本能寺の変1582 【光秀という男】 結論 6/x №6-039 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【光秀という男】 結論 6/x №6-039
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
→【ここがポイント!!】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【光秀という男】 結論 6/x №6-039
「御馬揃の事」
その当日である。
それは、正親町天皇御叡覧のもとで始まった。
二月廿八日、
五畿内隣国の大名・小名・御家人を召し寄せられ、駿馬を集め、
天下に於て、御馬揃へをなされ、
聖王へ、御叡覧に備へられ訖んぬ。
【重史200】『信長公記』
正に、「晴れの舞台」。
扨(さて)も、儀式の御結構(=内裏)、美々しき有様、
筆にも、詞(ことば)にも、述べがたく、
何れも、々々々(=観衆)、晴(はれ)ならずと云ふ事なし。
【重史200】『信長公記』
光秀は、先頭集団の三番手として登場した。
一番、丹羽長秀。
二番、蜂谷頼隆。
三番、明智光秀。
三番、惟任日向守、幷(なら)びに大和・上山城衆。
【重史201】『信長公記』
四番、村井貞成。
信忠以下、織田家の一族衆がこれにつづく。
これで、序列がよくわかる。
御連枝の御衆。
中将信忠卿、馬乗八十騎、美濃衆・尾張衆。
北畠中将信雄、馬乗三十騎、伊勢衆。
織田上野守信兼、馬乗十騎。
同三七信孝、馬乗十騎。
同七兵衛信澄、馬乗十騎。
同源五(長益=弟十男)。
同又十郎(長利=弟十一男)。
同勘七郎。
同中根(信照=弟)。
同竹干代(信氏=甥)。
同周防。
同孫十郎。
【重史201】『信長公記』
その後に、
近衛前久他公家衆、
細川信良他旧幕臣衆、
信長の馬廻・小姓衆、
と、つづき、
柴田勝家も、越前衆を率いて参加していた。
越前衆。
柴田修理亮・同伊賀(勝豊)・柴田三左衛門、
不破河内守(光治)・前田又左衛門(利家)・金森五郎八(長近)・
原彦次郎(政茂)。
【重史201】『信長公記』
秀吉は、これには、参加していない。
秀吉は、播磨(姫路)にいた。
信長の側近 長谷川秀一に送った書状(三月五日付)の中で、
「参加できず、残念である」、と言っている。
【参照】 【重史202】 ✓ 天正09 158100305
①今度、御馬揃の儀、夥敷(おびただしく)、相聞え申し候事、
②参上せしめず候段、無念に存ずる計(ばか)りに候、
③爰元、(姫路城の)普請等、漸(ようや)く出来候、
「富田文書」
⇒ 次へつづく
