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本能寺の変1582 【重史242】 『信長公記』 №6-033 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史242】 『信長公記』     №6-033

はじめに ←目次 【記事一覧】 
【五大要因】
 
1時代の風潮 2二人の個性 3光秀の苦悩 4武田の滅亡 5信長の油断  
【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
 【四国問題】    目次 【四国問題 概要】   十
 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
 【足蹴事件】 目次 1/3 2/3 3/3 【重史040】 【重史041】
 【信長という男】 目次
 1/5 2/5 3/5 4/5 5/5 結論  【重史146】
 【光秀という男】 目次
 1/7 2/7 3/7 4/7 5/7 6/7 7/7
 結論 目 1/82/83/84/8 目 5/8 目 6/8 目 7/8 目 8/8 目
 【重史241】 1/2 2/2 【重史001】 【重史101】
 【時は今・・・】 目次
 0521 目 0526  0527  0528 目 0529
重要 ◎目次 
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 3光秀と光慶  (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】
 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史242】                    №6-033

①二月十九日、北畠中将信雄卿・中将信忠卿、御上洛。

②二月廿日、信長御出京。
 本能寺に至つて御座を移さる。

③二月廿三日、きりしたん(切支丹)国より黒坊主参り候。

                       『信長公記』

 
天正九年1581、二月二十三日。
             158100223

二月二十日。
信長が上洛した。
宿所は、本能寺。
 
 二月十九日、北畠中将信雄卿・中将信忠卿、御上洛。
 二条妙覚寺に御寄宿。
 
 二月廿日、信長御出京。
 本能寺に至つて御座を移さる。

同二十三日。
イエズス会の巡察師ヴァリニャーノが信長に拝謁した。

フロイスとオルガンチーノが、これに同行。

信長は、これを大いに歓待した。
「長時間種々のことについて語った」
「信長としては非常な好意であった」
「諸人皆驚いた」
と、ある。

 【参照】「イエズス会日本年報」上124P

信長は、初めて黒人を見た。
 
 二月廿三日、きりしたん(切支丹)国より黒坊主参り候。
 年の齢(よわい)廿六、七と見えたり。
 惣の身(全身)の黒き事、牛の如し。
 彼の男、健やかに器量(立派な体格)なり。
 しかも、強力十の人に勝(すぐ)れたり。
 伴天連、召し列れ参り、御礼申し上ぐ。
 誠に御威光を以て、古今承り及ばざる三国(日本・中国・インド)の名物、
 か様に希有の物ども、細々拝見、有りがたき御事なり。
                           (『信長公記』)


 【引用】【光秀という男】 目次 結論 目 
     【四国問題】 天正八年 天正九年 天正十年 目次



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