿日、信長御出京。
本能寺に至つて御座を移さる。
③二月廿三日、きりしたん(切支丹)国より黒坊主参り候。
『信長公記』
天正九年1581、二月二十三日。 158100223
二月二十日。
信長が上洛した。
宿所は、本能寺。
二月十九日、北畠中将信雄卿・中将信忠卿、御上洛。
二条妙覚寺に御寄宿。
二月廿日、信長御出京。
本能寺に至つて御座を移さる。
同二十三日。
イエズス会の巡察師ヴァリニャーノが信長に拝謁した。
フロイスとオルガンチーノが、これに同行。
信長は、これを大いに歓待した。
「長時間種々のことについて語った」
「信長としては非常な好意であった」
「諸人皆驚いた」
と、ある。
【参照】「イエズス会日本年報」上124P
信長は、初めて黒人を見た。
二月廿三日、きりしたん(切支丹)国より黒坊主参り候。
年の齢(よわい)廿六、七と見えたり。
惣の身(全身)の黒き事、牛の如し。
彼の男、健やかに器量(立派な体格)なり。
しかも、強力十の人に勝(すぐ)れたり。
伴天連、召し列れ参り、御礼申し上ぐ。
誠に御威光を以て、古今承り及ばざる三国(日本・中国・インド)の名物、
か様に希有の物ども、細々拝見、有りがたき御事なり。
(『信長公記』)
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