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本能寺の変1582 【光秀という男】 目次 1/7 №6-021 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【光秀という男】目次 1/7     №6-021

はじめに ←目次 【記事一覧】 
【五大要因】
 
1時代の風潮 2二人の個性 3光秀の苦悩 4武田の滅亡 5信長の油断  
【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
 【四国問題】    目次 【四国問題 概要】   十
 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
 【足蹴事件】 目次 1/3 2/3 3/3 【重史040】 【重史041】
 【信長という男】 目次
 1/5  2/5  3/5  4/5  5/5  結論  【重史146】
 【光秀という男】 目次
 1/7 目  2/7 目  3/7 目  4/7 目  5/7 目  6/7 目  7/7 目  結論 目 
 【重史241】 1/2 2/2 【重史001】 【重史101】
 【時は今・・・】 目次
 0521 目 0526  0527  0528 目 0529
重要 ◎目次 
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 3光秀と光慶  (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】
 【信長の人物像】 6 7 8 9 10
【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【光秀という男】目次 1/7              №6-021

【光秀という男】 目次

1/7 目 

これが、光秀の実像=真の姿である。            『日本史』
フロイスが証人。
光秀を、よく見ていた(①~㉕) 。
要注意!!
「要因」の一つが、この中にあり!!

①信長の宮廷に
 惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。
②彼(光秀)はもとより高貴の出ではなく、
③信長の治世の初期には、
 公方様の邸の一貴人兵部太輔と称する人に奉仕していた
④その才略、深慮、狡猾さにより、
⑤信長の寵愛を受けることとなり、
⑥主君とその恩恵を利することをわきまえていた。
⑦殿内にあって彼は余所者であり、外来の身であったので、
⑧ほとんどすべての者から快く思われていなかった
⑨寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。
⑩裏切りや密会を好み、
⑪刑を科するに残酷で、
⑫独裁的でもあったが、
⑬己を偽装するのに抜け目がなく、
⑭謀略を得意とし、
⑮忍耐力に富み、
⑯計略と策謀の達人であった。
⑰築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、
⑱選(え)り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。
⑲絶えず信長に贈与することを怠らず、
⑳彼(信長)を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、
㉑彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないよう心掛け、
㉒必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。
㉓人を欺くために七十二の方法を深く体得し、かつ学習した
㉔信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、
㉕信長は彼を丹波、丹後二ヵ国の国主に取り立て、
㉖比叡山の大学(延暦寺)の全収入・・・とともに彼に与えるに至った。



 ⇒ 次へつづく




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